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神鳴様が見ているよ

作者: kayouko

夏の物語です。泣いてばかりの主人公ですが、最後は、ハッピーエンドで、蒼と甘くイチャイチャさせます。

 夏の真っ青な空に、くっきりとした形の綿菓子みたいな雲。

 入道雲は、神鳴様かみなりさまが来る合図。


「カミナリはね、神鳴様っていう神様なのよ」 


 幼い頃、雷鳴が聞こえると、あおとふたりで泣きそうになりながら、おばあさんの所へ逃げ込んだ。

「大丈夫よ、怖くないわ。あれはね、神鳴様っていう神様が空で音楽を奏でてるのよ。神鳴様がドーンドーンって空を叩くと光になって稲妻になるの」

 扇風機の柔らかい風、おばあさんのふんわりと頭を撫でる優しい手と物語を聞くような神鳴様のこと。

「大丈夫よ、眠りなさい。理和りわと蒼が寝ている間に、音楽は終わって、神鳴様は、いってしまうからね。眠っちゃいなさいな、おやすみ、ね」

 大きな神鳴様の音楽が聴こえていても、おばあさんの〝大丈夫よ〟と〝眠っちゃいなさい″のほうが耳に残って、安心して、いつも、いつのまにか、眠りに落ちる。

 そして、言葉通り、蒼と起きる頃には、神鳴様は、どこかにいってしまっていた。

 だから、私は神鳴様が来ると、祖母のその言葉を思い出して、よく眠ってしまう。

 すると、誰かが、上掛けをかぶせて、髪をなでてくれる。それが、心地よくて、神鳴様の音楽を遠くで聴きながら、深い眠りに落ちる。



 うつらうつらの意識の中、遠くから、聞えてくる会話。

「あー、理和、こんなとこで寝てるわー。蒼ー!」

「なんだよ」

「理和になんか、かけてあげてよ」

「んー」


 近づいてくる足音、ふわりと体に何かがかぶせられて、すこし冷えた体にちょうどいい温もり。

 頬の髪をすいて、耳にかけてくれる優しい指先。時折、触れる柔らかい感触も全然、眠りの邪魔をしない仕草は心地よく、されるがまま。

 耳に届く、神鳴様の雷鳴も雨音もいつのまにかの眠りに落ちて感じなくなっていく。 


 部屋が明るくなって、セミの鳴き声が聞える頃、目覚める。

 今日は、ピアノの部屋で眠っていた。目をこすりながら、起き上がると蒼が窓際で足を投げ出して座って、本を読んでいた。

 何かに気づいたように、不意に本から顔を上げて、私を見止める。

 こんなお昼寝上がりに、蒼が側にいるときは、大概、彼が上掛けをかぶせてくれている。

「蒼、上掛け、ありがとう」

 彼は、ちいさくうなずいて、微笑む。

「どーいたしまして」


 学校で、蒼を見つけたり、すれ違う時、お互い手を振る。

 友達が通り過ぎた蒼に視線を移しながら、

「蒼君って、彼女作んないの?」

 一度、それ聞いたら、すごい不機嫌そうに睨まれたから、もうしないようにしてる。

「うーん?」

「前にヨソの学校の娘が、告ってたよ」

「え、そうなんだ。モテるなぁ」

「理和は、いつも一緒だから、わかんないのよ。蒼君、カッコイイじゃない」

 それは、認める。お母さん似の細い顔つきで、目元は切れ長できりっとして、いつもクールな大人の表情をしてる。

「前に告白した娘は、誰とも、つき合うつもりないって言われたって」

「え、そうなの」

「好きな娘がいるっぽいニュアンスがあったらしい。理和、知ってる?」

「……知らない。聞いたこと、ない」

 蒼の好きなひと、好みの女の子なんて、考えたことなかった。でも、そういうひとがいたって、おかしくはない。

 そして、ふと気がついた。

 変なの、そういう話しを蒼としたことがない。蒼も私にそういうの聞いてきたことがない。

 なんでだろう。

 首をかしげて、記憶を手繰るように、視線を上にした私を友達は不思議そうに眺める。

「蒼君に興味ないんだなー、理和」

「イヤ、そんなことは、ない、ケド」

「一応、おねーさん、でしょ」

「ん、ま、一応、はね」

 一応なのは、蒼とは同い年、誕生日も私が一日早いだけのお姉さん扱いだから。実際、蒼から、一度もお姉さんと呼ばれたこともないし。

「その気になれば、結婚だってできるのよ。どうよ、蒼君」

「んー、もうずっと一緒にいるからなぁ。双子の姉弟って感じだな」

「そういうもんかー」

「うん、そういうもん」


 蒼とは同じ保育園に通っていて、そこで知り合った両親が再婚をした。

 どんなに記憶をさかのぼっても、蒼とお母さんは存在してるくらい、ずっと一緒にいる。

 保育園でも家でも、ずっと蒼と一緒にいた。知らないうちに姿を見失うとお互い探し合って。

 おばあさんのピアノの部屋。

 ピアノの蓋を開けて、一音鳴らして、椅子に座る。

一回ノックの後、返事を待たずにドアが開く。そちらに顔を向けると、蒼が、ドアから顔だけ出していた。

「見てていい? 理和ちゃん」

 のぞき見してるような仕草。蒼を見て、はじけるように笑う。

「うん、蒼君、おいでっ」

 彼は、持ってきた椅子に飛び乗るように座り、

「ピアノ弾いてる理和ちゃん、好き」

 彼のニコニコ笑顔が大好きでつられて、私もいつもニコニコ。

「えへへ」

 いつものやりとり。いつから始まったのか、もう忘れてしまうくらい遠い。

 いつのまにか、『ちゃん』と『君』が無くなって、お互い、呼び捨てで呼び合うようになって。

 どこの姉弟とも同じように。

 いつのまにか。

 お風呂も、着替えもひとりになって。

 一緒の部屋で寝起きしてたのが、別々の部屋になって。

 そうして、蒼とすこし、よそよそしくなってくると、

「ちょっと前まで、あんなにベタベタくっついてたのに」

 母や父の言葉で蒼と目を合わせて、お互い照れくさそうに、苦笑いをしたり。

 ピアノを聴くときの蒼は椅子の座り方が変わった。椅子の背を私の方に向けて、背を抱えるように座る。 

 足を投げ出して座るのは、身長が伸びきて、このほうが楽だから、らしい。

「足が長いもんで、さ」

「ナマイキ!」

 本当に、あっという間に大きくなっていく。身長、追い越されたな、と思ったら、体のどのパーツも、私より、大きく長く、なっていった。

 私なんか、丸ごと包み込まれてしまいそうなくらいに。

 いつのまにか。

 

 今は亡くなった祖母がこの家で、ピアノ教室をやっていたことがあって、ピアノの部屋がある。

 ピアニストを目指すことはなかったけど、ピアノを弾くことが好きで祖母に教えてもらった。今では、自分で好きな曲をアレンジして奏でるのが、趣味になっている。

 ピアノの蓋を開けて、一音鳴らして、椅子に座る。

 楽譜をめくっていると、一回ノックの後、返事を待たずにドアが開く。

 そちらに顔を向けると、蒼が、ドアから顔だけ出していた。

「見ていい? 理和」

「うん、どうぞー」

 彼は、持ってきた椅子の背を私の方に向けて、背を抱えるように座り、足を投げ出す。

「ピアノ弾いてる理和、見るの、好き」

『好き』という言葉に反応して、笑顔の彼を見て、同じように微笑むのは、いつものやりとり。  

 でも、すぐに、鍵盤に視線を移す。

 いつだったか、蒼とそのまま、見つめ合ってしまって、動けなくなった。

 それは、ほんの、ひとときだったと思うけど、とても長く感じていた。

 そのとき、前触れもなく、ピッシャーンと渇いた音の雷鳴。お互い、ビクッと体をはじかせて、顔をそらした。

 思わず胸を押さえた。

 心臓が、止まっていたような気がした。息も忘れていたように、慌てて、短く吸い込む。

 とくとくと、止まっていた血液が急に流れるような早い鼓動は、雷鳴に驚いたせいなのか、なにかの緊張から解放されたせいなのか、わからないまま。

 次に、同じようなことになったら、どうしたらいいのか、わからないから、蒼から、瞳を外してしまうようになった。

 いつのまにか。

 聴こえないけど、蒼の声が聴こえた気がして、振り返ったり、顔を上げると、蒼の視線がある。

 不思議なことと思って、蒼を見つめて首をかしげると、彼は、瞬きをして、ほっと息をつくように、肩を下げる。

 ひととき、見つめ合って、同時に視線を外すのも、いつのまにかの、こと。



 高校からは別々のところに通っていた。

 ある日、蒼が友達を家に連れてきて、母が留守だったから、私が、彼の部屋にお茶を持っていった。

 ノックして、出てきた蒼にお盆を手渡す。

「ありがと」

 ちらっと、部屋の奥に視線を送ると、蒼と同じ制服の男の子がいた。知らない顔、高校からの知り合いということ。

 蒼の背中に、声がかかる。

「え、蒼、そちらはどなただよ。きょうだい?」

 一瞬、蒼が眉をしかめて、後ろに振り返る。

「だよ」

「あ、姉です、こんにちわ」

「お姉さんかー、蒼、そんなんいること、話したことないじゃん」

「必要なかったからだろ」

 私に顔を戻したときの蒼の表情は、瞳を細めて不機嫌そう。そして、そっと、肩を押される。

「もう、閉めるぞ」

「う、うん」

 なんとなく、早く行けと追い払われた気がした。


 友達が帰ったあと、お盆を戻しに来た蒼が、

「姉なんて、言うなよ」

 私を見ないで話し出し、使ったものを流しに置いている。

「でも、一応、姉だし、他に言いようがないから」

「それが、すぐ出てくることが、イヤなんだよ。義理の姉弟です、でいいだろ」

「あ、そうなのか」

 蒼は、視線を前に、どこも見ていない、ぼんやりとした表情をしている。

「もしくは、俺のカノジョって言っとけ」

 ポンと手を叩くと、ようやく、私の方に視線を向けた。

「あっ、そういう冗談でも、いいわね。ウケそう」

 一瞬、蒼の瞳が揺れて、そのまま、床を見るように、首を折って、はっと一笑いした。

「……そうだな」 

 


 

  

 蒼は、大学進学から、家を出て、ひとり暮らしを始めた。

 そんなに、遠くない学校なのに、ゼミの関係で、遅くなったり、そのまま泊まることがあって、不規則な生活になりそうだからだとか。

 ゴールデンウィークのあと、夏休みに入ってからの帰省は、私のバースディイブ。

「ただいまー」

 ちょうど、楽譜を持って、廊下に出たところ、蒼が帰ってきた。

「おかえりなさい」

「母さんは?」

「お買い物、きっと時間かかるわ。蒼が帰ってくるんだもん、はりきって、色々、作るわよ」

 蒼は、視線を上にして、鼻をピクピク動かした。

「あ、私、ビーフシチュー、もう作ってあるの」

 彼はうなずいて、ニコッと嬉しそうに笑う。この子供の頃から変わらない笑顔に私もつられて微笑む。

「楽しみ、理和が作ったの、好き」

 とくんと慣れた音が胸で鳴る。〝好き〟小さい頃から蒼がよく使う嬉しい言葉。いつも、耳をくすぐられるようで、こそばゆい感じがするけど、心地いい。

 靴を脱いで、私の正面に立った彼を見上げる。しばし、見つめてると、蒼は私を覗き込んで、

「ん? どうした」

 少し、違和感。どことなく彼が変わった気がするから。

「あれ、痩せた? ん、背、伸びたんだ? まだ、伸びてんの」

 彼は首をかしげて、頬に手を当てて撫でた。

「そ、痩せてはない。すこし背が伸びたから、縦に長く見えるせいデショ」

「はー、まだ伸びるんだー。しばらく見ないと、男の子って変わるもんねぇ」

 蒼は、はっと、一笑いして、

「それ、親戚や近所のおばさんの反応だ」 

「ウルサイ。さっさと洗濯物出しなさい。洗ったげるから」

 と、手を蒼に向けて差し出す。

「ははっ、母さんみたいだ」

 差し出した手で彼の腕をつつく。

「ハイハイ、はーやーくっ」

「ハイハイ。あ、ピアノ弾くの?」

 私の横を通って、立ち止まり、私の手の中の楽譜に触れる。

「うん。お母さん、帰って来るまでね」

「聴きたい、行っていい? アレ、弾いてよ」

「いいよ。ほら、洗濯物、持ってきて」

 しっしっと、追い払うように手をはらう。蒼が笑う。

「おかん、だ」

「お姉さんです。明日、お誕生日ですヨ」

 笑っていた蒼の表情が、すっと、無表情になった。私は、どうした? と言うように、首をかしげた。

 すると、きゅっと口を引き締めて瞳をそらしてから、体をひるがえして歩き出した。

(機嫌悪くなった? どうして)


 キッチンで、アイスコーヒーを入れていると、パタパタと足音。

「洗濯入れたよー。お願い」

 表情がいつも通り彼の戻ってたから、ほっとする。

「わかった。コーヒー、どうぞ」

「ありがとう」

「洗濯機回したら、ピアノ弾いてるね」

「うん、飲んでから行く」


 ピアノの蓋を開け、楽譜を置いて、一音響かせる。 

 ふと、窓の外を見ると、大きな入道雲。見える空の半分を覆ってる。

「神鳴様がいらっしゃるわー」

 よく祖母が雷が来るとそう言っていて、うつっちゃった言葉。なんとなく、気に入ってるから、自分も使う。

 カサカサと木の枝が、こすれる音が聞える。風が出てきたから、もうすぐ、雷が来るだろう。

(うーん、洗濯、外に干せないかな)

 夏場はすぐに乾くから、蒼のをさっさと、洗濯してたのにな。

 ノック一回でドアが開いた。

「あ、ここ快適、涼し。れ? どうしたの、理和」

 窓に手を置いて、顔だけ、蒼に向ける。

「ん、もうすぐ、神鳴様いらっしゃるから、洗濯干せないなーって」

「え、そうなの?」

 彼と入れ替わりに、私は窓から離れて、ピアノの前に座る。指を一本ずつ回して、下におろして、手首と一緒にぶらぶらは、ピアノ弾く前のルーティン。

(さて、何を弾こうかな)

 ちらりと、蒼の方を見ると、背を窓に預けて腕を組んで、私を見ていた。

「椅子に座ればいいのに、いつもみたいに」

 蒼は、はっとしたように、体をビクッとして瞳を見開いて、驚いた表情をした。

「ん、そか」

 いつもと同じ位置に椅子を置いて、椅子の背の上に腕を置き、顎を乗せてこちらを見るスタイルは、いつも。このほうが、なんとなく私も落ち着く。

「ピアノ弾いてる理和、見るの、好き」

 そして、いつものセリフ。何度、聞いても、耳心地がいい響きで口元が緩んでしまう。

「うん」

 いつから、だったんだろう。

 彼の『好き』を聞くと、嬉しくなるのは。それは、ずっと小さい頃からの気がする。

 手を上げて、始めの一音って、ところで。

 近い音で、バリバリッ ピッシャーン、ゴゴゴ…… 鼓膜に響く渇いた雷鳴。

「来っちゃったなー、神鳴様。派手だなぁ」

 蒼も私と同じで祖母の影響で雷を神鳴様と言う。手を膝の上に置き、窓の方へ向かう蒼の背中を見る。

 ドーンドーンと大きく空いっぱいに広がる雷鳴。

 楽譜を持って、ピアノの蓋を閉める。すると、蒼が振り向いて、

「もう、弾かないの?」

「これじゃ、音わかんないし、神鳴様いっちゃったら、お母さんが帰ってくるだろうしね」

 サーッと雨音が聞えると、外が薄暗くなり、部屋は、それよりも暗くなる。

 瞳を手の平でこすってると、

「神鳴様来ると、理和、眠くなるだろ?」 

 ゆっくりだけど、力の入った重い蒼の声に、引かれるように窓辺の彼を見た。

「う、ん」

「寝ちゃう?」

 蒼は、窓にもたれて、顔をふせているから、どんな表情をしているのかわからない。

 窓の向こうには、ジグザグに斜めに走る光の線。

 それを合図のように、蒼が顔を上げて、私を見つめる。

 瞳が離せなくなる。

 私は、稲光を見て、

 蒼は、私を見て、

 お互い、視線の先は違うはずなのに。

 まるで、見つめ合ってるみたいに。


 ピシャン、ピシャンとさっきの稲妻の音が聞える。 

 暗いグレイの空に金色の細い、線を何本も伸ばしながら、流れる稲妻。

 それに、惹かれるように立ち上がり、窓に向かう。

 稲光は、私の瞳を細くして、蒼の瞳には、光を残していく。

 蒼の瞳の奥に残った神鳴様の光を見つめる。

 瞳を細くしたまま、それ以上、開くことができないのは、まぶしくて。

 薄暗い部屋に、光る蒼の瞳は、なぜ、まぶしいのかわからない妖しい輝きを私に放つ。

 ビクンと、一回、体がはじくように、大きく震えた。

 窓に手を置くと、稲光の音が空気を震えさせて届き、指先に響く。

(これは、触れられる音だ)

 指先が震えるのは、その神鳴様の音が、カラダに響いてるから。

 カラダが震えるのは、稲妻の後を追う、次の雷鳴の響きに怯えてるだけ。 

 震える手に蒼の手が覆うように重なり、指を絡めて、窓から離される。

 耳元のささやきが、カラダを貫いて、耳に届く心音が、とくとくと、ココロを落ち着かなくさせる。

 稲光がまた、蒼の瞳に強い光を送り、私は更に視界を細くする。

 怖くはない。ただ、頭の芯が抜けていくような、穏やかな気持ちで、眠る直前のように。 

 震えるカラダから、ふわっと力が抜けて、蒼に支えられるように抱きしめられる。


 目の端に、稲光が入って瞳を閉じた。


 カーテンを閉めたのは、神鳴様から、目隠しをするため。

 でも、神鳴様、気づいてるかもしれない。

 この部屋での秘密。

 だって、神鳴様の音は届いてる。

 地面を叩きつけるような雨音も、

 木々を揺らして、吹く風の音も、

 厚い雲から、抜けてくる雷鳴も、

 神鳴様が奏でる音楽。

 きっと、知ってるんだ。

 秘密が外に聞こえないように、見えないように、奏でてくれてるんだ。


 稲妻も、雨とカーテンを潜り抜けて届かせる光は弱くて。

 だから、部屋が暗くて何も見えない。

 カラダの震えは、もう、なくて。 

 委ねて、されるがままのカラダは、ただ、アツいだけ。

 この部屋は、涼しかったのに、エアコンは止まっていないのに、カラダに冷気を感じない。

 私が触れている背中が熱い。

 私を触れている手が熱い。

 私に触れる息が熱い。

 頬をつけた時は、冷たかった床も温かくなって、冷たいところを探そうと体をよじると、引き戻されて、また、カラダもその奥にも熱に触れる。

 この部屋の音は、カーテンの向こうから届く神鳴様が作り出す雨音と雷鳴。

 そして、私たちが作り出す、微かな衣擦れと私と蒼の短く途切れる細い息。

 

