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今まで語ってこなかったが、俺たちの出発地点は、千葉だった。俺や夏江からにじみ出るシチズンな雰囲気は隠しようがないから、明言せずともおおよそ察しはついていたかと思う。我々は千葉県民である。
千葉の海岸線を行軍する上で辛い点は、ふたつある。ひとつは、道行く先で遭遇するサーフィンをたしなむお兄さん達のチャラい雰囲気。まあ、これは心を無にして、自転車で走り去ればどうということもない。問題は、もうひとつ。半島の存在だ。
半島というのは、海岸線が一度出っ張って、それから引っ込んでという突起状の形をとる。何が言いたいかというと、陸路をつっきるのに比べて、非常に遠回りなのだ。北を目指しているはずなのに、一時的に南に向かって逆走しなければならないのは、精神的にきつい。
じゃあ距離の利をとって陸路を行った方がよいのか。しかし、それはやめておこうという点で、俺と夏江は見解の一致を見た。何せ、我々は現代っ子の例にもれず地理に疎い。道なりに進めばいいだけの海岸沿線に比べて、陸地は魔境だ。ただでさえ、目的地のはっきりしない旅であるのに、この上往路の道筋もはっきりしないのでは、人生の道にさえ迷ってしまいそうだ。
というわけで、房総半島を無事に通過するだけで、我々の七月は消えた。
妙な旅だった。
まず、夏江の毛事情について詳しくなった。俺は朝髭剃りをする女性というのを初めて見た。夏江は夏江で、洗濯器に水を張る必要がなさそうなほど潤いに満ちた俺の着用済みシャツに、感銘を受けていたようだ。一週間が経つ頃には、その光景は俺たちにとって日常になったように思う。俺は、女性とは、朝、洗面所に立って顎髭を剃る生き物だと思うようになっていたし、鏡に向かって顎をつんと逸らす横顔を、一種セクシーな記号として認識するようになってきていた。
夏江も夏江で、きっと体臭というものにおそろしく鈍感になったことだろう。俺の体に触ることに躊躇する様子が目に見えて減ってきた。自転車に二人乗りする都合、夏江の頬が俺の背中にうずもれるシーンは少なくなく、そういう時、しばしば夏江の顔は、軟体宇宙人に襲撃された映画のヒロインのようにべとべとになるのだが、最近の夏江は、ともすればそのべとべとをタオルで拭くでもなくシャワーを浴びるのでもなくそのまま放置するようになった。慣れて、当たり前になった結果、意識しなくなり、汗の存在自体を忘れるようになったのだ。自分の体毛は忘れないくせに。しかし、とはいえ、夏江は女だ。かえって俺の方が気にして、毎度夏江の顔を拭いてやったり、シャワー室にぶちこんだりするシーンが増えるようになった。そういう時も、夏江の反応は「あ、そうか、汗ね、そういえばそうだね」くらいのもので、きょとんとしていることの方が多いのだが。こうやって人類はくさややドリアンに慣れていったのだろうなと思わせる変化である。
そう、慣れだ。それは一般化の工程である。俺たちは、この奇妙な旅を自分の日常にしつつある。たかだか数週間の二人旅に順応しつつある。しかし、それは結局慣れただけだ。日常のように見えつつ、結局この旅は非日常である。いつか終わる期間限定のミュータントだ。だからこそ、俺たちは急激な早さで、この非日常を日常にしてしまいたいのかもしれない。
この旅は、どこに行くんだろう。もちろん、目的はわかっている。夏からの逃避行だ。酒のいきおいで始めたよくわからない不合理な長期サイクリングだったが、アルコールが抜けたら抜けたで、特段不満があるわけではない。夏に感じる敵意というのは、俺にしろ、夏江にしろ、秘密サークル「夏を滅ぼす会」のメンバーが心の根底に持つ共通意識だ。むしろ、漠然とではあるが、夏に反抗しているような気分にさせてくれるこの旅に、俺は馬鹿馬鹿しくも、ある種の妙味を感じてさえいた。だから、俺の心配ごとはもう少し別のところにあった。
夏から逃げた結果として、俺たちはどこに辿りつくのだろう。俺たちの人生は長い。この自転車のペダルを、俺は三十になっても、四十になっても、漕ぎ続けるのだろうか。その時も、背中には夏江がいて、汗臭い俺の背中に頬毛を押し付けているだろうか。その時には、俺が漕ぐのはペダルではなくなっているかもしれない。けれど、同じことだろう。俺たちは、黙って夏に滅ぼされるわけにはいかないのだから。
あるゆる意味での逃避行だった。俺たちは夏から逃げていた。それは、つまり地球の地軸の運動とチキンレースしているのと一緒だった。かつ、俺たちは自分達の将来からも逃げていて、かつ、かつ、直近でいえば、ごく身近に存在する大学生活と、そこに付属する人生から逃げていた。あまりにも逃げるものが多すぎて、ゲシュタルト崩壊しそうだ。そして、事実そうなった。