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2.菊花姫

 侑生ゆうせいと別れたのち、珪己けいきは後宮内にあてがわれた自室に少しの荷物を運び入れると、無遠慮に寝台に寝転がった。少しの間はじっとしていられた。だが気づけば大胆に転がっていた。ごろごろ、ごろごろ。何度も何度も。


「……信じられない。信じられない!」


 だが少しでも動きをとめると、あの時のことが思い出されてしまう。あらためて気づいた侑生の整った顔だったり、服ごしに頬に感じた温もりだったり。耳にかかった吐息だったり、衣に控えめに焚き染められた白檀の香りだったり……。


「こんなものをもらったりしたから余計に思い出しちゃうじゃない……」


 文机の上には扇子が置かれている。先ほど、別れ際に侑生に手渡されたもので、「後宮におられる間はいつも身に着けておいてください」と、繋いでいた手を離したその隙に握らされてしまったものだ。


 珪己はのそりと起きあがり扇子を開いた。それは無地の青い布が薄く張られているだけの、侑生の官位にしては簡素なものだった。だが、これには衣以上にしっかりと白檀の香りが焚き染められていて、開いただけで広いとはいえないこの部屋の隅々にまで香りが広がっていった。


 しかし、と珪己はあらためて思い返す。


 扇子について語りかけた際の侑生の表情は、その直前までの突飛で甘い行動とはそぐわないものだった。どちらかといえば、侑生が枢密副使すうみつふくしであるということを思い出させる類のものだった……ような。


「……ということは、この扇子は持っているべきよね」


 そう考えたほうがこれ以上侑生の言動に悩まされなくてすむという逃亡意識も働き、珪己は束の間の師の問いについてはこれ以上深く考えることをやめにした。



 ふと、扉の向こうに衣擦れの音と気配を感じた。


 珪己は姿勢を正し手早く乱れた衣を整えた。数拍ののち、かの気配の当人が室の前で立ち止まった。


「珪己殿、これから菊花姫のもとへご挨拶に参りますのでお支度ください」

「はい、ただいま」


 やや乱れた髪を鏡の前でさっとなでつける。

 少し逡巡したが、侑生から贈られた扇子も腰帯にさした。


 一息つき、あらためて鏡ごしの自分を見る。


(うん、大丈夫。私は女官だ)


 心を定めてから扉を開けると、そこには先ほど紹介された女官長、江春こうしゅんがいた。清照せいしょうよりも少し年上くらいか。


 珪己は江春に促され、さっそく菊花の部屋へと向かうことになった。姫への初お目見えを願うためである。連れ立つ珪己を見ることもなく、江春は出会ったときからのつんとすました態度を貫いている。何か嫌われるようなことをしたのかしら、それとも元々こういう人なのかしら、と珪己が考えていると、前を歩く江春の方から背後の珪己に声をかけてきた。


「珪己殿は李副使の血縁の方なのだそうですね」

「は、はい」

李家りけ由来の方に来ていただけて私も大変うれしく思っています」

「こちらこそよろしくお願いいたします」

「……ところで、お二人は仲がよろしいのかしら?」


 突如振り向いた江春の目つきは思いがけず鋭いものだった。

 そこにははっきりと敵意が見えた。

 珪己は素早く頭を働かせると、この場でもっとも安全な回答を選んだ。


「いえ、私の家と李副使の家と、遠い血でつながってはいますが、残念ながらほとんどおつきあいはありません」

「あらまあ、そうなの?」

「今回も私を後宮で磨かせ良縁をと望む両親のたっての願いでのことでして、李副使にはご迷惑をおかけしてしまいました」

「あらまあ。あらまあ!」



 鈴のように軽やかにはずんだ江春の声音に、珪己は内心ぐっと拳を握った。どうやら選択は正しかったようだ。


 最大の懸案が取り払われたと見え、青竹がはぜるように江春が語りだした。


「そうそう、姫のことはお聞きですか?」

「はい、幾分かはうかがっております」

「姫が気難しい方だということも?」

「……はい?」


 そういえば、姫の境遇については聞いているが、姫自身については全く把握していなかった。


 姫であるのだから当然しとやかで気品があって、けれど周囲の不穏な様子に怯えていて、思わず手を差し伸べたくなるような可憐な少女なのだろうと……そう思い込んでいたのだが。


「実の母である胡淑妃こしゅくひは床に伏したままで物心ついたときからほとんどお会いできず、父である皇帝陛下はまったく後宮に足を運ばずで、まあ、姫は本当におかわいそうな方なのですが、それであのような気性となられてしまって」

「……姫はそんなに気性のお強い方なのですか?」

「ええ、お目見えすれば分かりますよ。ですので、あなたに来ていただけて本当に助かります。人手不足で困っていて。……ああ、あちらが姫のお部屋です」


 珪己の返事を待つことなく、江春はその部屋の扉近くに寄った。


「姫様、新しい女官が到着しました。お目通りしたく」


 すると、扉の向こうから幼女の強い声が響きわたってきた。


「いらぬわ! 来てはすぐにやめる女官などほしくない。立ち去れい!」

「姫様、この者はこれまでの女官とは違うかもしれません。まずは一目でも」

「いらぬといったらいらぬ! 消えい!」


 年相応のかわいらしい声に予想外の怒号を落とされ、珪己は唖然とした。姫は七歳と聞いていたが……さすがは姫、街の子供とは随分違う。


「ど、どうしましょう? 江春様」


 おろおろとする珪己に、江春は顔色を変えることなく、「それではまた改めまして」とあっさりと引き下がった。しかも「それでは」と言うや、珪己を置いて一人立ち去ろうとするではないか。


 珪己はあわてて追いかけた。


「江春様、いいのですか?」


 前を歩く江春は、足を止めることも珪己を見やることもなく、ただ大きくため息をついた。


「いいのですよ。どうせこうなると思っていました」

「ですが! お会いしなければ私はお勤めができません!」


 珪己の本来の勤めとは、菊花の身に起こる不穏な事象を排除することである。忍びではないのだから、菊花に会わずして目的は達せられない。


 江春は少し歩みを緩めると、珪己に向かって苦笑した。


「これまで姫のために雇われた多くの女官が辞めました。そのうち半数は姫にお会いすることもかなわず、お会いできたとしても姫にいじめぬかれて泣きながら後宮を後にしたのです。また明日参りましょう。明日お会いできなければあさって、あさってお会いできなければしあさって」


 この時、珪己は自分の勤めが長期となることを覚悟した。

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