 ぼたっ、ぼたっと重い雨音を合図に、神鳴様の音楽がだんだん小さくなっていく。顔を横にするとカーテンの色が少し薄くなってきた。

 残っているのは、どこかに、雫が落ちて鳴らす、ぴっちょん、ぴっちょんという音。雨音はもう聞こえないくらい。

 目尻に柔らかい唇の感触。瞳だけ、動かす。蒼の瞳をふせた顔が側にある。頬に伝っているのは、汗か涙かわからない。

 

 蒼は床に散らばった服を集めてジーンズだけを穿き、私を起こして、ワンピースを頭からかぶせる。それに、のろのろと、袖を通すと、彼が私の髪を整えるようにすく。

「神鳴様、いっちゃった、ね」 

「うん」

「見てた、かな、神鳴様」

 蒼はうつむいてる私を自分を見るように、頬に手を当てて、顔を持ち上げた。

「父さんと母さんには、ちゃんと言うから」

 はっと、目が覚めたように、瞳を開き、蒼を見て、首を振る。

「言わないで! 言わないでいいっ」

 彼は、きゅっと眉をしかめて、 

「なんで? 言わなきゃ。さっきも言っただろ、俺」

「だって、だって、なんていうの? このままで、いいよ!」 

 蒼は、私の瞳を覗き込むように、顔を近づける。

「ダメだ。もう、俺が限界」

 彼を見ていられなくて、顔をそむけた。

「だって、私、は、そう、じゃない」

「は」

 私の頬から、蒼の手がするっと離れて、肩を掴んだ。思わず、顔をしかめたくなるくらい強い指の圧がかかる。

「あ、蒼が、望むならって。好きって言ってくれたから」

「ナニ言ってんの? そんなんで、こんなことするのかよ、理和」

 更に、肩に指が食い込んで、揺さぶられる。

「だって、わかんなくて、どうしたらいいか。そうしたら……」

「なんだよ。それじゃ、俺が、無理矢理ってことか?」

 かくんと、折った首を、ゆっくり横に振る。

「違う、ごめん。私が、悪い。拒めなかった、のが。怖くて、蒼に嫌われるの」

 怖くて。このまま、蒼を手放したら、もう私の所に来てくれなくなっちゃうと、思って。

 蒼の〝好き〟が、二度と聞けなくなっちゃう気がして。

 振りほどくことが、出来なかったの。

 自分の気持ちだけで、蒼の気持ちは、置いてきぼりにしたこと。

 今なら、わかる。私は、蒼にものすごく残酷なことをしたということが。

 

 カラダの熱がどんどん冷めていく。エアコンが効いていることに、ようやく気がつく。

 肩の圧は無くなったけど、ぴりぴりとした、痛みが残った。

「俺の、独りよがり……、はっ、みっともねー」

 蒼が立ち上がって、足音はドアに向かう気配。そして、ドアノブを開ける音。

「そこ、キレイにしとけよ」

 顔を上げて、ドアの方を向くと、蒼の後ろ姿をもう半分、扉が覆ってしまってた。

「なんにも、なかったように、な」

 言い終わると同時に、静かにドアが閉まった。

 床を見るとすぐ近くに、私の下着が残ってる。

 水滴と水染みは、蒼と戯れた所の跡を残して広がっている。

 肩の痛みを忘れさせ、思い出したかのように、痛みだす下半身。

 寒気がして、ぶるっと、体が揺れた。自分のカラダを抱きしめる。

 ついさっきまで、抱きしめられてアツかったのに。手放した熱を惜しむなんて。

 私が悪い、全部。蒼を傷つけた、もう許されることはない。

 今さら、泣いても、謝っても、後悔しても、遅い。

 床の自分の跡に触れ、お腹を押さえる。

(私についたキズなんてこんなもの。私が蒼につけたキズの方が非道い)

「ふ、拭かなきゃ。キレイにしなきゃ、ね」

 なにもなかったように、しないといけないんだ。 

 窓に手を置いて、体を支えるように立ち上がり、カーテンを開ける。

 目には青空、耳にはセミの鳴き声が飛び込んできた。あちこちの残ってる雨の跡が強い日差しで、キラキラしてまぶしくて、瞳を細める。

 神鳴様が来たことなんて、なかったみたい。あの神様の奏で、も跡形もなくて。

 外は、なにもなかったようになってる。

 私も、なにもなかったようにしなくちゃ。


 そのあと帰るまで、蒼は、本当に何もなかったように、ふるまっていた。だから、私も普段通りの態度でいる。

 違うのは、私と目を合わそうとしないこと。

 たまに、不意に目が合うと、ギラっと、音がしそうなくらいの強い光を宿した瞳を向ける。

 でも、そらすわけにはいかない。怯える心を顔に出さないようにして、受け止めなければ。

 蒼の怒りを感じなくては、いけない。謝っても、許されることのない怒りを。




 なんとなく、お腹の調子が悪いかな? っていう程度の違和感。

「え」

 カレンダーを指さして、ドクンと心臓が重い振動をして、すぐに、とっとっと、早い心音が耳に届いて、顔から、血の気が無くなっていく。

(ちょっと待って、お願い)

 もう一度、カレンダーの日にちを追う。

 お腹を押さえて、うずくまる。

(嘘、ちょっと待って。え? 嘘、よ)

「理和、どうしたの? 大丈夫?」

 うずくまったまま、母を見上げる。

「ん、お腹、調子悪くて」

「そういえば、理和、生理遅れてない? どこか調子悪い?」

「夏バテ、かな? それで、少し痩せたから、遅れてるのよ」

「そう、お腹は、壊したの? 薬は?」

 母の言葉で、ちらっと、頭によぎったこと。

 薬って、あんまり、飲んじゃいけないんだっけ。

 薬飲めば、無くなる、かな……。

 自分の思ったことに背筋がぞくっとして、体が冷え、気持ち悪くなってきた。

「ううん、まだ、いい。先に、トイレ行ってくる」


 ずるりとお腹の奥の下の方から、何かが抜けて落ちる感覚で、トイレを見る。

(な、に、……え、これ)

 そのまま、座り込む。どうしよう、助けて、お母さん。

「おかあさ、……おかあさぁんっ」

 トイレのドアを開けて、壁にもたれた。

「お母さんっ」

「どうしたの! 理和!」

 駆けつけた母の顔を見て、はっとする。なんて言えばいいの。

「ト、イレ」

 母がトイレに入り、顔をしかめる。

 体がガクガクと震える。血の塊みたいなの、どうしよう、何だろう、あれは、もしかして。

 立っていられなくて、廊下にしゃがみ込むと、水を流す音。

 トイレから、母が出てきた。

「おかあ、さん」

 母は、私を見ると眉間にシワをよせ、瞳を閉じて首を一回振った。そして、私の前に屈んで、頭をなでた。 

「理和、病院に行きましょう。大丈夫よ、遠いところのに行くから、ね?」

 瞳を細めて、優しく微笑む母を見ていると、涙が出てきた。

「どうしよう、わかんない。なんで? おかあさん、ごめんなさい」

 口が勝手に動いて、思っていることが勝手に出てくる。うん、と言って、母は私を抱きしめて、背中をぽんぽんと子供をあやすように叩いた。

 

 泣きながら、母の車に乗って、しばらくして落ち着いたところで、

「相手は、誰? 言える?」

 一瞬、口を開いて、運転する母の横顔を見て、閉じてうつむく。言えるわけない。ふーっと、長いため息が聞こえた。

「蒼、か」

 すっと、呼吸が止まる。ここで何か反応したら、バレてしまうから、ぐっと手を握って、踏ん張る。母が、ちらっと、私を見た雰囲気がする。

「まさかとは思うけど、無理矢理?」

 自分の手を見ると、血管が盛りあがって出るくらいまで、拳を握ってる。その手を、母が、さすってくれる。

「たぶん、流産したんだと思う。あれは、そういうことよ」

 体をぎゅっと縮める。トイレの水の中の指ですくえるくらいの血の塊、やっぱり。

「私も、同じことあったから、ね」

 ゆっくりと顔を上げて、母を見る。横目で私を見つめて、

「理和と蒼の妹か弟だったはずなの。そのあとは、授からなかったな」 

 思わず、お腹に手を置く。いたらいいのにって思ってた妹か弟。待ってて、望まれた命なのに。

 お腹を抱くようにして、体を丸める。

「理和? 具合悪いの? 止まろうか」

 首を否定するように振る。

「わ、たし、いらないって思った。薬でも飲んだら、いなくなるかも、なんて。だから」

 自ら堕ちちゃったんだ。こんな薄情な私の中に居たくなくて。 

 カレンダーを見てた時、一瞬、これが、蒼をキズつけた、罰かも、なんて。

 でも、ほっとしてる。居なくなったことも、これで、蒼と同じくらいのキズを負ったんじゃないか、なんて卑怯なこと。

 後悔とか、懺悔とか、するくらいなら、癒されることないキズを負ったほうが、楽だなんてズルいこと考えてる。

 命に対して、罰だの、キズだの、……無くなること望んだり。

 こんなこと考える女、なの。

 こんな、女だったなんて、認めて、ゾッとした。

 蒼との子を、一瞬、いらないと思ったこと。自然に居なくなって、安心したこと。

 蒼に知られたくないと思う、こんな私。

 嫌われたくないと切実に思う。

 好きなひととの子をいらないなんて、思うなんて。ビクッと体が震えた。

「……っ」

 好きなひと、なんて、思うの、今頃、蒼への想いに気づいて。

 こんなことになるまで、気がつかなかった。

 なんて、バカな女なの。



 やっぱり、流産だった。妊娠の跡があったけど、もうなにもないし、ハートビート(心音)も確認できなくらいでもともと死産だったんじゃないかという診断。 


 泣いたことと不安とで相当、疲れていたらしく、帰りの車の中は家に着くまで寝てしまった。

 母に支えられて歩き、部屋のベッドに横たわる。

「正直、私は、よかったと思うわ。これからのことを思うと」

「そ、だよね」

「このことは、お父さんには言わないから」

「ん、ごめん、ありがとう。お母さん、ごめんなさい」

「もう、いいのよ。忘れなさい、なんてのも、無理よね」

「ううん、私のせいで、お母さんも思い出しちゃったよね、ごめんなさい」

 母は、ううん、と言うように首を振り、それから、じっと私を見つめる。

「蒼には、どうするの」

「関係、ないから。なに、も」

『関係ない』蒼を突き放して、切るような残酷な言葉。

 すぐに、こんな言葉が迷うことなく、口から出てくる自分が許せなくなる。

 また、涙が出そうになって瞳を閉じる。

「そう、なの」

 母は瞳の高さを私と合わせるようにしてベッドサイドに座り、私の手を握る。

「あのね、理和……」


 あのね、理和。私と英司さん、理和のお父さんが結婚したのは、蒼のおかげなの。

 お互い、私は事故で、英司さんは病気で連れを亡くしてるのは、知ってるわよね。

 蒼がね、理和の話しばかりするの。理和ちゃんと絵本を読んだとか、お昼寝は隣で寝て、いつも一緒に起きるんだよとか、理和ちゃん、園のピアノ弾いたのとか、ね。理和が園を休むと、もう面倒くさいくらい、ふてくされて。

 それで、保育園の行事で英司さんと話すことが自然に多くなってね。

 私、理和を初めて見た時、可愛くて、こんな女の子欲しいなって。英司さんは、蒼をすぐに気に入って、遊びに連れて行きたがった。

 英司さんと私は、保育園のお迎えの時間が違うから、そこで会うことも少なくて、お互い、約束して会うようになったの。

 ある時、蒼が理和ちゃんのピアノ弾くの好きって言ったら、英司さんが、ここの家に招いてくれて、お邪魔することになったの。

 蒼なんて、そうね、今と同じ、椅子に座って理和の側で聴いてるの。ふたりがニコニコして、そうしてるのが、本当に可愛くて幸せそうで、引き離すのしのびなくて、このままでいいんじゃないかって。

 英司さんも同じだったみたいで、一緒に暮らそうと言ってくれたの。おばあちゃんも、すぐに認めてくれて。

 理和は、すごく喜んでたわよね。

 蒼はね、アレは、喜ぶより先に、自分たちも一緒に結婚できる? って言い出して、わかるように説明するのにどれだけ、私と英司さんが大変だったか。ホントに面倒くさい……じゃなくて。

 今は、とりあえず姉弟になるけど、大きくなったら結婚できるよって。

 蒼を理和は、血のつながりがないんだもの、一緒になれる。

 でも、いつまでも、蒼も片思いのままでいられない。ココロもカラダも大人になる。

 おばあちゃんが亡くなって理和と家にふたりきりになることが多くなって、このままじゃ、しんどいって、高校行くとき、家を出たいって言い出したの。 

 私も英司さんも何も言えないのよ。蒼の気持ち知ってて、私たち一緒になったんだもの。

 ほんの少し、蒼を見くびってたのもある。成長したら、理和への感情も変わるんじゃないかって。 

 だから、蒼が理和の姿を追うように見てるのを見ると、本当に申し訳なかった。

 ただ、蒼の高校は家が近くにあるから、ひとり暮らしを認めてくれなくて、大学からになったんだけど。

 もし、私たちが結婚してなかったら、蒼はひとり暮らしなんてしなくても、理和と大ぴらにつき合うことができるのに。

 それでも、私たちを責めるのでなく、自分から、理和と距離を置こうとして、家を出て行ったの。

 蒼をかばうわけではないの。ただ、蒼の想いを犠牲にして、一緒に暮らしてる私と英司さんは、蒼に、理和のことでは、何も言えないの。


「ごめんね、理和」

 涙がとめどなく、あふれる。居心地がいいことに安心して、鈍感過ぎた。それは、蒼の我慢で成り立っていたのに。

「わ、わ、たし、どうしたら、よかったんだろう。蒼、ちゃんと考えてくれてて、真剣で。お父さんとお母さんにも言うって」

 私の手を握っている母の手が、ぴくっと反応して、ふうっと、ため息が聞こえる。

「やっぱり、蒼だったの」

 母の顔を見れなくて、天井を見つめる。

「私は蒼にそこまでの想いがあるのかなって。わかんなくて、今まで通りでいい、なんて」

 蒼の『好き』は、私にいつも想いを伝えていたんだ。小さい頃から、ずっと。

 どんな気持ちで私を抱いたんだろう。やっと、って、きっと、思ってたよね。

 それを、私は、踏みにじったんだ。蒼の長い間の想いを、自分の居心地のいい生活を守るために。

 今も『関係ない』なんて、切り離して、なかったことにしようとしてる。

 ごめん、蒼。私は、本当に薄情で非道いんだよ。

 でも、もう、なにもない、なにも残っていない。

 蒼に知られなければ、本当に、なにもなかったことになる。

「蒼に、は、言わないでね。なにもなかったことにするんだから」

「理和、でも……」

「蒼の想いに添えなくて、キズつけたの。これ以上は、もうイヤなの」

「そう」

「ごめん。お母さんにだけ、背負わせてしまうことになる、ごめんなさい」

 首をひねり、母を見ると、ゆっくりとうなずいてくれた。

「それは、全然、かまわないわ、理和のことだもの」

「ありがとう」

 私も蒼を想っていたんだよ、いつからか、わからないくらい。

 なにもなかったのであれば、いつか、添うことができたのに。

 なにもなかったことに、なってるけど、もうダメだ。

 好きなひととのことなのに、無かったことになんて。

 好きなひととの間の命も、未練なくて。

 私は、非道い。それは、一生、許せないこと。

 蒼には、言えない非道いこと。

 いつか、なんて、思うのも、図々しいね。

 許されることがない限り。

 それは、蒼にも、私自身にも、永遠にない許しだね。

 ごめんなさい、蒼。

 許さなくていいから、何度でも、謝るよ。

 でも、聞きたくないだろうから、いつもココロに秘めてるよ。

 ごめんね。

  

 父が、舞台のチケットを二枚、貰ってきた。

「理和は、どう?」

「ん、私はいいよ。その俳優、お母さんが好きでしょう? たまには、ふたりでそういうの楽しんで来たら?」

 母が、チケットを受けとって、しかめ面。

「だめよ、この日、理和の誕生日じゃない。貰ってくるとき、なんで気がつかないのよー」

 父が、封筒を出し、それを振って見せる。

「イヤ、これに入ってたのを、そのまんま、受け取っただけだからさ」

 私は、両手を振りながら、いいよ、いいよと、ふたりの間に入る。

「それいい席だし、行っといでよ。誕生日のお祝いなんて、美味しいケーキがあれば、十分よ」

 母が、少しすねたように、唇を尖らせて、

「でも、せっかく……」

「いいよー、誕生日なんて、来年もあるし、ケーキと豪華なデパ地下惣菜で手を打つ」

 両親共々、考え込む。あと、一押しかな?

「友達とカラオケ行ったりするし……」

 母が、パンっと手を叩き、

「蒼を呼ぶわ。アレに祝ってもらいなさい。そういう理由ないと寄り付きゃしないから」

 父も、ぱっと、表情を明るくして、こちらも、手を叩く。

「そのほうがいい。泊まってけって言っといてよ。俺も蒼と酒が飲めるの楽しみだったんだー」 

「で、でも、蒼も用事とかあるんじゃ……」

 母は、ぐっと親指を立てて、ウインクした。

「大丈夫! 弱味、握ってんのよ。何を差し置いても来させるわ」

「お母さん」「母さん」

 父と目が合った。思いは同じ、

(どんな弱味なの?)



