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「あ」
ある日の旅館だった。いつも通り日が暮れる前に力尽きた俺を引きずって、夏江が駆け込んだテキトーな近場の旅館。たしか既に茨城県に突入していたと思うが、詳しいことはわからない。地理の把握はもっぱら夏江の仕事で、俺はひたすら自転車の駆動機関に徹していた。
ただ、そんな俺にも今回の旅館の特異性は簡単に見てとれた。旅館というだけあって、入浴は温泉が主体なのだ。そして、旅館だけあって、個室ごとのシャワールームがなかった。仕方なく俺は部屋で簡単にバスタオル等を使って体を拭っていたのだが、その内、夏江が温泉の予約がとれたからといって、浴衣を着て一緒にくるよう促した。よくわからないが、聞けば、この旅館には、何人も入れないような小さな温泉がいくつかあって、事前の予約制で一時間だけその湯船を独占できるらしい。まるで、人目を避けながらの入浴を余儀なくされている我々のためのようなシステムではないか。なかなか気の利いた旅館だ。
仕方ないとはいえ、これまで数々のホテルで、大浴場を素通りして部屋のシャワーで済ませてきたのだ。小さいながら、温泉を独り占めできるときいてうれしくないわけがない。俺は、夏江に言われるまま、浴衣に袖を通し、連れ立って一階に降りることになった。
その途中の廊下で、不意に夏江が呟いたのだ。
あ、と。
「夏江?」
怪訝に思い、訊くが、夏江は答えない。それで仕方なく夏江が凝視する方向を俺も見ることにした。視線の向こう、廊下の先に、俺たちと同じように二人連れの男女がいた。やはり、同じように浴衣を着て。やはり、同じように男側が驚いた顔でこちらを見ている。違いといえば、剛毛女と肥満男の組み合わせに比べると、向こうさんはだいぶ普通のカップルというか、むしろ容姿に恵まれた二人組であるようだった。
「夏江、夏江じゃん」
男が、作ったような気さくな声で言った。夏江の背が一瞬びくりと震え、その右手が浴衣の合わせ目をぎゅっと握りこむ。着替えるに際して、夏江は中にタンクトップを着ていたので、別にそんなに必死で隠さずとも、彼女の身体的コンプレックスが外から見えることはないのだが、思わずそうしてしまう気持ちはわからなくもない。こわばった彼女の唇が、誠司、ともごもご呟くのが聞こえた。それで男の名前がどうやら誠司らしいということが俺にも理解できた。誠二であるかもしれないし、清治であるかもしれない。字は、当座適当な当て字である。
「えと。なに。お前も、ここ来てたの? すげえな。偶然」
「……」
「誠司? そのひと、誰なの?」
男の隣の女が小首をかしげて訊く。おお、週刊雑誌から飛び出てきたような、典型的大学生的美人。
「あ、うん、俺のトモダチ。なあ、夏江」
「………………うん」
トモダチ、と男が言ったところで、夏江がふっと目線を下げた。男に、それに気付いた様子はない。
「えっと。それでさ」
男の目が横に流れ、ちらちらと俺を見ているのがわかった。表情は半笑い。でも、俺はその中に混ざる侮蔑の意味を知っている。ああ、この会話の流れは不穏だ。いや、むしろ順当というべきか。俺は、この後どういう会話が続くのか、あらかた見当がついている。ここ数週間忘れていたが、本来俺はそういう人種なのだ。横にいるだけで、隣の人間に悪い評判を与えてしまう。
「そっちの人は? まさか彼氏ってわけじゃないよな。いや、ごめん、俺もまさかなーとは思ってるんだけど」
「……ごめん、私たち、急ぐから」
俺の手首を夏江がとった。あ、おい、と俺が言う暇もなく、夏江は誠司クンの横をすり抜けていく。俺はされるがまま、夏江の後に追従した。横をすり抜ける瞬間、この後のトラブルを軽減する目的で軽く会釈してみたが、誠司クンの目が俺を見ることはなかった。




