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「原畑はいいよ。自業自得だもの。要は食べなきゃいいんでしょ。不摂生の賜物だもの」
「ちげーよ。はったおすぞ。体質なの。俺がパンの耳と水だけでランチ済ませてるところ、何回か見せただろ」
「なんかどこかの研究室で真面目に人体実験したら、アフリカの飢餓問題に一石投じられそうな体質だよね……」
結局、コーヒーでは済まず、冷蔵庫で冷えていたビール類にご登場いただいてから既に数時間が経っていた。俺も夏江も、酒は弱くないので、気まずい酒宴がいつまでも終わらない。酔いつぶれられない、泣き寝入りできないのは、夏江にとっても不幸だったことだろう。
「もう、とっくだよ。そんな研究」
「そうなの?」
「実際、真面目に調べてみたことがある。世の中には、いっさい食べずに生きていける人種が、ごくごくまれにいるらしい。そいつは、腸内バクテリアの作用だ。腸で寄生するバクテリアが栄養を作り出し、それを取り入れることで宿主である人間も生きる。つまりは、互いに寄生している状態で、いわば共生だ。そいつは、少ない水で育てたトマトみたいに、普通は、宿主側から栄養が供給されないっていう極限状態の中でだけ起こる腸内バクテリアの自衛作用だけど、多分俺の体の中には、そういう開閉弁がないんだろう。常に、バクテリアは栄養を過剰に合成し続けていて、俺がものを食べようが食べまいが、それは変わらないんだ」
「でも、実際に、検査したわけではないんでしょ」
「いくらかかると思ってるんだ」
「そっか。そうだよね」
転がる空き缶に囲まれて、夏江は再び膝に顔を埋める。
「私もさ。一緒だよ。早く全身脱毛したいけど、お金が足りなくてさ。安いところで受けたことあるけど、全然効かなかった。格安だったけど、それだって全身分だと結構な値段になってさ。うまくいかなかった分、私の目標貯金額がまた後退した……」
「純粋に興味なんだけど」
俺は、ビールを片手に言う。
「そういうのって、その、自分で区別つくの。アレの毛と」
胸毛があって、腹毛があって、その下にも更に毛が生えているなら、実質境いがない。そういうことには、男性である俺の方こそが詳しいようなもんだが、あいにくと俺は体のサイズに比して体毛は薄い方である。
「馬鹿」
「悪い」
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿」
「そんなに? 酒のノリじゃん」
「あー、でも、そっちの方がいっかなー。セクハラされる限りはさー、異性として見てくれている可能性にワンチャン感じるよねー。たとえ、相手が原畑でもさー」
「うっせ」
「酒のノリ、酒のノリ」
ひぃはは、と夏江は変な声で笑う。
俺は、こいつの苦労を知らない。「毛深い」なんてコンプレックス、きっと男性だろうと苦悩の種だろうに、女の身でそういうハンデと立ち向かっているこいつの人生には、これまでどれだけの苦難があっただろうか。同じように、こいつだって俺の苦労を正確に把握することはきっと難しいはずだ。仮に想像できたとしても、こいつは、俺の部屋に洗濯機が二台あることの意味を正確には理解できないだろう。夏という共通の敵を持つ我々であってさえそうなのだ。いわんや、世の大半を占める常人たちをや。
気付けば、窓から薄く光が差し込みつつある。東の空が明るくなり始めていた。いけない。完全に閉じたつもりだったのに、カーテンに隙間を作っていたとは。これでは、エアコンの冷気が逃げる。
「もう。あー。もうさ。なんか。ほんと、もう」
「どうした」
「やだよね。なんかもう、やだよね。全部さ。全部やなかんじ」
「うん」
主語を欠いていたが、俺は全面的に同意した。俺たちは、今後どうなっていくのだろう。大学を卒業して、社会人になった後も、こんな苦悩と戦っていかなければならないのか。そもそも、こんなハンデを抱えて、就職できるのか。その会社は、給湯室があるくらいの当然さで、ランドリールームを併設してくれているだろうか。エアコンは常にがんがんで、俺がファブリーズを持参する理由を追及しないでくれるだろうか。悩みは尽きない。
「原畑」
急に夏江が立ち上がった。その拍子にずるんと左側の襟が肩からこぼれ落ちて、毛むくじゃらな胸元が左半分あらわになる。首から顎にかけて、一夜分増殖した硬い毛が、ひげのようにつぶつぶと頭角を現しつつある。やはり、電気シェーバや五枚刃の剃刀で毎朝処理しているのだろうか。
「なに」
「もうやだ。私、たくさんだ。逃げよう。そうしない? 二人で逃げ出そう」
「何から」
「夏から」
何を言っているか意味不明だった。けれど、夏江の表情は真剣そのもので、俺は見下ろす視線から顔をそらせなかった。
「もう、こんな世界はたくさんだよ」
「俺もだ」
それで、俺たちは夏を滅ぼす会あらため、夏から逃げ出す二人組になった。