 母が、携帯端末を見ながら、

「明日の四時過ぎに来るって」

「来るんだ」

「当たり前よ。で、蒼にエスコートしてもらって、どっかでごはん食べなさい」

「え? いいよ。ホント、デパ地下の惣菜で」

「ダメ、せっかくの記念日なんだから、男にエスコートしてもらうの。腐っても、アレ、一応、男だから」

 腐っても、とは、エライいわれようだな。母は蒼に容赦ないな、私には甘いくせに。

 そのかわり、父が、蒼を溺愛。帰省すると、必ず、ふたりでどこかに出かけるし、また家を出る時は、次に来る日にちを決めてからじゃないと、玄関で座り込んで、靴を履かせない、子供じみたことをする。

「蒼、来るなら、久しぶりにシチュー煮込もうかな」

 蒼の好きなビーフシチュー。しばらく、彼に作っていないから。

「いいわね! 私も食べたい。蒼のバースディに食べるのが、ちょうど、いいんじゃない?」

 母も嬉しそうだ。そうなると、気合が入る。

「材料買ってくるね」

 差し出された財布を受け取ると、母が、私の頬を撫でる。

「理和、いいのかな? 蒼で」

 口元は笑えるのに、母の瞳が見られない。どういう表情をしたら、いいのかわからなくて。

「ん、うん。蒼、嫌がってなきゃいいけど」

 母が私を痛そうな顔で、見つめてる。それで、ようやく微笑むことが出来た。

「大丈夫。ありがとう、蒼に祝ってもらえるのなら、嬉しいの。ホントよ」

 納得するように、母は、何度もうなずいて、

「行ってらっしゃい。シチュー楽しみだわ」

「はい」 

 

 シチューの味見をして、蓋を閉じる。

 冷蔵庫には、コーヒーを冷やしてある。蒼の部屋を掃除して、洗濯も取り込んで片づけたら暇になった。

(ピアノ、弾こ) 

 この前、テレビで聞いた昔の曲が気に入って、楽譜にした。ここから、自分で好きなようにアレンジしていく。

   

 たまに、祖母がやっていた教会や近所のレストランウェディングの演奏を頼まれて弾くこともあるから、指が鈍らないようにしている。


「お、っと」

 ミスタッチ、半音違ってた。集中力が途切れて、鍵盤から指を離す。手をブラブラさせながら、時計を見る。

(あとちょっと、か。蒼、まだかな)

 

 ふたりで一緒に出かけるなんて、ホント、久しぶりどころじゃないくらいだし、バースディを蒼とふたりで過ごすなんて、考えたことなかった。

 お金は、蒼の口座に振り込んであるらしいから、そういう心配はしなくていいと言われてる。

 昨夜も服をどうしようと、クローゼットを開けて、よく出来てるシチューでごはんでもいいじゃないかと思ったりして、閉じてしまった。

 でも、蒼は、母に脅迫されて来るんだって、思い出した。

 でなきゃ、私とふたりきりなんて、ないよね。

 だとすると、ウチだと重苦しくなるだろうから、外の方がいい。だから、蒼はOKしたんだよね。

 バースディ、記念日だもの、少しくらいは、前のように話せるといいな。

 それ以上は、望めないけど。

 また、そんなに時間の変わっていない時計を見る。

(早く、来ないかな、蒼)

 服を選ぶ時間が欲しい。どうせなら、エスコートしてくれる蒼のスタイルに合う、服を選びたいと思う。

 傍目には、コイビト同志に見えるように、なんて。

 そんなの、これが最初で最後かもしれないから。

 でも、とりあえず、笑顔で、ちゃんと、

「おかえりなさい」

 って言わなくちゃ。


 また、タッチミス。ちょっと、らしくないなと思って、ほっと一息つく。

 緊張してるんだな、蒼のことで。

 もう一度、時計を見て、

(四時過ぎた、もうそろそろかな)

 外の様子を見るために、窓を開ける。

「あれ? 木村君」

 開いた窓の向こう、庭のフェンス先に高校のクラスメイトだった木村君がいた。

「あれ? なんだ、ここ、君んち? もしかして、さっきまでピアノ弾いてた?」

 窓の下にあるサンダルを履いて、彼の方に向かう。

「そう、ミスって、中断したの」

「え、わかんなかった。そっか、好きな曲だったから、もう一回、聴けないかなって、待ってたんだけど」

「ごめんね。もうすぐ、家族が帰ってくるから、やめようと思ってたとこなの」

「そうかぁ、残念。でも、上手だなー、知らなかったよ、ピアノ弾くの」

「趣味で弾いてる程度だもん。人に言えるほどのものじゃないから」

「でも、よかったよ。曲が、なんかキレイっていうか、澄んでるみたいに聴こえた」

「そうなの、軽目になるように、キーを少し上げてるの。わかるんだ、すごいね」

 木村君は、嬉しそうに笑った。

「君のが、好きだな。もう一回、聴きたい。弾いてくれないかな」

 私以外いない家に男の人を入れるのはどうだろうか、でも、蒼がもうすぐ来るだろうし。

 外は暑いし、ここにいてってのもな、曲は五分ちょいか。

「じゃ、あの窓から入って。ピアノの部屋なの」

 椅子を、と思ったけど、あれは蒼のだから。

 窓に背を持たれてる木村君に、

「ごめん、近くで見られるの苦手だから、そこで、聴いてて」

 彼は、うなずいた。ちらっと、時計を見てから、ピアノに向き合う。

 楽譜を見ながら、さっき、タッチミスしたところを気をつけて、奏でる。

 近くで人に見られるのに緊張して、いつもより集中して鍵盤に指を置いていく。

 だから、門と玄関が開いたのに、その音を聞き逃して。


 ノック一回、ドアが開いて、

「理和?」

 と呼ばれるまで、気づかなかった。指が止まる。

 ドアの方を見ると、私ではなく、無表情で窓辺の木村君を見つめる蒼がいた。

 木村君は、きょとんとしてから、私と蒼を交互に見る。

 白のシャツに紺のジャケットとパンツ姿の蒼は、いままで、見たことのない大人の男の人のような佇まい。

 ほんのすこし、見とれて、はっと我にかえる。

 慌てて立ち上がり、蒼の方へ足を向けると、椅子の足につまずいて、前のめりになった。膝を打つ直前に、蒼に抱き止められて、しがみつく。

「ご、ごめん。あ、あのね」

「アイツ、誰? ナニ?」

 蒼は、木村君に聞こえないように、耳元に低い声でささやく。蒼と高校は別だったから、木村君のことを、知らないのは当然だ。

「高校の同級生でね、私のピアノ、外で聴いてて、よかったって言ってくれて。聴きたいって言ってくれたから」

 彼から、体を離して、木村君の方へ向かう。

「お、弟です。彼が帰るのを待ってたの」

 木村君は、ほっと、顔をゆるめて、微笑んだ。

「僕は、木村って言います。彼女の演奏が聴きたくて、お願いしたんです。そっか、待ってる人が帰ってきたんなら、帰るね」

 と、窓を開けて、出ていく。

「ごめんね、途中で」 

 木村君は、振り返って、手を上げる。

「いいよ、また、聴かせて」

 返事をしようと、窓に近づくと、手が伸びてきて、乱暴な音を出して窓を閉め、鍵をかけられた。

 むっとして、蒼に顔を向けると、瞳を薄くして、どこを見てるかわからない目つき。何も言えなくなるくらい、冷たい表情をしていた。

 怖くて、彼から離れようと、肩を動かしたら、窓に背中を ドンっと音がするくらい押し付けられた。

 はっと、視線を窓の外に向ける。

 窓の外、門に向かう足を止めた、木村君がこちらを見てる。

 手が下から伸びてきて、顎を持ち上げられた。苦しくて眉をひそめると、視界がほんの少しになる。 

 すると、覆いかぶさるように唇を塞がれた。

「う」

 空気が欲しくて、少し口を開くと、さらに強く唇に圧がかかる。そのまま、わたしの唇を割って、彼の唇が入ってきた。

 蒼の胸元を掴んで背伸びをして、口をずらそうと、頭を横に動かしたら、空いて手で後頭部を抱え込まれた。体も押し付けてくるから、もう身動きが取れない。

 細い視界がかすんでいるのは、息が出来ないのと、今を現実として認めたくないから。

(も、やめて)

 つま先で立ってる足から、カラダ全体に震えが伝わる。 

 ふんっと、バカにしたような鼻を鳴らす音。急に、口へ空気が入ってきた。

「やっと、行ったか」

 びっと、音がした。固い筋肉を撥ねただけで、指先が痛い。

 彼を睨み、窓に背を預けたまま、ずるずると滑り落ち、床に腰を置く。蒼は左頬を押さえながら、瞳を半分にして私を見下す。

「なんで? なんでこんなことすんの」

 また、さっきと同じように、ふっと鼻を鳴らす。

「そっち、わざとじゃね? もう俺が来ることわかってて、男連れ込んでるなんてさ。試されたとしか、思えないね」

 彼を引っ叩いた指先を胸に抱く。

「違う! ひどいよ! そんなんじゃないっ」

「非道い、のは、そっちだろ! アイツなんなんだよ!」

「いっ言ったじゃない。同級生で、通りすがりよ! 私が弾いてたの、聴きたいって。それだけよ!」

「ソノ気もないなら、思わせぶりすんな。次の約束なんて、気ぃ持たせる方が残っ酷って思わねーのかよ!」

 うつむいて、違う、違うと首を横に振る。なんで、蒼が木村君に見せつけるような、あんなことをする必要があるの? だって、

「弟って、紹介したのに、あんなこと……しなくても」

「おとーと? あんなこと? キスの事? は? もうヤッテるのに? 俺と理和」

 指先の痛みが体のあちこちを刺す。つきん、つきんと刺されて、体の力も奪っていく。 顔を上げる力さえも、尽きた。泣きたいくらいのことを言われてるけど、このことでは、涙も尽きている。

「血の繋がり、ないだろうが! たった一日、誕生日違うだけで、弟なんていうな!」

 本当は、『おかえりなさい』って言いたかったのに、なんで。

「ごめん……、叩いて、ごめんなさい」

「理和」

「全部、私が、悪い。ごめんなさい、も、ひとりにして、少しでいい、から」 

 ちっと舌打ちが聞え、びくんと肩が跳ねた。

 足音が離れて、ドアが閉まる。ほーっと、体の中の空気を全部吐きだすように、長い息を吐き、床に寝転がる。頬に触れる床の冷たさで、体に力が戻ってくる。

 体の向きを変えて、窓の外を見る。

 入道雲が、いつのまにか灰色の雲になって、細い稲妻が見えたような気がした。

 神鳴様が来ると、なんとなく眠たくなる。これは、小さかった時、祖母に神鳴様が来ると『眠っちゃいなさいな』と言われて眠ってたせいだと思う。

 雷鳴のゴロゴロが近づいてくるのが聞こえてきて、瞳を閉じる。


 あの日は、この窓のカーテンを閉めてたんだっけ。

 この床も、もう、キレイ、でね。

 なにもなかったように、ね。

 私と蒼の見えないココロのキズ以外は。


 やっぱり、なかったことなんて、できなかったよ。

 お互い、思い出して。

 蒼とふたりだけだと、こんなふうになるんだ。

 もう、ずっと、こんなんになるんだ。

 

 あれから、ちょうど一年経ったのに、止まったままの想い。

 変わっていなかった蒼の想い。私は、そのまま、止めてしまった想い。 

 


 ノック一回で、ドアが開く。

「理和?」

 夢うつつの中、蒼の声が聞えるような気がする。少しずつ、覚醒していく意識の中で重い瞼をほんの少し上げると、外は、いつのまにか、薄暗く、ザーッと雨音がする。

 蒼の足音が近づいてきて、私の横に座り込んだ気配と頬に温かい指先があてられる感触。

「ごめん、非道いのは、俺だ」

「あ、お?」

「理和のことを想うのやめようって、一年経って、もう大丈夫かもって」

 頬を離れた指先が、今度は唇を閉じるように触れる。

「母さんに理和をどこかに連れてけって言われても、結構、平気で引き受けられたし、ビーフシチューの匂いも、嬉しいとは、思ったけど、気持ちは穏やかだった」

 蒼の顔は影っていてよく見えないけれど、時折、稲光で見える蒼は、何かを無くして、あきらめたような力のない表情をしている。

「だから、もう理和に近づいてもいいんだって、思ってたのに。他の男が側にいるの、我慢できなかった。強引でも、俺のものにしたくなった」

 蒼の想いは痛いほど伝わってるのに、私は唇の指を振り払うことができずに、ココロの中で謝る。ごめんなさい、蒼。

「このままだと、もう本当に俺、ヤバいよ。さっきのでわかった。これ以上、理和の近くにいたくないんだ。怖いんだ、また、キズつけるかもしれないこと」

 視界が、涙で揺れてきた。蒼がそれに気がついて、瞳を閉じて、私から顔をそらした。

「理和の怯えるような顔も、泣きそうな顔も、もう見たくない。俺のせいで、なんて」

 唇から指先が離れて、蒼が立ち上がる。

 それでも、なにも言えない私は、体を起こすこともできない。

 彼の足音が、ドアに向かうのを聞きながら、顔だけ、そちらに動かす。 

「理和から離れるよ、今度こそ、本気で、これきりだ。でも、この家では、今まで通りにできるだけする。だから、笑って、前のように、姉さんぶって、な」

 蒼は、一度も、振り返ることなく、ドアを開けて、後ろ手で閉める。ドアが閉まる直前、思い出したように、ちらっと、私を見て、

「二十歳の誕生日おめでとう、理和。エスコートできなくて、ごめん」

 手の平で瞳を覆うけれど、涙があふれて、目尻を伝って、床を濡らすのがわかる。


 私は、どれだけ、蒼をキズつけるんだろう。

 この涙は、何に対してなんだろう。

 悲しいよ、切ないよ、苦しいよ。

 蒼が、いっちゃった。

 エスコートしてくれるって。

 二十歳の誕生日に、蒼とふたりで祝えるのが嬉しかったの。

 ピアノを弾くのも、シチューを作るのも、蒼に『好き』って言って欲しかったからなの。

 ずるいよね、受け取るばかりで、自分からは返していない。

 自分だけ、心地いいことばかり、求めて。

 まだ、想っていてくれたのに。

 彼の想いを受け止めて、添いたいと思ってるのに。

 好きなひととの子に対して、少しも愛情がないまま、失って、安心した自分が許せない。

 蒼を関係ないと切り捨てて、何もなかったかのようにしようとしてることも。

 こんな自分勝手な私が今さら、蒼と一緒にいたいなんて言えるわけがない。

 蒼が、そんな私を許して、受け入れてくれるなんて思えない。

 私から、離れるんだ、蒼の想いが、今度こそ。

 私の事、もう本当に好きじゃなくなるんだ。

 わかってたことでも、身に染みると、こんなに涙が出るくらい悲しいことだったんだ。

 ちかっと、稲妻が瞳の端に入ると神鳴様の音が聞こえる。

 玄関のドアが閉まる音は、蒼が家出ていく音。こんな、神鳴様の来ている時に、出ていくんだ。

 私のせいで、蒼をひとりにしてしまう、いつも。

 蒼には、謝ることばかりココロに溜まっていく。

 でも、もう、これで、それも終わり。

 そうだよね、私から、離れれば、つらいこともなくなるよね。

 願うのは、これからの蒼の幸せ。

 どうか、私のつけたキズを癒すことができるひとと、巡りあって、幸せになって。

 それを見届けるまで、私は自分のことは望まないから。





 

 

 夜遅く帰ってきた父が、母に紙袋を手渡した。

「蒼、結婚するかもしれないなー」

「あ、今の彼女と? めずらしく、続いてるものね」

「うん、彼女の誕生日に旅行したって。それ、その土産」

「彼女と旅行、初めて聞くわ。今度は、結構、本気なのね」

 父は蒼とたまに飲みに行ってるらしく、滅多に家に帰ってこない、彼のこういう情報が入ってくる。

 私も最近、食事をしたり、休日に一緒に出かける男性がいる。始めは友人たちのグループで遊んでいたけど、いつのまにか、彼だけとの約束が増えていた。

 正式に、交際を申し込まれたわけでないけど、友人たちの中で、私と彼はつき合っていると認識されてもいる。

 もうすぐの私のバースディの予定を聞かれているけれど、返事ができていない。

 今までの雰囲気や会話から、なんとなく告白されそうな感じだから。

 逆に、どこまでだか、わからないけど、私のそういう情報も、蒼に伝わってることでもある。

 システム関係の仕事をしている蒼は、かなり不規則な生活をしている。約束を守れなかったり、出来ないとか、それで、彼女と続かないことが多いらしい。

 私は、会社のシステム課で営業事務をしている。今でも、教会やウエディングでピアノを弾くことは変わっていない。

 仕事のことでは、蒼と話しが合いそうな気がするけど、もう何年も、彼とふたりきりで話したことがない。

 たまに、帰ってきても、父とばかり話して、(父が蒼を離さないのもある)元気? くらいしか、会話した覚えがない。

 母とは、メールとかで様子伺いをしてるらしいから、私だけ、蒼と接することがないのだ。

(蒼、今の彼女と結婚するかもしれないんだ)

 私は……、どうしよう。


 今度の日曜日は蒼の誕生日だ。

「蒼の誕生日に、シチュー持って行こうかなって、思うんだけど」

「いいんじゃない? きっと、喜ぶわ、蒼」

「そう、かな。マンション、行ってもいいかな、私」

 母はうなずいて、携帯端末を出して、操作を始めた。

「まぁ、見てなさい。アレの弱味がまだ通用するなら……」

「蒼の弱味って、何?」

 ずっと前にもそんなこと言ってたのを思い出した。端末の操作を終えた母は、視線を上にあげて、

「まあねー、あれが通用するなら、まだ、しつこく、想ってる証拠なんだけどなー」

 と独り言の母の瞳を覗き込むように、首をひねると、〝ストップ〟みたいに手の平を私に向けた。

「言えないわー、アレに聞きなさい、直接。私もどんな顔して、言ったらいいかわかんない」

「なんなのよー」

「親として、言えないっ。おっと、レスポンス、早っ」 

 母が端末を見て、ふっと鼻で笑い、口元をニヤッとするように上げた。

「マンションに着いたら、連絡してって、さ」

 だから、どんな弱味を握られてるの、蒼は。




 蒼のマンションを見上げる。きょろきょろと周りを見回して、カフェの看板を見つけて、そちらへ足を向ける。

(迷惑かもしれないなー、コレ)

 カフェで、ココアをすすりながら、シチューの入った紙袋を見て後悔する。

 誕生日だもん、誰か、彼女とかと約束してるはずで、自宅で祝うかもしれない。私の手作りなんて、入る隙間ないかもしれない。

 でも、ちゃんと、蒼に伝えると決めたんだから。蒼のバースディは私の一日あと、昨日だけ年下の彼は、すぐに同い年になる。

 携帯端末を出して、メールをする。

『お誕生日おめでとう。シチュー持ってきて、マンションの近くにいます。話しがあります、すこし、会えませんか?』

 ほっと一息ついて、端末をテーブルに置き、ココアを飲む。すると、まもなく返事が届いた。

『マンションの前に来て』

 端末を握ったまま、慌てて、カフェを出る。

 

 マンションの外で蒼が待っていた。私を見止めると、顎をくいっと上げて『こっち』の合図。私を見ないで、さっさと前を歩いて行く。入り口で、パネルを操作しているところで、追いついて、彼の背中に、

