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恋はいつでも

無言歌

作者: 紙森けい

『土曜の午後は披露宴の打ち合わせだから、あんまり飲ませないでね』

 妹の菫の声が耳の中で響いた――吉野はため息をつく。目の前では未来の義弟・関目慎司がすっかり出来上がっていたからだ。

 吉野倫成みちなりの勤めるクサカ製薬では、毎年春に一週間の日程で、入社二年目のMS(営業担当)を対象にしたフォローアップ研修が実施される。MSを単なる得意先の御用聞きではなく、商品面、コスト面、情報面において、トータル的に、且つ、積極的に提案出来る戦略的営業職と位置づけているからで、初年度の営業活動を通して直面した問題点を報告し、それに対して検証・解決を同期や講師である先輩MSと図りながら、二年目のスキルアップに繋げることを目的にしていた。もちろん開発中の新薬に関する情報や、関係省庁の動きなど新たな『知識』も多分に用意され、かなり密度の濃い研修プログラムが組まれている。

 横浜支社・病院二課係長である吉野は講師として、部下の関目は経験談を語る『成績優秀な先輩』として、研修の後半から参加していた。

「係長、今までどこ行ってたんすか」

 向かいに座った吉野に関目が声をかける。

「大城さんに捕まってたんだよ」

 研修最終日の夜は、近くの居酒屋を借りきって打ち上げの宴会となるのが恒例だ。気の張った缶詰研修からの解放感、久しぶりに会う同期との旧交、それに無礼講が加わって、フォローアップ研修の打ち上げはいつもアルコールの消化が早くて賑やかだった。

「ああ、大城大先輩! あの人、酔うとしつこいから」

「関目、おまえ、飲みすぎじゃないのか? 菫に叱られるぞ。明日の午後、予定あるんだろう?」

「大丈夫ですよ、そんなに飲んでませんって」

(嘘つけ)

 目は据わっているし、呂律もどことなく怪しい。酒に強い関目がこれほどになるとは、吉野が先輩社員の絡み酒に捕まっていた小一時間の間に、どれだけの量を飲んだのやら。

 気さくで面倒見が良い彼はすぐに研修参加の若いMS達と打ち解け、打ち上げでも輪の中心にいた。アルコールに強いと自負もあるだけに、後輩連中に勧められるままにグラスを空けたに違いない。もっとも目が据わり呂律が回っていないのは関目ばかりではなく、辺りには後輩達の『屍』が累々としていた。

(すまん、菫。そんなに睨むなよ)

 脳裏に浮かんだ妹の顔は、口をへの字に曲げていた。きっと酒臭い息は翌日の午後まで残るだろう。そうして家で待つ妹は、現実でも同じ表情で吉野と関目を見るのだ。

 ここまで飲んだのなら、後はどれほど飲んでも結果は変わらない。自分の体重の1.5倍はあろうかと言う酔いの回った関目を、宿舎の部屋までどうやって連れて帰るか。吉野は眼鏡のレンズを拭きつつ、思案した。




 研修所内の宿舎に戻ったのは日付が変わった頃だった。居酒屋の打ち上げはもう少し早い時間に終わったのだが、飲み足りない有志は二次会と称してスナックに流れ、その中には吉野と関目も入っていた。

 吉野は彼の肝臓の働きの良さに、今更ながら驚いた。居酒屋を出る時には酔いは落ち着き、スナックに着くとまた勧められるままにグラスを空にする。もともとの体質か、それとも大学時代にラグビー部で鍛えられたものか。

