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深夜の珍客を迎えてから、二十分後。
とりあえず風呂場にぶちこんだ夏江は、仏頂面は変わらないものの、幾分の湯気を付帯させて、洗濯したばかりの俺のティーシャツをひっかぶり、大人しくカーペットに腰かけていた。
「で、どうした」
足の短い小机に二人分のコーヒーを置きながら、俺はあらためて訊く。
持ち手が熱いらしく、夏江は服の袖ごしに両手でカップを押さえ、ふうふうと息を吹きかける。頬と鼻周辺がほんのり赤いのは、風呂上りのせいか、酒を飲んできたのか、年甲斐もなくぼろぼろ泣かなければならない何かがあったのか――多分その全てだろうという気がした。
俺は経験則的に黙っていた。こういう時、回答を急がせてうまくいったためしがない。
どれだけ沈黙が続いたろう、やがて、拗ねたように口を尖らせ、夏江はぼそりと言った。
「ふられた」
「マジか」
「別れようって言われた」
「マジか」
素直に驚く。おもとして、こいつに恋人に相当する存在がいたことについて。一方で、その結末については、何ら意外性を感じない。むしろ、我々に訪れる結末としては、至ってありきたりな部類だろう。
「理由は、やっぱり?」
「うん」
相変わらず服の袖で指を守りながら、夏江はコーヒーをずぞぞとすする。
「原畑のシャツ、おっきいよね。でも、彼のシャツはそこまでおっきくなかったんだ。腕見られちゃって。なんだそれはって言われて。で、全部ぱあ」
「……。や、そこで俺を引き合いに出すなよ」
「なに、その反応。傷ついている女相手に、なぐさめの言葉くらい出ないの?」
「や、だから、自分が傷つくのに、俺を巻き添えにしないでくれって話。とばっちりで、こっちも傷つくんですけど」
「デブ」
「うっせ、剛毛女」
「あ?」
「あ?」
深夜の六畳間で、しばしお互いにメンチを切り合った。なんてむなしい喧嘩だろう。
先に視線をそらしたのは、夏江の方だった。
「やめよ。こんな無意味な言い合い」
賛成だった。何が悲しくて、お互いに傷口を掘り返すような捨て身のチキンレースに興じる必要があろうか。
はあ、と夏江はため息をつく。シャツの胸元をつまんで、自分で中をのぞき込む。
彼女に貸し与えたシャツは、男女の差を考慮した上でも大きすぎた。縦も横もだるだるで、裾はすっかり床についている。女性もののワンピースよりも丈がありそうだった。けれど、俺にとっては標準サイズなのだ。
つまんだシャツの襟から、夏江の胸元がちらりと垣間見えた。その肌はきめ細かく色白であるのに、びっしりと背の長い毛におおわれている。胸の谷間が体毛に縁どられているという光景は、なかなか刺激的だ。平均的女性と比べるに、あるまじき胸毛。けれど、夏江はれっきとした女であり、ついでにいえば、あるまじき剛毛におおわれているのは、何も胸元だけではない。
別に、何ら特別なことはない。少なくとも、あのサークルに所属する人間は、皆、こういう特異性を抱えて生きている。
「夏なんて、大っ嫌い」
折りたたんだ膝に顔をうずめ、無理矢理笑いを含ませたような声で、夏江が言った。
同感だ。だから、あのサークルに所属している。
秘密サークル『夏を滅ぼす会』。
ああ、早く夏を滅ぼしたい。