「誕生日おめでとう」

「うん」

「あ、これ、シチュー」

 持っていた紙袋を蒼に差し出すと、奪うように持ち手を引っ張って、引き取った。

「ん」 

 ただ、それだけで、こちらをちらりとも見ない。それからは何も言えなくて、視線を下げて、彼の後をついていく。

 無言のエレベータの中は空気も重苦しくて、息が詰まる。エレベータから降りたときには、なんだか疲れてしまっていた。


 部屋に入って、突き当たりのリビングに着いたところで、すぐに、蒼が立ち止まった。 

「ナニ? 結婚でも決まったの?」

「え、あ、それは……」

 ちっと舌打ちした蒼は、キッチンのカウンターに紙袋を置いて、腕を組んで、瞳を細くして睨むような鋭い目つきで窓を見ている。

「理和がしたら、俺もするかな」

「彼女と? 旅行いったんだっていう」

「誰とでも、関係ないだろ」

『関係ない』は直接聞くと、やっぱり、キツイな。私も、一度、蒼に対して、直接ではないけど言ったこと。それが自分に返ってきただけ、キズついてはいけない。

「そっか、うん。なら、蒼が結婚するまで、私は、しないよ」

 蒼はぎょっとしたように、全身でビクッとして、瞳を見開いたまま、私を見つめる。

「え」

「あのね、蒼が幸せなとこを見たいの。も、ずっと前から、決めてたことなの。だから」

 蒼は、腕をほどいて、カウンターを拳で叩いた。

「なにいってんだよ! 勝手なこと言うなよ!」

「うん、ごめんね。いつも、勝手で、やな思いさせたよね。蒼をキズつけてばかり」

「理和……」

「ホント勝手だけど、蒼が誰かと一緒になって、幸せなのを見届けるまでは、私はどうでもいいのよ、考えられないの」

 ぎゅっと、拳を握って、蒼を見て、微笑む。

「蒼の誕生日で、そろそろ、そういう話も出るのかなって、伝えておこうと思って。もしかして、私に遠慮して、迷うことがあったらね」

「そんな話なんて、ねーよ……」

「うん、今は、そうでもね、これから先のことでも、私は、そう思ってるから。蒼が結婚するまで、私はしないの」

「そんなん、いつになるかわかんねーよ。カレシ、どうすんだよ」

「いないよ、私」

「は? でも……」

「つき合って欲しいとは、言われたけど」

 初めてではない、今までも、そういうのはあった。

 ただ、今回の彼は、友達感覚で気が合って、食事や休日に出かけたりがいつもより多かった。

 昨日のバースディの約束を断った時に、結婚前提の告白されたけれど、そこで、私は、引いてしまった。 

 このひとと結婚するイメージがわかなかった。それに、私自身、結婚する意志が今はない。

 蒼が誰かと一緒になるのを見届けてからと、決めているから。

 それは、すぐかもしれないし、実際、いつになるかわからないけれど、それからじゃないと、やっぱり、自分の結婚は考えられない。

 そんなことを、考えてる私は、彼よりも蒼が大事だから。

「そんなに、好きになれなかったの」

 ひととき、瞳をふせてから、蒼を見る。彼が何かを言いたそうに、口を開きかけたのを遮るように、

「もう、帰る、ね」

 はっと、瞳を見開き、顔を私から、そむけた。

「ん、あ、シチューありがとう」

「ん」



 エントランスを出て、足を止める。視界を白くするような霧雨が降っていた。耳をすり抜けていくような優しい雨音。ちらっと、マンションの入り口を見て、首を振る。

(よし! ダッシュだ)

 駅からここまで、ゆっくり歩いて十分くらい、走れば、もう少し早いだろう。

 走り出して、すぐに諦めて、さっきのカフェの軒下で雨宿りすることに。霧雨は、意外と、水滴がくっつく。あっという間に、体全体が、しっとりしてしまった。

 ハンカチで顔を拭きながら、薄いグレイの空を見る。

(やむまで、待つか、もったいないけど、タクシーだな)

「理和」

 声の方に向くと、蒼が少し息を切らせて、傘を差し、手にもう一本、傘を持って私を見ている。

「あっ、ありがとう」

 傘を受け取ろうと、手を伸ばすとそのまま、引っ張られて、蒼の傘の下に入れられた。

「ベタベタ、みっともない。ウチで乾かせ」

『みっともない』自分の姿を見下ろす。確かに、シャツもスカートも肌にはりついてるし、髪からも、水が頬につたう。

 相合傘の中で、蒼に時折、濡れた肩が触れる。彼を濡らしたくなくて、きゅっと肩を縮めて、くっつかないように、距離をとる。すると蒼も私から離れて、傘から肩がはみ出てしまっている。

 それが心苦しくて、うつむいて、彼が持っている、もう一本の傘を見る。

「あの、蒼まで濡らしちゃうから、傘貸して?」

「濡れた傘、二本も置いとくの、やっかいなんだよ」 

「そ、か。ごめんね」

 彼は、はぁーっと、ため息をついて、視線を下げる。それはめんどくさそうな仕草に見えて、気分がヘコんだ。


 コンっと、ドアをノックして、

「ここが、バスで、タオルと洗濯機は乾燥機能あるから、ちょっと、見てて」

 そして、彼は私を置いたまま、奥の部屋に入っていった。

 ドアを開けて、タオルを借りて、髪を拭きながら洗濯機を確認する。きょろきょろ見るのも悪いかと思ったけど、なんとなく、歯ブラシが一本しかないことに、ほっとする。

「乾燥、わかる? あと、これ着替え、な」

 外から、蒼の声がして、バスに入ってきても、私と目が合わないように瞳をふせたまま、手渡す。

「あ、うん。ありがとう、ドライヤーも借りるね」 

「どうぞ」 

 すぐに、バスを出ていく蒼のシャツを引っ張って、肩にタオルをかける。

「蒼も濡れてる。ごめんね、私のせいで」

 ちらっと、肩越しに私を見て、肩のタオルを下ろしながら、何も言わずにバスを出ていった。

 きちんと畳んであるTシャツとハーフパンツは、ここにある柔軟剤の匂いがする。家と同じで馴染んだ香りは身につけやすい。こういう同じは、嬉しいな。

 でも、浮かれてなんかいられない。蒼の態度が気になる。

 あからさまに、めんどくさそうだから、迷惑をかけてるんだ。

 話すことももうないし、同じ空間にいられると、きっと嫌だろうからと、このまま、ここで、引きこもることを選択。

 髪をドライヤーで乾かしながら、乾燥の時間を見る。

「理和? どうした……、え」

「え? なっ」

 蒼は悪くない、きっと、ノックをしたんだろう。ドライヤーと洗濯機の音で、私が聞き逃した。

 彼は、一瞬、固まったように、私を見つめて、ぎゅっと瞳を閉じて、顔をそらした。私もはっとして、胸を抱えるようにして、屈みこむ。

「やっ」「バカ野郎!」

 バンっと、ドアが閉まる音。

 下着は、つけてたけど、蒼に借りた服は着てなかったの。

 乾燥の時間は短いし、服を着たら、蒼の洗濯が増えるとか、蒼も私といたくないだろうとか、思うことがあって。

 蒼が心配して、見に来てくれることまでは考えなかったの。

 自分勝手だな、本当に、私。


 でも、気づいたことがあるよ、思い出したの。

 あのね、蒼。

 私、蒼に、こんな恰好、物心ついたころから、家でも見せたことないよ。

 それは、本当の姉弟じゃないこと、やっぱり意識してたんだ。

 家族だけれど、蒼を男の人として意識してたんだな。

 それは、随分、小さい頃からになる。



 だから、今、ものすごく恥ずかしいの。

 ……ここから、もう出られないくらい。

(このまま、帰る、か?)

 いや、いくらなんでも、それはないよね。

 ここだと、外の様子がわからないから、雨は止んだのかの確認もしないと。降ってたら、せめて〝傘、貸してください″くらいは言わないと。

 自分が招いて、悪いくせに、ため息が出る。


 結局、蒼の服を着て、リビングに行ったけど、彼の姿がない。もうひとつのドアの向こうが、彼の寝室だろう。

 窓を見ると、外はすこし明るくなって見通しがよくなっている。雨はやんだようだ。

 ドアをノックするけど、反応がない。耳を当てて、もう一度ノック。微かな衣擦れの音がする。

「蒼、入るよ」

 窓際のベッドに蒼が体を丸めるように寝ている。彼の背中に指先で触れる。

「え、調子わるい……」「触るな」

 低く、重い口調に弾かれたように、手を引っ込める。強い拒否に、涙が出そうになった。

「ごめん。あ、帰るね、色々、ありがと」

 泣きそうになるのを堪えるために、早口で用件を言って、後ずさりする。

「理和、抱いてから、誕生日が嫌いだ。思い出すから」

「あ、お?」

「誕生日は、ずっと、ひとりでいるんだ」

「え、彼女、は」

「いつも、誕生日前に別れる。そんなんだから、当分、俺そういうの無理。理和なんか、結婚しちまえよ、さっさと」  

「しないよ、私……」

「無理だって、言ってるじゃないか! もう手の届かないところまで、いっちまってくれよ!」

「私だって、無理だよ。きっと、蒼の方がパートナー見つけるの早いよ」

 蒼は、起き上がって、拳をベッドに叩きつける。ギシっと、きしむ音がした。

「バカ野郎っ、そんな話しなら帰れ! もう、来るな! 本当は、会いたくなかったんだ、今日だって!」 

「……っ、わかった。さよなら!」

 

 どうして、こうなったんだろう。うまく、伝わらなかったんだろう、最悪だ。

 それでも、売り言葉に買い言葉だけど、あとには引けない。ドアに向かい、ノブに手をかける前に、肩越しに蒼を振り返る。

 そのまま、蒼の横顔から瞳が離せなくなった。

 今までに見たことのない表情だから。

 だって、今にも泣きそうな顔をしてる。それを、我慢するように、唇をかみしめて。

 また、私、蒼を傷つけたんだ。

 いつも、いつも、そんな表情してたの? 私の見えないところで。

 平気な顔ときでもココロはいつも、そんなんだった? 

 もう、キズつけたくないって、何度も、思ってるのに、私はいつも、失敗する。

(きっと、蒼とは、もうダメなんだ。どうしても)

 ノブを回す『カチャ』という音が大きく響く。

「ど……して、理和は、俺から、離れることばかり、だよ」

 ドアの外に踏み出した足を止めて、ノブを握る手に力が入る。

「なんで、俺と向き合えないんだ」

「だって、蒼、私から離れるって。私といるの、イヤだから、家にも戻ってこないし、今だって」

 あの事を、伝えられない限り、蒼には、向き合えない。伝えたくないから、蒼の方にはいけない。このターンの繰り返し、いつまでも、伝えられない想いは止まったまま。

「理和に、どう許してもらえばいいのか、わからない。そもそも、俺が側にいることで、理和を苦しめることになるのかって」

 ぎくりと肩が上がって、ドアノブから、手が離れた。そして、自分を守るように、震えだした肩を抱く。

「理和自身から、聞かされなきゃいけないことがあるはずだ。俺も、考え無しだった。自分の欲だけで、理和の体の事なんて考えることなかった」

 声が届く響きから、蒼が私を見て話したことがわかる。

「あ……お、なんで……?」

 どうして? 知ってる? 蒼の方を向きたいけれど、震える体を支えるのが、精一杯で、動くことができない。

「……さん、が、あの後、理和、どうなったか、知っておくべきだ、って」

 かくっと膝が、抜けるように力を失って、肩を抱えたままドアにもたれて、そのまま床に座り込む。

 早足で私に近づいてくる足音が聞こえる。

 あの事では、泣いて、泣いて、もう涙は尽きていると思ってた。それでも、まだ、残ってたんだ。

 これは、蒼に知られてしまった事の分の涙、だ。

「っ……、う」

 指先がためらいがちに、髪に触れた感触。でも、すぐに離れた。

「あ、お、が、許してもらえれば、なんて、思うことはないの」

「俺にも、責任あるだろ」

「ない、責任、なんてっ。だって、なにもなかった! 蒼だって、そう言ったじゃないっ。私、なにも、なかったようにしたもの!」

「理和、話してくれ。俺には、権利だってあるはずだ」

 肩を抱いていた手の手首を握られて、ドアに押しつけられた。それでも、蒼の顔を見ることはできなくて、首の力を失ったように、頭を下げる。

「ないってばっ! だって、なんにも、なかったの、なくなっちゃってた。だから……っ」

 言葉が続かなくて、嗚咽になる。蒼のハーフパンツを涙がどんどん濡らす。それを見ていたくなくて、強く瞳を閉じる。

 蒼が、大きく息を吸い込む気配を感じた。

「だったら、俺んとこ、こい!」

「ダメ、だよ。いけない……」

「聞こえない。こっち向けよ、理和! 俺を見て、言ってみろ!」

 何度も首を横に振る。握りしめられている手首が痛くて、震えてきた。

「蒼、キズ、つけるだけ……つらい」

「聞こえない! 俺を見て、言え!」

 蒼の想いは手首の痛さで伝わってる。顔を上げて、彼を見たら、きっと、すぐに受け入れてしまう。

 自分の身勝手なことを、隠したままにして、また、居心地のいい方を選ぶの?

 もう、蒼をキズつけたくないって、どれだけ後悔したの? 許してもらうのは、蒼ではなく、私の方なのに。

 瞳を開けると、涙のシミが広がったハーフパンツ。また、ぽとっと涙が落ちた。すっと息を吸って、奥歯を噛みしめる。

「りゅ、流産、お腹にいなくなっても、ちっとも悲しくないし、よかったって思った、の。むしろ、なくなって欲しいくらい、だったし」

 蒼の体が、ビクっと跳ねるように動き、震え始めたのが、手首から伝わってきた。

「お母さんに、蒼に言う? って、聞かれて、関係ないって。本当に蒼とのこと、なかったことにしようとした。それで、安心しようとした!」

 蒼が握ってる手から力が抜けたから、手を拳にして逃れようとしたけれど、すぐに、また、強く握りしめられた。

「そう思ってた自分を蒼が本当に嫌っちゃうんじゃないかって、怖くて、それが悲しくて。命ひとつ、落としたくせに、そんなこと考えてる薄情で非道い私を、蒼は、もう、想うこと、ない、よ」

 瞳を閉じると、体全体から力が抜けて、倒れ込みそうになる。それを支えるのは、蒼が握って、ドアに押しつけられたままの手首。

「俺のせい、じゃないか。理和が、こんななの、どうして、俺」

「ごめん、違うよ。蒼のせいじゃない、私が自分の都合のいいように思ったことに、勝手にキズついてるだけだもの」

「どうして、理和は俺を想ってくれないんだろうって……なんだよ、馬鹿みてー」

「想ってるよ、蒼が幸せになればいいって。私がキズつけた分、誰かに癒されて愛されて欲しいって」 

 私が、決して、してあげられない幸せを、と願ってるよ、いつも。

 でも、それは、悲しい願いだとも、思ってる自分に嫌悪して、いつも。

 止まらない涙、開けられない瞳はいつまで、こうしていればいいんだろう。〝ひっく、ひっ″と、しゃくりあげるような泣き声になる。

 口を押さえたくて、手首に力を入れるけど、蒼は離してくれない。

「俺の理和のいない幸せなんか、想うんじゃねーよ。どこまで、勝手なんだよ」

「もっ、離し、てっ」

「どうして、俺を見ない。でなきゃ、離さない」

「わ、たし、は、私を、許せないの。私の非道いの、わかったでしょ」 

「お互い、だろ。俺だって、自分を許せないんだ。許しを請うでは、解決しないことなんだ、一生。それで泣いてる理和に寄り添うのは俺しかいないじゃないか」

 たしかに解決しない、答えのないことだ。許す、のではなく、寄り添うことだと。

 それならば、できるのかもしれない、蒼と一緒にいられるのであれば、それを選びたい。 

 顔を上げようと、一瞬、息を止めて、首に力を入れる。

「あ、いっ」

 泣きすぎて、鼻声の喉から絞り出すような小さな声に、蒼が、顔を寄せてきた。

「ん?」

「あ、お、ゴメン」

 ビクッと、蒼の体が、震えたのが手首から伝わってきた。ゴメン、蒼。

「……ナニ」

 一呼吸置いて、警戒するような低い声が聞える。

「く、首、痛くて、上がんない。助けて……」

「え、はぁ?」

 キーの高い、クエスチョンを含んだ声。とたんに、手首が解放されて、肩を支えられた。

「おい、どうしたら、いいんだ」

「出来たら、持ち上げて、肩に、乗せさせて」

 そっと、頬と顎に手が添えられて、ゆっくりと、持ち上げてくれる。

 ギギギと首の骨がきしむような音を体の中で響かせるのが耳に届く。痛くて、ぎゅっと眉をしかめる。

 顎が、蒼の肩に乗り、落ちないように、手も添える。離された彼の手は私の背中とウエストに回された。

 はーっと、息を吐き、

「ありがと、ごめんなさい」

「もー、なんだかなー」

 蒼も、ふぅっと、ひと息をつく。

「あのね、わかってたの、ずっと」

「んー?」

「だって、嬉しくないの、他の人に、好きと言われても」

「うん」

「蒼だけよ。蒼の『好き』だけ、だったの」

 私に触れている蒼の指先が、握るようにぴくっと動いた。

「ずっと、好きだったの、蒼。言えなかったの」

 蒼の背中に手を回して、抱きしめる。すると、同時に彼の手にも力が入り、自分がこんなに蒼の腕の中で小さくなるんだって思うくらい、強く抱きしめられる。

「理和……、理和っ」

 怒っているような重くて強い声にふるっと、体が震える。

 小刻みな振動が蒼の体から、伝わってくる。彼の熱い息も熱い水滴も、シャツの背に落ちて。

「理、和をこんな抱きしめんのなんて、どんだけぶりなんだよ、チクショウ……」

 独り言めいたつぶやきは、歯を食いしばって吐き出す声音。

「蒼……」

「こんなたまんないのに、どうして、離れていられたんだよ、俺」

 ふわっと、瞳に涙が上がってきた。瞬きをすると、すぐにこぼれて、蒼の背にシミを作っていく。

「ん、蒼、私も」

 そのまま、嗚咽を抑えるために、大きく息継ぎをするお互いの胸のアップダウンを感じながら、腕に力を入れて、抱きしめ合った。


 体の震えが止まった蒼は、すっと、鼻を鳴らして、はーっと長い息を吐き出す。

「もう、絶対、手放さないから」

「うん、私だって」

 ほっとしたように、背中の手がすこし緩んで、不意に、蒼の右手が左胸に置かれた。体をきゅっと縮めて、彼にしがみつく。

「好き、理和」

 首筋に吐息を混ぜたささやきは、体も跳ねるくらいの鼓動を呼んだ。

「んっ」

 思わず、喉を鳴らすと、背中に残っていた手に力が入り、また、蒼の体と隙間なく密着させられる。

「とくとくって、はずんでる」

「あ、蒼、も、いいでしょ、離して」

「ヤダね」

 胸に置かれてる手に力が入って押さえるように動くとそこから、カラダに熱が広がり始めた。

 とくとく、と早くなる鼓動に合わせて、息もあがり、蒼の手からの熱で、カラダも熱くなってくる。

 蒼のその手に触れて、顎を彼の肩から外す。 

「蒼、も、苦し……」

 背中の手が緩み、蒼の体との間に、隙間ができた。

「こっち向いて、理和」

 ずっと、低くて、怒っている強い声ばかりだったのに、急に、キーが変わって、ゆっくりと甘えるような声。

『ピアノ弾く、理和、好き』と、同じ懐かしい声音。 

 蒼の瞳を見つめるように、顔を上げると、背中の手が頭の後ろを支えるように、登ってきた。

 蒼の瞳は潤んで充血していた。私の視線に気がつき、瞬きをして、気まずそうに瞳を細めた。

 そのまま、瞳をふせた蒼の顔が近づいてきて、自然に私も瞳を閉じて、胸の彼の手をきゅっと握る。

「好きだ。やっと、俺の、だ」

 唇をかすめながらのつぶやきに、とくっと、心臓が一回大きく跳ねて、体もぴくっと跳ねた。それをなだめるように、蒼の手が胸を撫でると喉の奥からの息が声にならないで、口に上がってくる。