「それじゃ、僕達はこれで」

「ああ、ありがとう、助かったよ。おやすみ」

 しかしさすがの関目もお開きになってタクシーに乗り込む頃には正体を失くし、吉野は同乗した研修生の手を借りて、何とか部屋まで彼を連れ帰った。

 研修生達に礼を言ってドアを閉めると、ベッドに大の字に横たわる関目を振り返る。高いびきですっかり熟睡モードだ。

「おい、関目、服くらい着替えろよ。皺になるぞ。関目」

 揺すっても微動だにしない。明日は帰るだけだし、すでにカラーシャツは皺だらけだったので、そのまま寝かしておくことにした。

 吉野は自分が使っているベッドに座り、関目を見る。口を心持ち開いた無防備な寝顔は、子供のようだと思った。

 彼と吉野の妹の菫は二ヵ月後に結婚する。転勤してきた関目が吉野の下に配属されて間もない頃、仕事が立て込んで終電を逃した彼を、家に連れ帰ったことが二人の出会いだった。菫が高校時代にラグビー部のマネジャーをしていたこともあり、すぐに意気投合。最初は友人として、半年後には結婚を前提に交際を始めた。

「いいのか、関目? あんな気の強い妹で。おまえ、絶対、尻に敷かれるぞ?」

「そこがいいんですよ、サバサバしているとこが。もちろん、俺だって黙って尻に敷かれるつもりはないですから」

 惚気のような交際の報告を受けて、吉野の胸中は複雑だった。

 吉野家の両親は既に亡い。吉野が就職したばかりの二十三才の夏に、事故で一度に失ったのだ。菫はまだ九才だった。それから十六年、吉野が親代わりとなって妹を育てた。その彼女の結婚話に、一抹の寂しさを覚えるのは仕方がないことだったが、ただ相手が関目だと言うことが、更に吉野の気持ちを複雑にした。

「うーん」

と関目は寝返りを打ち、またすぐにもとの大の字に戻った。シャツのカラーや、ベルトをしたズボンが窮屈なのかも知れない。眉間に一瞬、皺を寄せ、無意識にベルトを緩める。次にシャツのボタンを外しにかかったが、三つ目に指をかけたところで彼の動きは止まった。

 その様子をぼんやり見ていた吉野は苦笑して腰を上げた。せめてシャツぐらい脱がせてやるかと、ボタンに手を伸ばした。

 一つ、また一つとボタンを外す。

 関目の広い胸はゆっくりとした呼吸に合わせて大きく上下した。ボタンを外す吉野の指は、見惚れるように動きが鈍る――こんなに、広い胸だったのかと。

 全てのボタンを外し終えた時、吉野は彼の鳩尾の辺りに躊躇いがちに右手を乗せた。アンダーシャツを通して彼の体温を知る。こうして触れられるのは、最初で最後かも知れない。「馬鹿なことをやっている」と自覚はあるものの、手を離すことは出来なかった。

 手のひらが熱い。胸と手は互いの体温が重なってしっとりと汗ばむ。それを感じて吉野がようやく関目の胸から手を離したのと、大の字に広げられていた彼の腕が身体に巻きついたのは同時だった。

(え?!)

 つい今しがたまで触れていた胸が目の前に迫ったかと思うと、吉野の身体は「あっ」と言う間もなしに抱きこまれる。眼鏡が鼻からズレ、細いフレームが不自然に歪んだ。

 何とか逃れようと吉野は身をよじったが、肩に回された関目の長い腕には逃すまいとするかのように力が入り逆効果となった。相手は意識がないだけに始末が悪い。しばらくすれば腕も緩むだろう。吉野は仕方なく、そのまま身体を預けた。

 微かに残るコロンと煙草の匂いが、関目の胸であることを実感させる。吉野の頬の下に彼の鳩尾があり、自分の手が残した『熱』を押し付けられた。その『熱』はたちまち吉野の身体全体に広がり、連動して心拍数も上がる。「落ち着け、落ち着け」と心の中で唱えながら深呼吸を繰り返した。徐々に平常に戻り始めた吉野の拍動は、関目の呼吸にシンクロする。

 広い胸の緩慢な動きが心地いい。凪いだ海にゆらゆら浮かぶ小船になった気分だった。このまま、彼の腕の中で眠ってしまえたら…と吉野の瞼は次第に重くなる。

「菫ちゃん」

 関目の声が耳に入った。

 微睡の淵にいた吉野は「ハッ」と目を開ける。関目が起きた気配はなく、寝言なのだとわかった。身体に広がっていた甘やかな熱が、急激に引いていくのを吉野は感じた。

(何をしてるんだ、俺は?!)

