9:窓と庭園と、スプラッタメイク
帽子のおっちゃんは、ハゴムと名乗った。なんだか悪霊の神を信奉してそうな名前だとか思ったが、さすがにひどい言いがかりなので黙っておく。ハゴムは、わたしが事件のあった部屋を見たいと言うと難色を示した。
「いいか、あの部屋はまだ血まみれだ。死んだ人間特有の腐敗臭もまだ残ってる。
たとえ薹が立っているとはいえ、そんな場所に女を入らせるわけにはいかん」
ううん……ロンゴイルさんのみならず、ハゴムのおっちゃんにまで。
これはどうも、ひょっとすると。
「……もしかして、そんなにひどい状態なんですか?」
踏み込んだのは、ベル君だ。
ハゴムは帽子を深くかぶり直して頷いた。
「そうだ。生きたまま首を掻っ切られたらしい」
人間の大まかな身体構造はこの世界でも同じようで、例えば食べすぎて重たく感じるのは胃であるとか、心臓は胸の少し左にあるとか、弁慶の泣き所は叩かれたら痛いとか、そういうことに違いを感じたことはない。なので、人間の血液は心臓がポンプのように押し出すことで循環しているのも、同じなのだろう。
何が言いたいかって言うと、つまり、細いホースから勢いよく押し出された水は結構飛び散りまくるという話であり、この場合のホースは首の血管で、水は当然赤い血だ。
そりゃあ臭いもすごかろう。想像しそうになって、嫌になってやめた。
空気に晒された血のにおいがどれだけキツイか、知らない成人女性はまずいない。
「……だがまあ、話をするくらいはできる。ついてこい」
ハゴムはそう言うと、木賃宿の裏手に回ろうとする。
このまま門前払いコースかなと思っていたから、急に態度が軟化したことの方に驚いた。
「いいの?」
「何か理由があるんだろ。なら構わん。
ただ興味本位で見たいだけだったとしたら、さっきのを聞いて目を輝かせただろうからな」
思わず何度か瞬きをした。
「さっきのって……首をって話?」
「そうだ。世の中にはいろんな趣味の持ち主がいる。血まみれの宿屋なんざ、怪談には最適だろうさ」
ああ……つまりそれって、スプラッターな。ホラー趣味はこの世界にも存在するということらしい。いやまあ、わからなくはないけれど。ゾンビ映画なんていつも一定の需要があるものだし、ここ数年は秋も10月の末ごろまでは夕方から夜の大阪環状線に乗るとやたらリアルなゾンビメイクに出くわすと評判である。大きなテーマパークでお金払ってリアルなのやってもらえるってんで、つけたまま電車にのっちゃうんだそうで、ホラー嫌いの大阪人が毎年嘆いていた。確かに興味のない人間にとっては、見かけた時点でイヤな話だろう。
どこかうんざりした、投げやりなその物言いは、彼が既に何度かそういった面倒事に巻き込まれたことを示している。建物と建物の細い隙間を、身体を横にして縫うようにずんずんと進んでいくおっちゃんのあとを、私は慌ててついて行った。
「あっ」
後ろからガチャン、という金属音がして、ベル君が情けない声をあげる。まだ成長期にあるのだろう彼の体は決して小柄ではないし、さらにその身を覆う鎧が引っかかって、進めないらしい。体を半分捻って――わたしはちょっと斜めになるくらいで通れる――ベル君に「鎧を預かってもらってきたら」とだけ言って、裏手に向かった。
「あの部屋だ」
裏手は少し広くなっていて、フラワーアーチがある少し小洒落た庭園のようになっている。ただし、そんなに大きくないし長年手入れされた様子もない、が付くが。ハゴムはその中に躊躇なく踏み入ると、まっすぐに木賃宿の上の方を指し示す。
「あのって……あれ?」
二階建て、なのだろう。建物自体もそう大きな方ではないし、というか多分、表に面した宿街のどの宿よりも小さいし、隣の建物と見比べても庭園の分だけ狭くなっているその宿の壁面には、木の蓋を下ろした窓らしきものがいくつか並んでいる。
その中にひとつだけ、蓋のない穴があった。
「そうだ。あの部屋で、事件があった」
二階だ。わたしはその真下まで行ってみようとした。草がぼうぼうに生い茂ったあと、枯れて、さらにまた伸びてを繰り返したのだろう荒れた庭の、本来は中核だったのだろう大きな木が邪魔をして、近寄りにくい。途中で断念する。
「ううん……窓が外れてるって、何かあったの?」
「知らん。いつから外れていたのかもわからん」
言い捨てた様にびっくりして、わたしはハゴムを二度見した。
「え、ええ? だっておっちゃん、この宿の……」
「オレはただ場所を貸すだけだ。壊れたら壊れたで、それまでの話。その代わり格安で誰にでも貸していたんだ、文句があるならよそへ行けばいいだけのこと」
随分と捨て鉢で、もったいない話だ。おそらくこの木賃宿は、もとはこの庭を楽しめるのを売りにした、ちょっと洒落た宿だったのだろう。各部屋から庭園が見えるようになっているのがその証拠だ。だけどいつしか――そう、多分、隣の国との交流がなくなって行き来する人が減り、そしてついに鎖国にいたり旅人が減るに至って、管理をするはずの人間が、やる気を失ってしまった。
せっかくの庭園も、これじゃあ……わたしはガーデニングに対し知識もなければ当然スキルもない。それでも細い木で組まれたアーチに絡みつく枯れた蔦の様子に、かつては丹精込めて手入れされていたのだろうということぐらいは理解できる。
「……誰もこの庭、手入れをしてないの?」
「昔はオレの妻がやっていた。今は誰も手を出す者がいない」
ううん……なんか、踏み込んじゃいけない話っぽいなぁ。わたしはいろいろもやもやしたものを抱えながら、木の周りを見る。
そこには、二人で座れそうなベンチがあった。
細い場所を通ってくるのに、何度か痛めた足で地面を踏みしめている。ちょっと休ませてもらおうかな、とそれに腰をかけた。
「おい、何をしている。……待て、それはダメだ――ああ……」
「もう少しだけ、はやく、教えてほしかった……」
腰を下ろした次の瞬間にはめきりという音がして板が割れ、わたしは地面に思いっきり全体重で尻もちを付く形になった。しかも、それはベンチではなかった。
「おしりだけじゃなくあたままで!」
ごん、と後ろから細いものが突撃してくる感覚に、わたしは喚き散らす。
ベンチだと思っていたものは実はブランコで、横の木の枝にくくりつけられていたのだ。小さい時に、ブランコから落ちたことはないだろうか。そして落ちた後に立ち上がろうとして、後ろからブランコの追撃を受けたことは。今のわたしは文字通りの、そんな状況である。
おとなになってこの失敗は、心がつらい。
遠い目をしたくなって、わたしは空を仰いだ。
枝が邪魔で空は見えなかった。