 重ねた唇の隙間から漏れて聞えてくるのは、自分から出てるのが信じられない甘い吐息。止めたくて、口を閉じたいのに、蒼の唇が許してくれない。

 だんだん、その意志をも、奪っていく長いくちづけと、胸の愛撫。

 蒼の手に重ねていた手もはじめは震えて力が入っていたのに、汗ばんで、添えるだけがやっとになってきた。


 蒼がくちづけの途中、少し、唇を離して、

「父さんと母さんに言う、いい?」

「ん、お願い、します」

 また、蒼の唇の先が触れた瞬間、ぱっと、頭に浮かんだのは、

「あ!」

 蒼は、ビクッと一瞬、私から体を離して、すぐにウエストに腕を巻きつけた。

「なっ、なんだよ! もう、ナシ言うなよ!」

「それ、ない! 違う! 服っ、乾燥しっぱだぁ」

 彼から、顔をそらして、バスの方を見る。

「え、出してないのかよ、ずっといたくせに」

「だって、すぐ着て、帰るつもりだったもん。うわぁ、しわくちゃだ、きっと」

 瞳を薄くして私を見つめてる蒼は、はーっと、ため息をつきながら、髪をかき上げる。

「洗えるもんなら、洗ってやり直せば?」

 蒼は、顔をふせて、ドアに手をついて立ち上がった。

「洗えるけど……」

「俺、そのほうがいい。その間、理和とふたりでいられるから」

 ちらと、蒼を横目で見上げると、彼も、斜め下の視線で私を見下ろす。

「バスに行こ? 一緒に」

「いっ一緒って」

「俺もシャワー浴びたいから、だ」

「んっ、うんっ」

 立ち上がって、蒼を追い越して、バスに入る。

「蒼! ちょっと、待って。先に洗濯機、セットするから」

 洗剤と柔軟剤を入れて、洗濯機のパネルを操作する。ピピッと音がして、洗濯機に水が入りだした。

「ごめん、あ」

 振り返ろうとしたら、後ろから、蒼がウエストに片腕を回して、もう片方の手で、背中からTシャツをめくり上げた。とっさに胸を押さえて、これ以上、上げられないようにする。

「や、蒼っ」

 シャツから手を離すと、今度はハーフパンツを引っ張る。

「これもついでに、洗えばいいから」

「下着だけになっちゃうじゃないっ。やっ」

 ブラのホックが外されて、胸が自由になったとたん、シャツが頭から抜けた。袖が通ったまま、胸を押さえてても、蒼の手が後ろから、滑り込んでくる。

「コレ涙ついてるから、理和の。もう、見たくない」

 蒼のも、ね。

「ん、う」

 耳にくちづけながらの言葉に、力が抜けて、彼の胸に背を預けた。

「全部、洗ってしまえばいい。理和も、俺も、な」

 Tシャツとブラを引っ張るように、剥ぎ取られた。胸を隠して、屈もうとする前に、彼が私を抱えて、まだ、お湯が張られていないバスタブに下ろす。

 そして、お湯を出し始めた。 

「え?」

 お湯の出てくる方を見てると、蒼がすばやく、私のハーフパンツと下着を一気に脱がした。

「や」

 慌てて、膝を立てて、バスタブにしがみつく。

 蒼がバスから、出ていった気配の後、洗濯機の蓋を開ける音と閉める音がして、衣擦れの音。そして、こちらへくる足音で、思わず、顔をふせ、バスタブを握ってる手に力が入った。

 まだ、そんなに、バスの中はあったまった感じはしないのに、カラダが熱い。熱い耳に伝わる音はバスの扉が閉まる音とバスタブに足を入れる音、お湯の出る音、私の早い心音。 

「理和、こっち向いて」 

「やだ、無理。恥ずかしいもん」

 背中に、お湯がかけられる。

「いー眺め。理和の背中キレイだなー、ウエスト、細いなー」

 体がぶるぶる震えてくる。恥ずかしいのと、からかわれている怒りで。それでも、我慢してると、背中に蒼の指先の感覚。震えが止まり、体がぴくんと痙攣した。

「りーわ」

 指先は背中をなぞりながら、トントンと軽く突く。そのたび、ぴくっぴくっと、体が縮んで、心臓の鼓動が大きく跳ねて、苦しくて息も荒くなってくる。

「あ、おっ、も、やめて。や」

 背中から、指が離れて、彼の手が私のウエストを掴んだ。ちょうど、お湯が上がってきた辺り。蒼の手の大きさを直に感じて、お腹に力が入り、すっと、背筋が伸びた。

「こっち向いて、理和」

「やだ」

「早くしないと、洗濯終わっちゃうじゃん」

 ナニを〝しないと″だ。

「イヤ、シャワー浴びて、出ればいいじゃん」

「シタい」

 直球すぎて、言葉が出てこない。お湯が上がってくるのを追うように、蒼の手も上がってくる。体が緊張して、力が入る。

「俺、今日、バースディだよ。理和が欲しい、くれ」

 なんて言い方、言葉遣いが荒い。だって、こんなに話したのも、どれだけ、ぶりなの。蒼ってこういう男の人なの? 声音も、もう少し、柔らかく聴こえていたのに、今の蒼は強い、揺るぎなさそうな声。

「あんな下着姿見せるからさ、我慢出来なくなったんだぜ?」 

「うーっ……、あれは、だって」

 ぼとぼと、と、お湯の音とは別の液体が入る音。すると、お湯の色がブルーに変わり始めた。バスの中にミントの香りが漂って、熱いカラダが、すこし落ち着いてくる。

「もう少しすると、濁ってくるから、見えない」

 バスタブのお湯が波打って、ウエストに腕が巻きついて、背中に蒼の胸が当たる感触。

「俺のに、したい。今度こそ」

 ふぅと、息を吐くと蒼の指が伸びてきて、バスタブを掴んでる私の指を一本一本外す。「こっち向いて、理和」

 バスタブから外された手で胸を隠して、湯煙の中、すこしふせた瞳を光らせて微笑む蒼に男の人を意識して、見ていられなくなって、そのまま、肩に顎を乗せる。

「蒼の、ばか」

 ふっと、蒼の笑う息が首筋に当たった。

「なんつーこと言うんだ……」


 いつのまにか、お湯は止まって、バスタブの中で水をはじく音と私と蒼の喉からとも鼻からとも言えない声と息が、響く。

 お湯から出る肌は、ひんやりとする。清涼剤が入ってる入浴剤なんだ、ミントの香りとブルーの色は気分を涼し気にさせて夏に合ってる。

「ん、嘘つき」

 肌にまとわりつく、お湯の色は透き通ったスカイブルー。最初の色のまま、混濁なんてしない。

「ごめん」

「透明、の、まま」

 手の平ですくって、蒼の頬に軽くかけた。彼は微笑みながら、片目を閉じて、顔をそむける。

「ウソついても、理和が欲しかったんだ。プレゼントってことで、許して」

 上目遣いで、口を尖らせて、怒ってる表情で彼を見る。

「蒼のばか」

 私の顎を親指で上げ、蒼は瞳をふせて、顔を傾けた。

「ホント、自分でも、あきれる」

 あまりにも正直な物言いに、私は瞳を閉じて、このくちづけで許すことにした。



 今度は、しわにならないうちに、服を着ることができて、ふたりで一緒にマンションを出る。

 タクシーで帰りたいと、主張。

「だって、スッピンだもん」

「別に、気にならないケド」

「や、大体、お風呂に入んなきゃ、まだ、なんとか、なったんだから」 

「ハイハイ、俺がウソついたからだ。タクシー呼ぶよ」

 私を見て、ニヤニヤしながら、携帯端末を操作する。

 蒼は端末をポケットにしまうと、空を見上げて、んーっと喉を鳴らした。

「なんて、言えばいいんだろうな。父さんと母さんに」

「え、考えてないの」

 初めての時だって、言うっていってたのに。

「イヤ、実際、普通と違うしさ」

「お嬢さんくださいっていうのは、ないわね」

 蒼は、空を見上げたまま、何かに気づいたように瞳を見開いて、

「おっと、いけね。そうだ」

「ん?」

 彼を見上げると、私を横目で見て、

「理和、結婚して」

「あ、ん、はい」

 お互い、頭で何も考えず、ぺろっと口から出ちゃった感じ。なんだろう、プロポーズなのに感慨深くない。

 お互いの実家にご挨拶とか、両親に気に入られなきゃとかもないし、実家も両親も同じでつき合うっていうのも、なんだかな。蒼とは、

『結婚する』

 しか、ない。

 蒼も、似たようなことを考えていたんだろう、同じタイミングで見つめ合って、首をかしげて、笑った。



「ただいまー」

 私の声に母がキッチンから、顔だけ出して、

「お帰り。あら、蒼も」

 父はちょうど、廊下に出てきたところ。

「蒼? おっ、誕生日おめでとう」

「ありがとう」

「お誕生日仕様のごはんじゃないけど、シチューあるから、それでいいでしょ」

「じゃ、僕、ケーキ買ってくるよ」

 父がポケットから、車のキーを出して、母に手を振ると、

「待って。なら、私も、ちょっと、買い足しに行くわ」

 そして、バタバタと、父も母も出かけてしまった。玄関で靴も脱がないまま、呆然として、蒼とふたりを見送る。

「私、『ただいま』しか、言ってない」

「俺だって、『ありがとう』しか、言ってない」


 食事を終えて、母が後片付け、私がリビングでケーキとお茶を用意する。

 みんなが座ったところで、蒼が、話を切り出した。 

「理和と結婚したいんだけど」

「そりゃ、よかったわね、蒼」「うん、おめでとう」

 父と母は何度もうなずいて、嬉しそうにニコニコしてる。

 ふたりの態度が、あっさりしすぎて、蒼と両親を交互に見る。

「すこしも驚かないのね」

「だって、ふたりして、同じ匂い漂わせて帰ってきて、理和はスッピン。そりゃ、察することあるわよ」

「結婚はいいけど、どこに住む? 蒼が戻ってくるの?」

「いや、理和とふたりで暮らしたい。いずれ、ここに住むけど」

「週末婚っていうのでも、いいじゃない? 理和が週末だけ、蒼んトコ行くっていう」

「はぁ? 母さん、ナニ言ってんだよ」

「だって、プロジェクト始まるたびに、不規則な生活してるじゃない。理和と生活のリズム合わないわよ」

 母に同意するように、父はうなずきながら、

「蒼んとこ、フレックスだからねぇ。けど、理和の就業時間に合わせた生活にしないとダメだねぇ」

 ギョッと、蒼が体を引く。

「父さんまで、ナニ? そんなん理和に合わすよ、当たり前……」

「それにアンタみたいな荒いのと毎日いたら、理和はもたないわよ」

 思い当たることがあるので、拳一個分、蒼から体をずらす。

「なんつーこというんだよ! 理和! なんで、俺から離れる!」

「イヤ、なんとなく」

 すっと瞼が下りた母の瞳が半分になる。

「アンタ、理和にどんな振る舞いしてんの」

 蒼がちらっと私を見て、

「あ? 別に、フツーに、だ」

「嘘ついて、まで、ね」

 ぽそりとつぶやいて、ツンとそっぽを向く。

「理和!」「蒼!」

「まぁ、蒼が戻ってくれると、僕は嬉しいなぁ」

 父の、のんびりとした口調が、この場の空気を変えた。

「父さん……」

 蒼が、がっくりと肩を落とした。

「理和と抹香まつかさん仲いいからさ、うらやましいんだよねー」

「とかいって、結構、蒼と外で飲むの楽しみにしてるくせに」

「ははは、それは、それ」

「どのみち、理和は結構、家に来ることになるわよ。アンタ、ピアノ置ける部屋なんて、用意できる甲斐性、まだないでしょ」

 うつむいて、考えながら、つぶやく。

「そっか、ピアノ弾きに来なきゃいけなくなるんだ、わざわざ」

 蒼は頭を抱えて、ため息をつきながら、小さく弱々しい声で、

「理和……、俺とピアノ、天秤かけんなよ」

「だって、考えたことなかったんだもん。そもそも! 蒼とそういう相談してから、話すもんじゃないの!」 

「そんな時間なかったじゃねーか!」

 蒼と向き合って、お互い、肩を怒らせて、睨むような目つきになる。

「ちょっと、あなた達、今日いちにち、何やってたの」

「え」「う」

 ふたり同時にしょぼんと、うなだれる。

 母は眉間を押さえて、はーっと、わざとらしいくらいの大きなため息をした。

「あなた達は、普通の恋人と違って、結婚までは、いろんなこと端折れるけど、今まで、全然、話しもしてないんだから、ちゃんと恋人として、話し合いなさい。大事なことよ」

 父は、母の言葉にうなずきながら、

「そうだね、ふたりで話し合ってからのことなら、揺らぐことないから、反対はできないからね」

「うん、わかった」「はい」

「言っとくけど、ここまできて、別れるっていう選択はあなた達にはないから。それも、ちゃんと、考えるのよ。お互い、実家帰ります的なの、できないんだからね」

「普通の恋愛とは違うんだよ。覚悟ってのは、重いかもしれないけど、先々のことも、考えてね」

 両親の言葉を私と蒼はお互いを、ちらちら見ながら、相づちを打つ。

「うん」「はい」

 母は、ほっとしたように、肩を下げてから、蒼の胸を拳でトンと軽く触れた。

「でも、よかったわね。本当に、蒼」

 蒼は、すこし驚いたように瞳を見開いて、すぐに、目尻を下げて微笑む。

「うん」

 母と蒼の微笑む顔は、よく似ていて、血のつながりを感じた。私と父も見つめ合って、微笑む。すこし、瞳が潤んでいる父は、うなずきながら、

「理和、蒼を幸せにしてやってくれよ」

 あれ? お父さん、それは違うんじゃない?