 関目が起きるのも構わず、身をよじる。先ほどより幾分緩んだ腕から何とか抜け出せた。その際、眼鏡が外れたが、吉野が取ろうとするよりも先に、うつ伏せの体勢に寝返りを打った彼の身体がそれを下敷きにする。軽量重視の華奢なフレームとプラスチック・レンズの眼鏡だから怪我をする心配はないが、それよりも何よりも、感情に流されそうになった自分自身に驚いて、眼鏡のことなど考える余裕もなく、吉野は慌てて部屋を出た。




 自動販売機コーナーの長椅子に吉野は座っていた。頭を冷やすつもりで買った冷たい缶コーヒーが、開けられることなく手の中にある。手の熱を吸って、すっかり温くなっていた。

 吉野が四十路を間近にしている今まで、独身を通しているのは菫のことがあってのことだが、それは上司からの見合いの話を断るちょうど良い口実でもあった。吉野自身、恋愛の対象が異性ではなかったからだ。もちろん菫を嫁に出すまでは特定の相手を作ることはしないつもりだったし、息抜きで関係を持つことも控えてきた。実際、仕事と『子育て』を両立するのはかなり大変で、暇もなかったと言えば言える。

 菫が大学を卒業して就職し、自分の手から離れるのもそう遠くないと思った頃、関目が東海支社から転勤してきた。

 大柄でほどよく筋肉のついた身体はスーツがよく似合っていた。気さくで社交的な性格だが、度が過ぎる馴れ馴れしさはなく、体育会系出身の小ざっぱりとした身なりと礼儀正しさが好ましい。仕事に対してモチベーションが高く、前任地ではトップの営業成績を残していると聞いていたが、きっと横浜支社でもそうなるだろうことは、彼の仕事ぶりを見れば推測できた。

 昔に比べてゲイの認知度が上がったとは言え、ヘテロ(異性愛者)の方が圧倒的に多く、世間的にはまだまだマイノリティだ。好みのタイプだからと言って、相手がゲイである可能性は極めて低い。その上、簡単にカミングアウト出来るほど世の中は寛容ではないし、確実に相手を見つけるには、それなりの場所で出会いを求める方が手っ取り早かった。それは吉野もわかっている。ソノ気のない人間に恋をして、想いを告げないまま失恋したことは一度や二度ではなく、その度に虚しい思いをした。だから『一般社会』には恋愛を持ち込まないように努めてきた。

 しかし努力など恋情の前にはひとたまりもない。「これはダメだ」「あれは望みがない」と思うほど、惹かれてしまうのが恋なのだろう。今までは『子育て』が歯止めになっていただけ。父親業から解放されて一人の男に戻った時、それは吉野の心に滑り込んできた――関目慎司と言う形になって。

(兄妹だと、好みも似るのかな)

 同じ職場で顔を合わせる毎日が、吉野の中で彼の存在を大きくしていった。十才近くも年下の自分の部下に、忘れていた感情が甦る。ただこの恋は成就しないことはわかっていた。休みになると関目は菫を迎えにくるようになったからだ。

 ヘテロな上に妹の恋人。再来月には結婚。これ以上の失恋の仕方があるだろうか? 