「そういえば、理和。アレ聞いたの? 蒼に」

「アレ?」

 母は、また、蒼の胸を拳で突いた。

「お母さんが握ってる、弱味」

 蒼を見ると、顔を覆っている。父は、目尻をティッシュで拭っている手を止めた。

「あ、まだ」

「聞いといたほうが、いいわよ。早いうちに」

「り、理和、聞かない方、が」「あなたは、黙ってて!」

「え? ん」

「もう弱味じゃなくなったケド」

 蒼を見つめ、ニヤニヤ笑う母。心配そうに蒼に声を掛けようか迷ってる父。頭を抱え、息をしてるかどうか、わからないくらい静かな蒼。

 私だけ、疎外感。

 母は、手つかずの自分の分のケーキの皿とお茶を持って立ち上がると、父もそれにならう。

「おじゃまさま」

「あ、蒼、いや、理和、ケーキ、美味しいからな」


 ふたりが、リビングを出ていって、部屋から遠ざかる足音、キッチンに入っていった気配も、ここが静かだから、よく聞えるなー。

「んっ」

 と喉を鳴らすと、隣の蒼から、はぁーっという長いため息が聞こえた。

「母さん……、むしろ、そっちで言ってくれたほうが、楽」

「なに? 私、絡んでる、弱味ってか、脅迫まがいのネタでしょ? まさかの」

 蒼は、がばっと、顔を上げて、眉をひそめて怯えるような目つきで私を見た。

「ナニ? なんだよ」

「なんか、変態っぽいこと?」

 叱られたように、蒼はびくっと身を引き、がっくりと首を折り頭を抱える。ちっと舌打ちが聞えた。

「そうなんだ! 変態なこと、ナニ? え? 私に? いつ?」

「……うるせーよ」

 瞼を下ろして、軽蔑の瞳でうなだれた蒼を見る。

「否定、しないんだ、変態なこと」

「ヘンタイ、じゃねーよ。引くかも、くらいだ」

「取りようによっては、変態の可能性あるじゃん」

 髪をかきむしりながら、また、舌打ちした。

「あーもー! ちくしょー。大したことじゃねーよ! 覚えてろよ!」

 乱暴な言葉ばかり。余計に、気になるじゃないの。

「だから、なんなのよ」

 蒼は髪をかき上げながら、私をじろっと睨んで、両肩を握った。

「理和を抱いてるときに言う。もう、逃げられなくしてから」

「はぁ?」

「でなきゃ、言わねー」

「ち、ちょっと、どんな変態ごとなのよ!」

「ヘンタイっじゃねーよ!」

「変態に捧げる身はないっ」

 肩の手を振りほどいて、蒼に背を向け、ソファの上で膝を抱え、丸くなる。

「このっ、やろっ」

「言わなきゃ、やっ」

「も、俺だって、イヤだよっ」

 うなじに、蒼の額が落ちてきて、温かい息が背筋を滑る。くっと背中に力が入り、すこし反れる。

「母さんには、よく見られてる。神鳴様来ると理和寝ちゃうことあるから、そのスキに」

「す、スキに?」

「キスしたり」

 はぁ? キスだぁ? でも、小さい頃は、蒼とよくしてたから、今さらな感。さっきもしたし。

「……したり?」

「触ったりした……言っとくけど、頭とか手とか顔くらいだからな」

「ね、寝込み襲ってんじゃ、ないわよ」

 それ以外もだったら、ホント、引くことになる。

 けれど、なんとなく、そういう感触に覚えがある。

 神鳴様が行ってしまうまでのお昼寝の夢うつつの中、優しい手は、おばあさんを思い出して、安心して眠ったこと。

 あれは、蒼だったんだ、キスされたのは、わかんなかったけれど、全然、嫌な感じはしなかった。

 こんなことが弱味だったの。私の想いがわからないから、弱味になってたんだ。

 たしかに、私に蒼への想いが無ければ、ヘンタ……いやいや、身の危険を感じて引くことだ。

 でも、もう、弱味じゃなくなったね。

「お母さんと神鳴様に見られてたんだ、ね」

 ふっと、笑ったような息が触れた。

「神鳴様には、いつも、全部、見られてるんだ」

 蒼の額が離れて、肩に手が置かれた。

「理和、こっち向いて」

 ゆっくりで、力の込めた声音は真剣さが伝わってきて、体をほどいて、蒼と向き合う。

「一度は謝らせてくれ。ごめんな。理和が言い出すまでなんて、ほうっておいていいことじゃなかった、ごめん」

「私も、ごめんなさい。自分勝手で、収めようとして」

 蒼は、うなずいて、私の肩をふんわりと抱きしめ、覗き込むように、顔を傾ける。

「謝り合うと、キリないことだ。これきりにしよ?」

 涙が出そうになるのを止めるために、顔を引き締めて、蒼を見つめる。

「ん、はい」

「いい? 今すぐってのは、ないけど、ちゃんと計画的に、な」

 そして、そっと、指先を私のお腹に当てる。かっと、顔が赤くなるのがわかる。

 蒼を見ていられなくて、うつむいて、膝の上で、拳を握り、

「ん、う、ん」

 うん、今度は、必ず、愛しんで育てられるはず。ふたりで想い合って、望む命。

 笑おうと頬を緩ませたとたん、堪えていた涙が一粒だけ、頬をつたう。そっと、指先で拭ってくれた蒼も瞳を潤わせて、微笑んでいる。

 突然、授かって、望まなく見捨てたことは、私の中で永遠の罪。

 やっぱり、思い出すと胸は痛い。一生、忘れない痛みやキズは、乗り越えるわけではなく、蒼と寄り添って癒し合っていく、こうやって、この先もずっと。


 カップとお皿を片づけていると、蒼が時計をちらっと見て、

「そろそろ、帰るよ」

「え、戻っちゃうの? あ、そっか、明日、仕事だもんね」

「ここから仕事に行く準備してきてないからな。理和が一緒にウチに来てくれると、いいんだケド」

「え、あ、あー……」

 なんとなく、キッチンの方と蒼を交互に見る。ふっと、蒼が笑う様な息をついた。

「どうする?」

「う」

 恥ずかしくて、どういう顔をしたらいいかわからなくて、うつむいてしまった。すると、軽く頭を撫でる感触。

「連絡する。金曜日の夜は空けといて」

 蒼の手をを振り払うくらい、勢いをつけて顔を上げる。

「うん! 待ってる」

 蒼は、ヤレヤレといった感じで肩を下げた。

「今日は、ま、いいや。プレゼントいただいたし、な。ホントは、連れて行きたいんだぜ」

「う」

 色々、恥ずかしいこと言われて、うつむきそうになるところで、彼は私の首に腕を絡めて、視線を合わせた。

「理和からのキスで、勘弁してやる」

「えっ」

 はじかれたように、体を引くけど、首をホールドされてるから、蒼との顔の距離は変わんない。うつむくことも背けることも、できない至近距離。

「んっ」

 ほんのすこし、顔を前に出すだけで触れた唇は、ひと息もなく、離した。

「ナニ、今のでお終い? は?」

「したもん……、今のだって、キスだもん」

「冗談じゃねーよ。カウントしない、も一度」

「ふ、えーん」

 蒼とのほんの少しの距離は、唇を触れるだけなら、たやすいけど。

 顔を傾けて、すぐに唇が触れると、どこからか震えが上がってきて、ぎゅっと瞳を閉じ、息を止める。

 長く長く感じる時間だけれど、多分、ほんのわずかだったと思う。止めた息が続かなくなってきただけの間だから。

 んっと喉が鳴って、唇を離し、息を吸うために薄く開いたら、すぐにふさがれた。

 でも、苦しくて、空気が欲しくて、口を開く。

「あ、んんっ」

 深く突くように、蒼の唇に押されて、彼の舌に誘われて、導かれるように合わせる。


 自分はやり方のわからないキスなのに、受けることはできるなんて、変なの。

 でも、それは本能、なのね。 

 終わりのないくちづけ。

 苦しいけど、それもイヤじゃなくて、求めちゃう。

 

 どちらかの足がテーブルに当たって、カップがカチャンと音を立てた。それを合図に、蒼の唇と腕から解放された。

 急にぽかっと空いてしまった気持ちをどうしたらいいか、わからなくて、蒼の胸にしがみつく。

 蒼の腕が、ふんわりと私を包む。それは、とても大事にされているように思える仕草だった。

「ん、理和、離れがたい?」

「うん、寂しいの、かな」

「よくデキマシタ。俺は、理和のモンだよ、いつだって、こうしてやるさ」

「私、蒼のいうようなキス、うまくできない」

「うん、鍛えがいがあるな、って感じだな」

「きっ? 鍛えるの、そういうもの?」

「ま、これから、ずっと、時間をかけてで、な」

 キスって鍛えるものなんだーって、なんか違う! だけど、出来ない自分が言い返せるわけでもない。

「う、うん」

 くすっと笑って、蒼は、私の唇を指先でこするように撫でた。

「よろしい」

 

 蒼を見送って、リビングに置いてあった食器を持って、キッチンに入ると父と母がお茶を飲んでいた。

「蒼、帰ったの?」

「うん」

 食器を洗い始めると父と母が話しを始めた。

「今、話しをしてたとこなのよ、大丈夫かなって」

「へ? 何が」

「理和と蒼」

 食器を棚に戻しながら、驚いて、母を見る。

「え、なんで」

「理和は、基本、甘えたなのに、蒼の前だと、落ち着いて、お姉さんって感じで。蒼は、荒いクセに、理和の前だと、甘くて年下みたいにふるまって、お互い無意識に、ね」

「そう、だったかも」

 記憶を手繰ってみると、なるほど、思い当たることばかり。無意識に、姉弟らしく振舞っていたんだともいえる。

「お母さん、蒼が荒いって、そうなの?」

「アレはね、ホント、選ぶのよ。自分の手の内、大丈夫と認めたひとだと、荒いったら」

「暴力とかの乱暴ではないけど、言葉遣いと態度が荒いというか、たまにキツイんだよ。悪気はないんだけど」

 あれ? 蒼ってこんなんだった? ってことは、たしかに、今まで何回かあった。

「う、ん、なんとなく、そうね……」

「理和と違った甘えたなのよ」

「甘えた、蒼が」

 気を許して、どんな態度でも、受け止めてくれる相手には、遠慮がないということ。絶対の安心があれば、甘えて、できること。

「私たちがお互い、甘やかしたせいだねって」

「僕は、男の立場で、小さい蒼を見て、抹香さんの旦那さんの無念を思ったよ。抹香さん似の男の子が、大きくなって、いつか自分を追い越してなんてのを見ることが出来なかったことを」

「私は女だから、理和が、女の子らしくなって、服や髪の相談や、買い物したり、花嫁姿を見ることが出来なかった、奥様のことを想うわ」

「だから、自然に、僕は蒼を、抹香さんは理和をかまうようになっちゃった」

「お互いの亡くした相手を想ってね。で、一対一だから、まぁ、どうしても甘くなるわね」

「おばあさんはふたりにベタ甘だったし」

「そのせいか、あなた達もあんまり、駄々やわがままがなかったのよね。反抗期も」

 そういわれると、そうだ。あんまり、家でイライラしたことがないし、蒼も私も反抗期ってのが、あったのか、なかったのか思い出せない。

「それに、あなた達、あまりケンカしたことないでしょう。なんだかんだで、お互い、嫌われたくないから、遠慮して、ね」

「そうね、たしかに」

「だから、とりあえず、すぐケンカするわよ。お互い、こんなんじゃない、違うって」

 なんとなく、予兆があったことを思い出し、母から視線をそらした。

「き、気をつけるわ」


 母の入れたお茶をいただいて、ほっとひと息つく。

「ごめんね、理和。蒼に話して」

 はっと、思わず父を見た。 

「知ってるよ。今日、ふたりが一緒にいるってことは、蒼と解決したって、ことだよね」

「お母さんから?」

 母は、ちらっと父を見た。父は、ゆっくりとうなずいて、

「保険証使ったろ。年一で使用明細来るんだよ、そのときね」

 お父さんも知っていたんだ、それも、ずっと前から。

「どうして、蒼に話したの」

 ふうっとため息をついて、母は両肘をテーブルに置き、指を絡ませて組み、そこに顎を乗せる。

「恋人出来たでしょ、蒼。理和は、そうないけど、アレは、とっかえひっかえって感じで続かない。誕生日頃には絶対、ひとりになるし」

「抹香さんに似て、蒼は、クールでスマートなイケメンだもん。自分からじゃなくて、女性から寄って来るんだよね」

「ただ、もうそろそろ蒼も理和を吹っ切って、結婚するかもって思ったから。あのことがあってから、理和も蒼もまともに話さない、そんな、家族って変だもの。理由を知らない余所のひとが、家に来るようになったら、どう思うか、そして説明できるのかって」 

「お互い話し合って、わだかまりをなくして、家族に戻って欲しかったから、蒼に話したんだよ。ただ、直接的な話しは、理和から聞きなさいって」

 父と母を交互に見ながら、えっ? っと、父を見止める。

「お父さんから、言ったの、蒼に」

 母が父をちらっと見ると、父も母を見つめた。

「私だと、平静で伝えられるか、わからなかったからね」

 父は、私に視線を移して、うなずく。

「僕は、男として、やっぱり話してほしいと思う。好きなひと、とのことだから、責任を感じないと。これは、ふたりの親としても、そう思うよ」

 何も言えなくて、カップを握りしめ、うつむいて、うなずく。

 私たちが、今日、どうにか、過去から踏み出せたのは、両親のおかげだった。

「まぁ、あなた達がお互い、しつこく想い合っててよかったわー。理和を余所んちに取られなくて済んだ。蒼、よくやったって、ね」

「うん、これで、蒼と今まで通りずっと、一緒にいられるんだ。理和が、パートナーなら誘うの遠慮しなくていいし」

 私と蒼が結婚するのは、両親にとって、とても喜ばしいことであるらしい、よかった。

 でも、なんだろう、ふたりが望んでたことでも、あるみたいだな。


 両親が同じタイミングで、お茶をすすり、カップを置く。

「理和、ホント、蒼とたくさん話しなさいよ。理和なんて、蒼のこと、どれだけわかってるんだか」

「それは、蒼もデショ」

 母は、ちっちっと言いながら、人差し指を振って、

「イヤ、アレはなんだかんだ、お父さんや私から誘導的に理和の事、聞きだしてたから」

 はっと、思い出したように、父は、母を見る。

「そうだよ! 僕、蒼の振りで何気に理和のプライベートや仕事のこと話してた!」

「ウチに来ても、ほとんど話さないっていう、気のないふりして。バレバレだっての、片思い。いい歳して、まー、いつまでも」

 キッツいなー、お母さん。蒼が荒いのは、まちがいなく血筋だわ。

 父に至っては、唇を、大人げなく尖らせて、

「理和は、僕らに、そういうアクションなかったよね。蒼は、あんなに理和を気にしてたのにさ」

 と私を責める。この態度は、私がよくやる。ホント、血は争えない。

 父と母の吐き捨てるような言葉に、テーブルに肘をついて、頭を抱える。

「私、蒼のことなんて、仕事と、女のひととのおつき合いのことしか知らない……」

 蒼と一緒に飲んで帰ってきた父からの情報のみ。

「ほらー、英司さん、理和、蒼の事、こんなことしか知らないわよ。あなたが酔っぱらって、話したことぐらいしかー」

「イヤ、抹香さんだって、蒼の事、そのくらいしか、話してなかったよー」

「アレのことなんて、それくらいしか興味ないもん、あとは面白くないし」

 イヤイヤ、それ、実の母親の言葉?

「男同志だもん、それくらいしか、聞くことないよ。お酒飲んで、あとは、どうでもいいことばかりだもん」

 そりゃ、そうだろうな。父に蒼の事で、聞いといて欲しいことなんて頼んだことなかったから。

 メールアドレスや電話番号は知ってるから、聞くことあれば、このツールを使えばいいと思ってから。使うこと、ほぼ、なかったけれど。

 小さい頃から、可愛くて、優しいイメージしかない。

 でも、確かに、あのときから、すこし変わってきたような気がする。荒い、キツイのが、出てきてた。

 ヤバい、マズい、不安。蒼って、本当は、どういうひと? こんなの普通の恋愛じゃ、ありえない。

 最新は、気を許したひとには、悪気はなく、荒い、キツいこと。 

 強引で……結構、手、早いこと。ナニ、それ! そういえば、慣れていた感じがする。脱がすとことか、キスだって。だよね、いろんな女のひとと、あーゆーことしてるんだ。

「蒼って、どれくらいの女のひとと、つき合ってきたんだろう……」

「え? 理和、それにスイッチ入れると、蒼とマトモな話なんて、当分、できないわよ」

「まっ抹香さん、余計なことを!」

「お父さん、それ、むしろ不安にさせるよ……」

 どんだけのひとと、つき合ってたんだか、蒼は。

「まぁ、理和の穴埋め的につき合ってたんでしょうね」

 顔を上げて、母を見ると、私を覗き込むようにして、ニコっと微笑んだ。

「いつも、別れて。誰も、理和に、かなわなかったんだよ、蒼にとって」

 よほど、情けない顔をしていたみたい。父が、困ったように首をかしげて、小さい子をなだめるように、頭を撫でる。

「ん、わかった」

 ふたりにとって、私は、どんなに大きくなっても、小さい子供のままなんだな。


 


 蒼と会社帰りに待ち合わせて、初めて、食事をする週末。

 何度も時計を見て、彼が来るであろう方向を見る。そして、姿を見つけて、小さく手を振ると、気づいて早足で向かって来てくれた。

 けど、私の手の辺りを見たとたん、眉をしかめた。

「なんで、手ぶら」

 腕にかけてるバックと蒼を交互に見て、

「え? なんか、あったっけ」

 蒼は口元を尖らせ、瞳を半分にして、私を見下ろす。

「泊まる準備してないのかよ」

「え、だって、そんなこと、言わなかった……し」

「週末で、俺も理和も明日も明後日も休みだろうが。言わなくても、察しろよ」

 早口で話し、はーっと、大きくため息をして、乱暴にネクタイをゆるめて、私から顔をそむけた。

 蒼は、忙しくて、土曜日も出社してるって、言ってたから、明日が休みなんて、わからなかった。

「そんな言い方、しないでよ」

 そんな態度見せないで。やっぱり、蒼は荒い、キツイ言葉。お母さん達が言ってた通りだ。

 家を出る前の蒼は、こんなじゃなかった。あの頃の蒼のままで接してると、こういうのに、すこし戸惑う。

 察することをできないと、また、こんなふうにイラついて怒るんだろうか。

「理和、こっち向いて」

 そう言われて、うつむいていたことに気づく。でも、蒼が怒ってるのを見るのが、怖くて、バックを胸に抱え、一歩、後ずさりする。

「さ、察し悪くて、ごめん。でも、言って欲しいよ、めんどくさくても……」

 ふうっと、諦めたような、ホント面倒と、どちらとも、とれるため息が聞こえる。

「食事、ヤメ、だな。これじゃ、どーしょーもねー」 

「え」

 慌てて、顔を上げると、頭を片手で押さえている蒼。すると、私の視線に気がついて、微笑んで、手を差し伸べた。

「も、俺んち、このまま、行こ」

「え……」

 彼が怒っていないことに驚いて、差し出された手と蒼を交互に見る。

「やっぱり、理和と話し足りないや。ちょっとマズい」

「あ、あの、ね」

 差し出された手の指が招くように動いたから、そっと手をかぶせると指を絡めて握られる。

 そして、そのまま、引っ張られるように歩き出すと、蒼はおもむろに、空を見上げて、

「服、ま、いいか、俺ので。でも、着替え、買ってく?」

「え? あ、蒼」

「コスメとかも、いるか。さて、どこから、行こうか」

 と、先のデパートを見比べてる。

「蒼が、ウチに、泊まるってことでも……」

 蒼の着替えもあるし、話しなら、こちらでも、ゆっくりできるから。

 彼は、ちらっと、私を見て、瞳を閉じて、否定の意味の首をゆっくりと振る。

「ウチだと、理和、都合が悪くなると、母さんのとこ逃げそうだしな」

「う」

 そう言われると、反論できない。蒼は、私の反応を冷ややかな目つきで見ている。

「親とひとつ屋根の下で、いちゃいちゃヤル度胸は、さずがに、まだナイ」

 そして、顎を少し上げて、私を見下すように見る。

「う」

「ケド、理和が度胸、決めてんなら、俺はいつでも」

「なっ……」

 そんな度胸なんて、いつまでも、来ないと思うわっ! 

 強引で、話しを聞いてくれないし、さっき、キズついたのわかってるでしょ、リカバしてよ。蒼なんて、蒼なんてっ

「あ、お、の、ば、か」

 つないだ手を離そうと、腕を引っ張ると更に、ぎゅっと握られて、蒼の方に引き寄せられる。蒼は足を止めて、横目で私を見る。

「なにぃ?」 

「だって、勝手なことばかり言う、蒼なんて、知らないっ!」

 手を振って、彼の指から外そうとするけど、出来ない。蒼は、それを無表情で見ている。

「こっち、行くぞ」

 引きずられるように、大通りを抜け、人通りの少ない小道に入る。

「俺だって、理和がそんな母さんに甘えた、なんて、思わなかったね。いっつも、姉さんぶってたくせに」

「いいじゃないっ、甘えたって。お母さんだもんっ」

「開き直りやがったなっ」

「蒼だって、強引でキツイっ」

「あのなっ! 俺は、もともとこんなん、なんだって」

「知らないもんっ」

「このっ、だからっ、も、ウチに来いって。ちゃんと、話そうって」

 ふんっとそっぽを向く。

「ふたりきり、も、やっ」

 蒼は、舌打ちして、

「この期に及んで……、ホント、甘えただなっ」

「違うもんっ、蒼が荒いから、怖いんだもんっ」

「よくも、まー、次から次へと言い返しやがって……理和って、こんなかよ」

 はぁっと大きく聞こえるため息が、私を幻滅したような態度にとれた。カッと頭に血が上って、口が勝手に動いた。

「蒼が思ってるような私じゃなくて、ごめんなさいねっ。今までの彼女のほうがいいんじゃない?」

 蒼がつないでいた手を振りほどいて、離した。

「バカ野郎っ! なんで、そうなるんだよっ」

 怒鳴られて、足が止まる。

「なに言ってんだ!」 

「蒼が怖い、よ。だって、察して、なんて、勝手なこと。それで、機嫌が悪くなるなんて、どうしたらいいのかわかんない」

「理和」

「初めて、ふたりで食事するの楽しみだったのに、急にナシとか、勝手だよ? それ、私が察しなかったせいなのかな」

「さっきも言ったけど、俺こんなんだよ。理和が、それで怖がっても、俺どうしたらいいんだよ」

 蒼も私も戸惑ってる。お互い、こんなだなんて、思わなかったから。

 おまけに、長い間、話しもしていなかったから、こんな言い合いに慣れてない。

「どうして、こうなるんだよ。俺、理和と週末過ごしたいから、仕事、ムリしてきたんだぜ。来週は、もうダメだし」

「それだって、蒼の都合デショ。勝手よねっ」

「理ー和っ、も、キリないだろ……、どうしたいんだよ」

 だんだん声が小さくなって、最後は、困り果てたような弱い声で独り言になってる。

 どうしたい? もう、家に帰りたい? ホントに蒼といるのイヤ? すこし、頭が冷えた。

 わかるのは、蒼は、怒っているのではないこと。困って、言い返してるだけで、ケンカ腰なのは、私。蒼は、それにつられて、いつも通りの言い方が強くなってるだけ。

 あの言葉や態度が、蒼のデフォルトならば、私が慣れるしかないこと。

 蒼のこういうところは、お母さんたちに聞いていたことだから。

 ……ケンカ、することも。

 ここで、気持ちが落ち着いて、冷静になった。

 前の彼女のことを出したのは、私が悪い。蒼の想いはずっと、だったのを知ってるくせに非道いことを言ってる。これは、怒鳴られて、当然。

 うつむいていた、視界に蒼が一歩近づいた靴先、そして顔を頭の近くに寄せてる気配。

「ウチに、帰る、のか?」

 小さい声で、ゆっくりと噛みしめるように、私に言葉をかける。 

 こんなふうになって、本当は、蒼といられない、帰りたいくらい。でも、そのあと、また、すぐに会えるのかな? また、一緒に居辛くならないかな。

 やっと、手に入れたのに。

 どうしたい? 

「蒼、蒼といたい、一緒に」

 ホントは、これだけのはず。だから、ずっと、週末を待ってたの。食事とかなんて、別に、どうってことなかったはずなのに。

 髪に触れた、ほうっと、溜めてた息を一気に出して、安心したという合図に顔を上げる。

 蒼の瞳はほんのすこし、光を溜めて、口元だけで無理矢理、微笑んでる感じ。

「も、勘弁して。悪かったよ、土日、仕事休めるって言わなかったのは」

「お泊りの準備のことも、よ」

 えっ? というように、私を見て、蒼が体を引いた。

「それはっ、もう……、当り前だと、思ってくれよ。むしろ、もう準備しなくてもいいように、俺んとこに色々置いてけばいいだろ」

 そして、顔を片手で押さえて、私を見ないようにしてる。 

「あ、なるほど」

 なぜか、蒼は、疲れたように、首を横に何回も振った。

「イヤ、言いたかないけど、やっぱり察して? これから住むことも含めて、だぞ。俺と理和は、そういうことだろ」

 はっと気づいて、今度は、私が蒼から、半歩、体を引く。

「え、あ、そっか、そうだ、よね」

 そして、顔を覆い、自分の察しの悪さ、バカさ加減を猛省。蒼がイラつくのは当り前だ。蒼にバカなんて、よく言えたもんだな。

「こんな状態で、外で食事なんてできないだろ」 

「……だね。ごめんなさい」

 蒼は、察することのできる大人、言われなきゃわかんない私は甘えたの子供。手を伸ばして、蒼の袖を掴む。

「ごめん。私も、こんなんなの、想ってたのと違うよね……」

 そっと、背中を押されて、蒼のスーツに額をつける。

「こんな甘えたとは、ちょっと驚いたケドな。うん、わかったから、も、いいや」

「私も蒼の荒いの慣れるようにする」

 はっと一笑いした、蒼の胸がはずむ。

「そっからかー、俺ら。こりゃ、ナニから話しすりゃいいんだよー」

 喉を鳴らして、くっくっと笑う振動が、額に伝わってくる。蒼の胸を押して、顔を上げる。

「蒼の女性関係、お母さんが、マトモな話しにならなくなるって言ってた」

 とたんに、眉をしかめて、顔から力が抜けて情けない表情になった。

「母さん、なんつーこと、理和に吹き込むんだよ……」

 聞かせてね?


 スキンケアと簡単な化粧品と着替えを買い、デパ地下やスーパーで食料を調達して、蒼のマンションへ。

 蒼が着替えている間に、惣菜を温め、並べて、フルーツを切ってると、

「荷物、必要なとこに置いておいで」

「え、別に、その都度、出し入れするし」

 蒼は、むっと口元を引き締めて、眉間を人差し指で押さえながら、コンっと、カウンターをノックした。

「あのな、ここに、住めるくらいに、物を置いて欲しいんデスって、言いましたヨネ?」 

 なにかを、抑えるような絞り出す声の蒼を見てられなくて、うつむいて、顔を覆う。そんな丁寧に言われるとバカにされてる気がする、イヤ、してるよね。

 ……きっと、カウンター、拳で叩きたいの抑えてたんだ、よね。

「……言われマシタ」 

 ホント、察しが悪いな、というより、もう頭悪いんじゃないかっていうレベルだ。情けない。

 蒼もカウンターに両手を置き、うなだれる。んーっと、声ではない音を喉から出して。

「俺、色々、わかってきたぁ。そうか、理和は、ちゃんと言わなきゃわからんのかぁ。昔っから、そうだったんだな、だからかー」

「あ、蒼? え、えっと、ごめんね?」

 うなだれたまま、彼は、首を振る。 

「イヤ、も、いい。甘えた、って、そういうこともだったかー、気をつけよ」

 そうなの。家では、お母さんに甘やかされて、自分で先々考えることもなく、気がつくと与えられてたから、察することがなかったの。

 家の中、家族の間では『言われなきゃ、わかんない』そういう甘えたなの。

 仕事や外では、経験を積むから、さすがに、そういうことはないけれど。


 蒼とお互いの仕事の話しをしながら、ごはんを食べて、後片付けをしながら、これからの話しをする。

「部屋、探そう。もう一部屋あると、いいよな」 

「ん、蒼、仕事を家でやるなら、側にいない方がいいでしょ」

「ピアノも置けるしな。アップライト、でも防音がな、電子でもいいだろ」

「うん、こだわらない。どうしてもなら、ウチに帰ればいいだけだし」

「んー、母さんと一緒になると、なかなか戻ってこなさそうだな。ヤダな」

「も、それは、どうなるか、わかんないよ」

 蒼は、かくんっと、首を折り、はっと短いため息。

「そこは否定するとこだろが、も」


 お茶を飲みながら、テレビを見つつ、話しをして、長いCMの間に蒼がリビングを出て行った。欠伸をして、伸びをしてると、

「ん、眠い? バス行くか」 

「うん……」

 腕を引っ張られて、立ち上がる。

「ほら、着替え。一緒に入ろーな」

 差し出されたTシャツとパンツは、この間と同じもの。奪うように受け取り、胸に抱く。

「ヤダ、蒼、絶対、手ぇ出すもん。ひとりで、ゆっくり入りたい!」

 一瞬、私から瞳を外した蒼は、すぐに視線を戻して、うなずきながら、

「えー、ゆっくり、スルしー……、ナニ、その目つき」

 上目遣いで、蒼を睨む。

「や、蒼の目つき、ヤラシイ」

 くっと、顎を上げて、口元をニヤッと曲げて、私を斜めに見下ろす。

「そういうふうに見えちゃう、理和だって、やーらしぃー」

 かぁっと顔が熱くなって、なぜか、瞳が潤んできた。肩を怒らせて、お腹から声を出す。

「蒼のバカぁっ」

「なにぃ」

 キっと、蒼の瞳に力が入ったように見えたけど、すぐに眉をひそませて、途方にくれたような表情をした。私が、もう半泣きの顔をしてるから。

「からかわないで、よ。蒼は、慣れてるかも、しれないけど、私、そんな、無いんだから」

「は、え?」

 蒼の気の抜けたような声が、バカにされてるように聞こえる。

 握りしめた着替えで、顔を覆って、涙がこぼれそうな瞳を押さえるようにする。

「蒼だけ、と、だもん、そういうことしたの。だから……」

 この前は、勢いみたいなとこあったし、場所も狭いし、短い間だったから、どうにかだもの。

 不安だよ、ちょっと怖いよ、そう思ってるの。からかわれると、余裕ないから、悲しくなるよ、逃げ出したくなるよ。

 体が震えてきて、もう、顔を上げられなくなる。

「キスも?」

 ビクッと、肩が縮み、首を揺らすように、小さくうなずく。

 んっと蒼が喉を鳴らす音が聞える。

 しばしの沈黙が気になって、服から、瞳だけをのぞかせる。

 それを待っていたかのように、背中にそっと腕が回り、蒼に引き寄せられた。

「理和は、甘えたで言わなきゃわかんないから、強引なこと言ってみたんだけど。ごめん、むしろ怖い方へ追い込んじまったな。こういうのが、俺の勝手だな」

「……っ」

「泣くなよ、大事にしたくて、も、本当に手ぇ出しにくくなっちまう。ソレ、ヤだし」

 すんっと鼻を鳴らして、涙を堪える。

「んっ」

 とんっと一回、軽く背中を叩かれて、蒼から、体を離す。

「バス、行ってもいい? ひとりで」

 蒼は嬉しいのと困っているのと混ざってる半笑いの表情で、うなずく。

「そんな顔して、も、理和はズルい。言うこと聞くしかないじゃん、行っといで」

「うんっ」

 私の反応に、蒼は瞳に力を宿らせて、じっと見つめ、指でピストルの形をとり、こちらに向けた。

「今だけだぞ」

「う」

 曖昧な返事をして逃げるように、バスに向かった。 

 

 バスのお湯には、すでに、この前の入浴剤が入ってた。

 浸かってると、ここでのことを思い出して、むずむずした変な気分になる。

 ゆっくりなんて、いられなくて、早々に出てしまった。


 蒼は、リビングで、タブレット端末を操作してた。私の気配を感じて、顔を向ける。

「あれ、早いじゃん」

「……お先です」

 端末を持って立ち上がり、手招きをする。端末を差し出して、

「これ、寝室に置いておいて。で、そのまま、ベッドにいること」

「う、うん」

 怖気づいて逃げないように、わかりやすい指示だなー、蒼は、私をかなり、わかってきてるんだなー。


 モニタのある机に端末を置く。物は散らかっていないキレイな部屋。本棚は、プログラム系、言語系、端末の取説、英会話なんかもあり、仕事関係らしい本が多い。

 ベッドに腰かけて、窓の外を見る。いつもより、外が黒い気がするから、曇っているかもしれない。

 そのまま、横になって、窓を見る。何も変化しない風景だから、だんだん瞳が閉じてくる。

「コラ、寝るとかねーぞ!」

「お? わっ」

 バチッと瞳が開いて、慌てて起き上がる。そして、蒼が力を入れて座って、ベッドが揺れた。

「きっと、そうなるから、ひとりにしたくなかったんだ。だから、一緒に、ってことになるんだからな」

「う」

「もう、覚悟しろよ」

「う、ハイ」 

 ふと、窓の方を見ると、閉じられていないカーテンの向こう、闇の中、キラッと光った気がして、耳を澄ますと、遠くから、ゴゴゴと軽い雷鳴が聞える。

 こっち向いて、と耳元でささやかれて、蒼の方に向くと、すくい上げるように唇をふさがれた。びっくりして、思わず、体を引くと唇はあっさり離れた。すると、彼はTシャツの下に手を滑り込ませて、背中に腕を回す。

「え、んっ」

 きゅっと背骨に力が入る。

 そして、すぐに重ねられた唇から、押されるように、ゆっくりベッドに横たわる。

「そ、だ。キス鍛えないと、だった」

「え? ん……」

 それは、唇に隙間を与えないように、覆いかぶせるようなくちづけ。何度も、食むように押し付けられる。

 鍛えるって。受けるのが、精一杯のこんなキスに慣れて、自分から蒼にできるようになるなんて、全然、ムリだよ。


 息も絶え絶えになって、ようやく解放された唇は、上手く動かない。

「か、カーテン、閉めて」

 窓の方に少し顔を向けたら、頬に手を当てられて、元に戻された。見上げる蒼の表情は、からかうように、目尻を下げて、口元を片方だけ上げた。

「ヤだね」

「見て、るよ、神鳴様」

 蒼は、すっと瞳を細くして、首をかしげる。

「いいよ、見せつけてやる」

「や、そんなこと」

「いつも見られてたのは、一方通行だから、相思相愛なの見せたいんだ」

 頬に触れていた手が、滑るように髪をすく。優しい感触は、一瞬、うっとりとした気分にさせた。けれど、頭を振って、意識を戻す。

「っ、もーっ」

 彼の肩を押して、枕から頭を上げようとしたら、Tシャツを首までまくられて、上がった腕を頭の上でベッドに押し込むように、閉じ込められた。

「ナントでも。聞かないし、できるもんなら、やってみな」

 低く押さえた声で耳元で、そうささやいた唇が、すぐに鎖骨のくぼみを吸う。

「なっ……、んんっ」

 体を食むような、彼のくちづけは、ピリピリするから、ぴくんと、背筋が伸びるように、緊張して、そのたびに呼吸が止まる。なだめるように背中をさすられて、唇が離れると、ゆっくり息をついて、体を緩めるの繰り返し。

「あ、蒼?」

「ん?」

 掴まれて固定されたままの手首を離して欲しくて、指を動かすと、彼の手にまた、力が入る。

「も、腕、離して。しんどい、の」

「んー、も、すこし、ガンバレ」

 頑張れ? そういうことじゃない! 私の体に視界には、まくり上げられたTシャツしか見えなくて、彼がどんな表情をしているのかわからない。

 けれど、今は、わかる! 私の体にくちづけてる唇が笑ってる。ふっ、て鼻で笑う息も!

「う。も、や!」

 これ以上、好きにさせないつもりで、膝を立てようとウエストをひねると、蒼の手が押さえるように、足の内側を握る。すると、そのまま、力を吸い取られたかのように、足が動かなくなる。

「もう、すこし、理和をタンノーしたい」

 タンノー……堪能って! その言葉を理解したら、恥ずかしくて、体に力が入った。

「ずっと、理和を我慢してたんだから」

 すうっと、カラダが冷えて、ベッドに沈み込んでいくように重く感じる。蒼の体もぴくっと、なにかに気づいたように止まって、唇の感触が体から、無くなった。

「理和? え? そんな痛かったか、ゴメン!」

 蒼の焦って、困ってる声と同時に手首の圧が無くなって、腕が自由になった。その腕で顔を覆う。

 蒼の我慢は、私の胸を突く、後悔と懺悔 

 気がつくと、ザーッと雨音が聞こえる。暗い部屋を稲妻がほんのひととき照らし、鼓膜を差すような、雷鳴。

 神鳴様は、いつも、見ていたの。

 泣いちゃダメだ、謝っちゃダメだ、蒼をまた、キズつける。わかっているけど、わかっているから、止めたくて、こぼれないように、瞳と口を腕で強く抑える。

 蒼を不安にさせるのは、もうイヤ。

 私だって、やっと、手に入れたんだもの。

「蒼の、ばか」

「なにぃ?」

 腕で顔をゴシゴシとこすって、首元まで上がってるTシャツを下げて、すぐ、上にいる唇を尖らせた蒼を睨む。

「ちっとも、優しくしてくんない」

 彼の首に腕を巻きつけて、ぐぃーっと、自分に寄せる。

「ちょっ……、理和、押しつぶしちまう、も、ちくしょっ」

 ベッドがきしんで、蒼は、私と並んで横になった。すかさず、彼の首をホールドしたまま、上半身を乗せる。

「なんだよ、もー」

 蒼は瞳を手で覆い、私から顔をそらした。

「や、って、言ってるのに、なんで、聞いてくれないの? キスだって、ちくちくするし、手、キツくて強いよ、痛いの」

 彼の首から、腕を外して、胸に手を置き、肩に顔をふせる。

「他の女の子にも、こんなふうにしてた?」

 ビクッと、彼の肩が上がる。

「してない。理和には加減できないだけだ」

 言い放たれた言葉は、カツンと頭を叩くような衝撃。無意識に手に力が入って、彼の肩から、顔を離す。

「私、に、キツイんだ。いつも怒ってるみたいなの、私、やっぱり、なんかダメなのかな」

 彼から、手も放して、うつむいて体を縮める。はっと、息を飲むような音がしてベッドのきしむ音で体が揺さぶられる。

 顎に指がかかって、顔を上げさせられた。私を覗きこむ蒼の表情は、怒っているように、瞳に力を入れている。

「違う! ずっと、ずっと、求めて、欲しくて、諦めてたんだ」

 そして、肩を押されて、仰向けになると、彼が覆いかぶさってきた。

「でも、やっと、手に入れた! 離したくなくて、もう、わけわかんないんだ」

 蒼が重いから、肩を押し上げるように、手を置くと、彼の手が背中に回って羽交い締めにされた。

「優しくって、どうしたらいいかわからない。無意識なんだ、ムリだ」

「んっ、痛いの、怖いの、や」

 肩をゆすって、蒼の腕から逃れようとするけど、ビクともしない。

「諦めて。痛がっても、怯えても、今度は、も、止められないからな」

「お風呂の時は、そんなじゃなかったのに……」

「あんときは時間、限られてたから、スゲ抑えてただけ。も、必死」

「は」

「次が、必ず、あるってわかってたから、そん時は、容赦しないって」

 おっかないワードがでて、手の平が汗ばんできた。

「よっ容赦って」

 蒼は腕を外して、そのまま、私の耳の横で肘をついた。ふわっと、体が楽になって、私を見下ろす彼と正面で向き合う。

「それが、今」

 蒼の瞳の奥の光は、あのときの稲光の放つ閃光を宿した、誘う妖しい輝きは、まぶしくて、瞳を細くさせる。

 思い出す、ささやかな抵抗さえも奪ってしまう強い意思を含めた瞳。

 あのときと同じ。

「全然、理和が足りない。やめられない、絶対」

 彼は私に跨って、起き上がりシャツを脱いで、床に落とした。そして、すぐに、私の着ているシャツを胸までめくる。

「あ、蒼」

 胸に手を置いて、シャツを握る。

「腕、上げて。今度は、押さえつけないから」

 言われた通りにしようとするけど、緊張と恥ずかしいので、肩より上がらなくて、震える。

「ダメ、上がんな、わっんっ」

 背中を持ち上げられて、ブラのホックを外されて、引っ張るようにシャツを脱がされ、ハーフパンツも膝まで、もってかれる。

「今度は、理和が脱がして?」

 意地悪そうに瞳を半分にして、見下した表情で自分のジーンズのボタンを指さす。

「や、無理」

「理和だけ、剥かれてるんだぜ。俺、このままでも、イケるけど」

「んー」

 ジーンズのボタンに触れて、引っ張ろうとするけど、手が震えて力が入らなくて、指が離れる。

「で、きない、よ」

 喉からしぼりだすような震える声になる。こういうの上手にできないと、ダメなのかな、イヤなのかな、あきれる? 怒る? 