 失恋して、想いは殉じたと思っていた。なのに今夜、未練がましく燻ぶっていたことを思い知る。

 朝になって帰宅すれば、このわだかまりも消えるだろう。午後には関目が菫を迎えに来る。アルコールが多少残ったその様子に彼女は眉を顰めて婚約者を叱り、兄に文句の一つも言うに違いない。そんな妹を嗜め、吉野は二人を披露宴の打ち合わせへと送り出すのだ。

 いつもの日常。吉野の想いは再び心の奥に仕舞われ、そして二ヵ月後には、目の当たりにする現実によって永遠に封印される。

 しかし今はまだ、頬には関目の体温が、鼻腔には彼の匂いが残り、甦った想いが吉野の身体中を支配していた。

(早く、朝になればいいのに…)

 立ち上がり、細いはめ込み式の窓に近づく。屋内の明かりで、窓は鏡のように吉野の姿を映していた。

 ガラスに額をつけて外を見る。裸眼でぼやける目を凝らし朝の気配を探すが、漆黒の闇が続くばかりで見つけられなかった。あたりまえだ、まだ午前二時にもなっていない。

 額を離すと、再び自分の姿が窓に映し出された。貧弱な体格の、疲れた、それでいて物欲しげな表情の中年男が立っている。隠微な何かを纏うその顔の部分を、吉野は右手のひらで押さえた。ガラスの冷たい感触が、微かに残った関目の余熱を奪っていく。

 それを感じながら、吉野は目を伏せた。




「昨日は本当にすみませんでした!」

 寝起きの開口一番、関目は吉野に頭を下げた。覚えているのは二次会に流れたところまでで、それからは記憶に残っていないと言う。

「これ、係長の眼鏡ですよね?」

 関目の手のひらには、へしゃげた吉野の眼鏡が乗っていた。レンズは割れていないものの、かけて帰るのはとうてい無理な有様である。それを差し出した関目の表情は、申し訳なさ度がMAXだった。吉野は破顔して眼鏡を受け取る。

「すみません、帰ったら弁償しますから」

「いいよ、家にまだ予備があるから。それより一緒におまえを運んでくれたヤツらに礼を言っておけよ」

 吉野はそう言うと顔を洗うために、先に洗面所に入る。

 洗面台の鏡に映る顔を見た。寝不足で目の下に薄っすらと隈らしきものが出来ていた。疲れた顔には違いないが、夜中に窓ガラスに映し出されたそれとは印象が違う。

(いつもの俺だ)

 吉野はホッと息を吐き、身支度を手早く済ませて関目と代わった。

 帰りはチャーターされたバスに分乗し、最寄の新幹線の駅で解散。関目は部屋まで運んでくれた後輩達を、新幹線に乗り込む前につかまえて礼を言った。後輩達はともかく、講師を務めた諸先輩の突っ込みには容赦がない。関目はバツが悪そうに照れ笑いを浮かべる。

「参りましたよ、俺、そんなに酔ってました?」

 頭をかきながら、関目は先に新幹線に乗り込んでいた吉野の隣に座る。

「いや、タクシーに乗って寝入っただけだ。大城さん達にかつがれたんだよ。実害は俺だけ」

「本当にすみません」

 彼は眼鏡のない吉野の顔を見て、あらためて謝った。

「それはいいけど、帰ったらもっと大変だぞ。ちゃんと菫に言い訳してくれよ、俺が飲ませたんじゃないって」

「酒臭いの、昼までに取れるかな」

 関目は手のひらに息を吹きかけて臭いを確認し、顔をしかめる。その様子を見て吉野は笑った。

 新幹線が出発すると、途端に睡魔が吉野を誘う。

 吉野が自動販売機コーナーから部屋に戻ったのは、あれから三十分ほどしてからだ。シャワーを浴びてベッドに入ったが眠れるはずもなく、また隣で眠る関目の寝息を聞きたくなくて、朝までテレビをつけたまま過ごした。うとうととしかけた頃に目覚ましのアラームが鳴り、ほとんど眠らぬままに起床した。

 窓際の席で陽の光が目に眩しかったが、気にならない。大らかな関目の話し声がちょうど良い子守唄になっている。

「係長?」

「…着いたら、起こしてくれ」

 辛うじて彼にそう言うと、吉野は目を閉じた。

 目覚めたなら、今度こそ、いつも通りの自分に戻れるはずだ。昨夜の自分は、あの『時間』に置いていく。

 だから、これで最後。


――好きだ




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