 不安で潤んでくる瞳で、蒼を見つめると、嬉しそうに瞳を細めて、額と頬にちょん、ちょんとくちづけを落とした。

「よく、デキマシタ。むしろ、すんなり出来たら、戸惑ったな」

 からかわれたのが悔しくて、拳を突き出すけど、届かない。それを、蒼が握りしめる。

「う、蒼の、ばかぁ」

「ハイハイ、理和、も、可愛くて、さ」

 言いながら、すぐに蒼も着ている物を脱ぎ捨てて、これでシーツの中はふたりとも、裸。

 蒼はシーツを頭にかぶり、

「これで、神鳴様から、目隠し」

 首をかしげて、ニコッと微笑んだ彼は、子供の頃と同じ笑顔。

「も」 

 ふぅっと、あきれたようなため息をついて、蒼の首に、腕を回す。

「優しく、よ。ね?」

 すこし睨むように、上目遣いで見ると、瞬きを一回して、彼は、すぐに顔を傾けて、触れるだけのくちづけをした。

「ま、ゼンショする。これがダイダキョーだ」

 善処、程度。それも、大妥協ときた。もう少し、嘘でもいいから、言い方変えられなかったのかな。


 肩筋に、ピリッとした痛みで肩がぴくっと上がる。

「理和、痛くない?」

「あ、ん」

「まだ、イイ?」

「うん……」

「これくらいは?」

「ん」

 頭の中がとろけて、感覚も思考もおかしい。くちづけや指先の場所が変わるたびの蒼のささやく問いに、答えるのが億劫、適当な返事が出来ない。

 それでも、私が眉をしかめれば、額にくちづけをして、首筋をなでて、ため息交じりの声と表情が戻るまで、待ってくれる。

「あ、コラ、眠そうな瞳しやがって!」

 神鳴様と蒼の指先。なるほど、眠る条件が揃って、条件反射と言うべきか……。

「やっ、蒼ってばっ」

 胸に、歯を立てられて、ピンと体が伸びるように、跳ねた。両手で胸を守るように重ねるとその上から、蒼の手が押さえつけてきた。

「もう、優しくなんてしない」

 息を吐きながらの耳元のつぶやきは、すこし、カラダを緊張させる。

「眠らせない」

 背中に腕が回り、持ち上げられて、息が止まる。

 蒼の肩に触れるように、そっと手を置いて、彼を見つめる。稲光が、また、蒼の瞳を熱を持たせるように、ギラリと光らせた。

「好きよ、蒼」

 すっと、熱が冷めるように、蒼の瞳が柔らかく緩んで、ニコッと笑う。昔から、見てる笑顔で。 

「うん、俺も」

 ゆっくりと何度も唇を重ねながら、体中をマッサージするような指先の動きが、体を震わせる。

 ううん、カラダがわなないている。

 首を振って、蒼の唇から、逃げ出す。ダッシュしたみたいに、息が浅く短くしかできない。苦しくて、瞳が潤んできた。

「あ、蒼、も、や」

 彼は、目尻を下げ、口端をきゅっと上げて、私をからかうような表情で覗き込んできた。

「や? ナニが」

 わかってるくせに、そう誘って、煽ってるくせに、焦らしてるくせに!

「も、ダメ。眠っちゃう、ん」

 瞳をふせて、口元に笑みを浮かべながら、私の額の生え際に、くちづけをした。

「ん、理和、なんて瞳で見るんだよ。もう、そんな理和、もらわないと、おかしくなりそ」

 自分がどんな瞳で蒼を見てるのかなんて、わかんない。私を見つめる蒼の瞳は、優しくて、甘そうな光を湛えてて、ずっと、見ていたくなる。その瞳を見ていると、私も、そうだよ、もうおかしくなるそうなの、蒼を求めて。

「神鳴様にちゃんと見せないと、な」 

「っ……蒼のばか」

「なんつーこと言うんだ……」


 ウエストから撫でるように、腰に蒼の手の平の感触。

 瞳を閉じた。

 背骨がきしむくらい背中をそらして、蒼を迎えるのは〝痛い″けれど、仕方のない痛み。

 彼の肩に、私の爪が刺さって、〝痛っ″て言うことで、お互いね。


 蒼が目隠ししてたシーツはもう、半分めくれて、意味がなくなってしまってる。

 神鳴様は、いつも見てるの。 

 稲妻は窓を突き抜けて、私たちを照らす。

 雷鳴は、空気を震わせて、私たちを痺れさす。

 カラダが熱い。何度も、カラダに熱が籠る。

 アタマの中も熱くて、何も考えられない。

 窓の外では、神鳴様が音楽を奏でてるはずなのに、雷鳴も雨音も、私たちの声も息遣いさえも耳をすり抜けて音がない空間の中にいる。

 ここは今、静か。

「好きだよ」

 あなたの『好き』という声だけが、耳に届くの。


 蒼の肩越しの窓から見えるのは、真っ暗な闇だけ。いつのまにか、雷鳴も雨音もしなくなっていた。

「蒼……、も、神鳴様、いない、ね」

「ん、行っちゃったな」

 彼の胸に額を押しつけて、

「眠い……」

 ふっと、笑うような息が、髪の中を通り、ぎゅっと抱きしめられる。

「まだ、ダメ」

「も、やぁ」 

 抵抗の意味で蒼の二の腕を指でピタピタ叩いていると肩を押され、仰向けにされて、膝を抱えられた。

「その程度、イヤなんて、思えないし。そもそも、まだ余力があるとみた」

 もう、この程度の力しか残っていないとどうして思えないの! 

「蒼ぉ、も、ムリ」

 チュッと音がするキスを胸元にして、唇をつけたまま、

「好きだよ」

 とくっと鳴る心音は、一気にカラダを緊張させ、熱をもたせた。

「ほら、イケる、だろ」

 薄暗い部屋の中で蒼の瞳がキラっと光って、鼓動が早くなる。

 手が震えてきたのを抑えるように拳にして、蒼の肩を叩く。

「あ、蒼のっ、ばかぁっ」

「ハイハイ。眠気も冷めた、な」

 私の腕を引っ張って、自分の首に絡めるように巻き、背中を持ち上げる。

「蒼ぉ、も、や……ぁ」



 カーテンの閉まっていない窓からの陽の光が瞼を透けて届き、瞳を開ける。

「うんっ」

 窓を見ようと、体の向きを変える。

 青空は本日、晴天の合図。ちぎれたような長細い雲が、ほんの少し漂ってる。

 ベッドの下に落ちてる、Tシャツとハーフパンツを手を伸ばして拾う。

 ちらっと、背中越しに蒼を見ると、規則正しい寝息で、すこし幼くなったような寝顔。

 大人の蒼の寝顔は初めて見る。また、体の向きを変えて、蒼と向き合う。

(かわいい、なんて言ったら、怒りそう)

 笑いが漏れないように、口元に力を入れて、髪をすいたり、頬を撫でたりした。

 触れて、蒼を感じる時、愛しくて大事で、離したくないって想う。

(蒼も、神鳴様が来て、私が寝てた時、こんな気持ちだったのかな)

 それでも、蒼はぴくりとも動かず、全く起きそうにない感じ。

(シャワー浴びてこよ、かな)

 ウエストに置かれてる腕を、そうっと、持ち上げて、体を抜く。

 もう一度、蒼を見るけど、気がつかないまま、眠り続けてる。

 足音をたてないように、ドアの音をたてないように、バスに行く。


 シャワーを浴びて、体を拭きながら、鏡に映る自分を見て、ん? と、鏡に近づく。

「う、わ」

 思わず、鏡から顔をそむけて、胸から下を見て、がっくりと洗面台に手をつくと、二の腕の内側にも。それも、両方。

(ちょっと、待って、え? いつのまに)

 屈みこみたくなるのを、踏ん張って、下着をつけ、Tシャツとハーフパンツを着る。

 着ながら、体の細かいところを見るたびに、蒼のくちづけの痕がある。Tシャツの背中をめくって、鏡に映す。

(はぁ? どうして、こんなとこまで)

 いよいよ、屈みこんで、頭を抱える。

(た、タチが悪い……計算ずく。着てきた服で、ギリ隠れるところまでだもん。怒っても、そう言い返されるに決まってる)

  

「りっ……? り、わ!」

「ん?」

「理和? 理和! どこだ!」

 ドアの向こうからの悲鳴のような怒鳴り声に、慌てて、バスから出る。

「え、どうしたの」

 ベッドの上の蒼は、顔をゆがめて、泣きそうな表情をしてた。

「いた……、理和。よかった」

 彼は、うつむいて、はぁーっと長いため息。私は、ベッドに腰かけて、彼の頭を撫でた。

「いるデショ。そりゃ」

「一瞬、夢かと思った」

「は」

 蒼はパッと、顔を上げ、瞳を細めて、私を軽く睨んだ。

「理和が悪い。俺が起きるまで、側にいないから」

 そして、手を伸ばして、私の着てるTシャツの首元を引っ張る。それを戻そうと胸元でシャツを押さえた。すると、蒼の指先が鎖骨をなぞる。

「この痕、俺がつけたの、かなぁ」

「あっ、あたり前じゃない! シャツが伸びるよ、や!」

「俺んのだ、いいじゃん」

 シャツを引っ張り続け、襟からついに肩まで出して、指で、つんつんと痕を突く。

「覚えてないなー、ここも」

「ウソよ! あちこち、あるんだから!」

「見せて」

「や」

「俺、覚えてない」

 そんなことあるわけない! ほんのちょっと、前の事なのに!

「理和がいなかったショックで、忘れたんだ」

「ばっ、ばかっ」 

「ホントだって」

 後ろの髪を上げて、うなじを指先で、とん、と突いて、見ーっけ、とささやく。

「私の方が、知らないもん! いつのまに、そんな……」

 彼の指が離れるように、首を振る。

「ちゃんと、聞いたじゃないか、イイ? って」

「覚えてるじゃない!」

「理和も返事した、ちゃんと」

「だって、も、わかんないくらい、だもの」

 すると、うなじの指で突かれた所に唇の感触。

「もう、ダメ! や!」

「ナニ、怒ってんだよ」

「だって! こんなんじゃ、も、プールも海も行けない。約束してたのにー」

 当分、水着なんて着れないよ。服だって、困るくらいなのに。シャツをぐいぐい引っ張られ、力でかなうわけなくて、ついに蒼の腕の中。そしたら、やっと、彼はTシャツから、手を離した。

「そりゃ、よかった。行かんで、ヨロシ、俺も行けないし」

「え?」

「肩、痛い。理和も俺に痕、残しただろ」

 肩越し、ちらっと見ると、肩と腕の付け根の辺りに刻む、赤い爪痕。傷にはなってないけど、内出血がしばらく残るだろうか。

「お互い、だろが」

 首筋に頬をよせて、擦りつける。くすぐったくて、首を伸ばすと耳の下を甘く歯を当てられる。

「や、やっ、ダメ! 髪上げらんなくなる! 夏なんだから! 着る服も無くなっちゃう!」

 唇を私から離して、ひょいと覗き込むように顔を近づけた。その表情は、いたずらを企んでるように、瞳をキラキラさせてた。

「そら、いいや。閉じ込めたるさ、このまま」

 それは、むしろ犯罪だよっ。

 蒼はふふん、と、楽しそうに鼻を鳴らしながら、首元にくちづけを落とした。

「やだぁ! ダメぇっ」

 彼の肩を押して離れようとしたけど、ウエストに回された手にさらに力が入り、逃れられない。恥ずかしくて、瞳が潤んできた。蒼は、ニヤリと口元を片方だけ上げて、

「なら、どこだったら、いい?」

「は」

「理和がOKなとこ、教えて」

 かっと、顔に熱が上がって、両手で覆って、ナイナイという意味で首を振る。

「教えてくんなきゃ、困るの、理和じゃねーの? ビキニで隠れるとこだけ、ずーっとになっちゃうぜ? いいのかよ」

 顔を覆ったまま、がっくりと、首を折る。なんで、そうなるの、それもビキニ限定。も、蒼って、蒼ってこんなひと、なんだっ!

「だろ? 教えろよ」

 耳元に笑いを含んで、楽しそうな声でささやく。そして、私の左手の甲に吸いついた。

「だ、ダメ、ここ、ピアノ弾くと見えちゃう」

「あ、そうか。ふーん、ここは」

 そのまま、手首に口づけ。

「ダメ、手と腕は、や」

 顔から手を離して、背中に隠すと、彼は、わかりやすく眉をしかめて、唇を尖らして、すねた表情。

「えー?」

 不服そうに、言うな! 

「当り前じゃない! 今、夏だって言ってるじゃない!」 

 蒼は、一瞬、考えるように瞳が泳がせてから、私を見つめる。

「長袖、着るようになったら、手首より、上はイイ?」

 そうくるか。頭を抱えたくなるくらい、切り替え早く、逃げ道を作らせないな。

「え、あ、う……」

 言葉に詰まってると、私の返事を待たないで、蒼は、あっさり結論を出した。

「じゃ、秋まで待つ、として、ここは?」

 と鎖骨を甘?みする。とくんと心臓が跳ねて、すっと、息が止まる。

「や」

「はぁ? じゃあ、どこまでいいんだよ」

 そこまで、範囲を狭めたつもりはないのに、なんなの、この言い方は。ホント、蒼は荒い。

「そ、こは、ふ、冬まで、や」

「えー、冬? 長いっ。も、確認、ヤメるぞ」

「それくらい、待っててよ!」

『待ってて』 

 ふと、何か、おかしくなって、笑ってしまった。蒼が、きょとんとして、首をかしげてる。

 だって、次の、またその次の季節の約束をしてる。

 この先、一緒にいる前提の。

 蒼が、当り前のように言うのが、私は嬉しいのに、それに彼が気づいていない。

 そうなの、あのとき、『待ってて』が言えればよかったの。

 ふわっと、急に涙が溢れて、こぼれる。かすんでる視界で、蒼が心配げに眉をひそめた。

「理和? どうしたんだ」

 彼の声音が早口になってる。不安にさせたくなくて、蒼の体に腕を回した。

「あ、お」 

 蒼の想いに追いつくまで、『待ってて』が言えてたら、きっと、蒼は待っててくれたはずだもの。

『いつか、きっと』と言えばよかったの。

 そうしたら、蒼をキズつけないで済んだ。

 お母さんにも、つらかったことを思い出させずに済んだ。

 神鳴様が来るたび思い出す、悲しくて、つらかったことも。

 想い合ってても、近づけなかった長い時間もなく、今のような時を、キズのないまま迎えることが出来た。

 蒼に、どれだけ、我慢をさせてきたんだろう。それでも、私を迎えて、抱きしめてくれた。

 蒼に、どれだけ『好き』と言ってもらったんだろう。それは、彼の我慢と引き換えの言葉でもあった。 

 これから、私は、彼にどれだけの『好き』が返せるのかな。きっと、一生かかっても、彼の『好き』に追いつかないかもしれない、けれど。

『待ってて』

 蒼の胸から顔を上げ、泣き顔のまま微笑むと、彼はほっと、表情を緩めて、すぐに目尻にくちづけをくれた。

「好き。蒼が好きよ、ずっと、ね」

 彼は、頬に唇をつけたまま、ささやく。

「俺も好き、ずっと、理和だけ」

 顔を見て言いたくて、彼の頬に手を当て、こちらに向かせて、唇がくっつきそうなくらいまで、近づく。

 蒼の瞳が細くなって、嬉しそうに私を覗き込んだ。 

「蒼の『好き』が好きなの、嬉しいの」

 唇をかすめながらの告白に、蒼は、くすぐったそうに、くくっと喉を鳴らした。

「俺も理和の『好き』が好きだよ。キリないなぁ」

 ふたりでくすくす笑いながら、私は彼の首に腕を回して、蒼は私のウエストに腕を巻きつけて、カラダをぴったりくっつけて、くちづけをする。

 とりあえず、これで、『好き』の言い合いっこは、今は、終わり。


 いつも、これじゃあ、私の『好き』は、いつまで経っても蒼に追いつかないよ。

 それでも、いつまでも、言うわ、蒼に『好き』と。

 寄り添いながら。

 ずっと、ずっと、ね。 


 神鳴様に見られていた悲しいことなんて、上書きできるように。

 これからは、楽しくて、幸せなのばかり、見てもらうんだから。

 これから、神鳴様が、来るときは、ずっと。 



 夏の真っ青な空に、くっきりとした形の綿菓子みたいな雲。

 入道雲は、神鳴様が来る合図。


 強くて冷たい風が、濃いグレイの雲を動かす。ひとすじの稲光とまもなくの雷鳴。 

 ぺたぺたと歩幅の短い、ふたり分の軽い足音。

 ドアが開いて、ふたつの小さい顔が今にも泣きそうに崩れて、私のもとに飛び込むように、しがみついてくる。


「カミナリはね、神鳴様っていう神様なのよ」 

 タオルケットをかぶせて、髪を撫でながら、

「大丈夫よ、怖くないわ。あれはね、神鳴様っていう神様が空で音楽を奏でてるのよ。神鳴様がドーンドーンって空を叩くと光になって稲妻になるの」

 ひとりのすうっと眠りに入った寝息、もうひとりもくすんと鼻を鳴らして、いつもの寝顔になる。 

「大丈夫よ、眠りなさい。寝ている間に、音楽は終わって、神鳴様は、いってしまうからね。おやすみ」

 廊下から、聞き慣れた足音が聞こえて、ドアに目を向ける。

 そっとドアノブが動いて、蒼がドアから顔だけ出して、私にうなずいてから、入ってくる。

 私の側に座って、完全に寝入ってしまったふたりの髪をすきながら、小さな声で、

「大したもん。この大きな神鳴様でも寝ちゃうなんて」

「私たちも、そうだったじゃない」

 瞳を手の平でこすってると、蒼が、私を覗き込んで、

「理和も眠そう」

「うん」

「ふたりと一緒に寝ればいい」

「ん」

 慣れた仕草で肩を抱かれて横たわると、すぐに瞳は閉じてしまった。

 ふわっと、上掛けが体に下りてきた感覚と髪を撫でてくれる馴染んだ指先。

 いつものように、眠りにおちる。


 神鳴様、見てる? 

 今日も、芙亜ふあ芙生ふき、ふたりの子、元気です。蒼もね。

 まだ、神鳴様、怖がるけれど、これくらいの時は、私と蒼もそうでした。

 知ってるか、見てたものね、いつも。

 蒼との涙、苦しみも悲しみも、いつも、神鳴様の音楽の中で。

 蒼との喜びも幸せも、神鳴様、見ていたよね。

 神鳴様が来ると思い出すことばかり。

 今は、こんな緩やかで、楽しい日々なの。

 見えますか?

 子供たちは、いつか、神鳴様との思い出できるのかしら。

 楽しいのが、いいね。

 神鳴様の音楽を聴きながら、見られたくなくて、目隠ししちゃうこともあるかも。

 

 それでも、見てるよね、神鳴様。

 いつだって、音楽を奏でながら、ね。

理和のへなちょこなのと蒼のヤラシーのは想定外でした。最後は、ふたりをイチャイチャさせたかったから、こうなったのでしょう。

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