1.登城
あくる朝、女官姿となった楊珪己は李侑生に伴われて登城した。
珪己は優雅に揺れる薄衣の裾に足をもつれさせながら、それでも目に映るすべての景色に心を動かされていた。
これまで遠目で眺めていただけの巨大な正門をくぐり抜けると、背よりも何倍も高くそびえる宮城の外壁の内側には、想像を超えた別世界が広がっていた。複雑な彫刻が施された瑠璃瓦の楼閣、豪奢な龍の飾りを屋根に備えた二対の大殿。行き交う多数の文官、所狭しと配置された武官。居並ぶ官舎の数々……。四方を囲む外壁の内側は別世界のようで、珪己は圧倒されたのである。
(私、これからここでやっていけるのかしら)
腰のくびれを引き立てるようにきゅっとしめられた帯のせいか、息をすることすら難しく思えてしまう。慣れない化粧や高く結い上げた髪も自分を締めつけるかのようだ。
そのとき、ぽん、と、羽のように軽く、侑生の手が珪己の肩に添えられた。
「大丈夫ですよ。玄徳様と私が必ずお護りしますから、珪己殿は安心して職務を全うしてください」
「……ありがとうございます。ゆう……いえ、李副使」
珪己は少し赤くなってうつむいた。
昨日までの李家におけるめまぐるしい講義の日々、珪己は侑生と長い時間を共に過ごしたのだが……。
実は珪己はこのくらいの年ごろの若者にはあまり免疫がなかった。
しかも侑生は高位かつ美丈夫な青年ときている。
民間人としては最高位にある父を持つ珪己ですら、貴人らしい侑生の放つ特異ともいえる雰囲気には結局慣れることがなかった。
今朝の侑生は出会いの日以来で上級官吏の証である紫の袍衣を身に着けており、城内にいれば、その威光は周囲の官吏の態度でより鮮明に映る。父と同じ衣でも、侑生が身に着けると何かが違うのだ。だから軽く肩を触れられただけでも珪己の胸は騒がしく跳ねてしまう。
(緊張しているし、この女官の衣も着慣れないし……)
と、衣の端をつまむ珪己の手が侑生によっておもむろにすくいとられた。
「それではこちらに。後宮にご案内します」
面白いようにびくりと震えた珪己にかまわず、侑生は珪己の手を離さないまま華殿へと向かい出す。正門から入ってすぐ、左右ににらみ合うように建立された昇龍殿と武殿の間の敷地を抜けると、そこにはさらなる城壁、いわゆる内壁があった。
内壁唯一の門、玉門を通ると、ここまで一言も発せずに連れてこられた珪己の前に、夢かと見間違うほどの美しい景色が鮮烈にあらわれた。
真向いには湖と呼ぶほうがふさわしいと思えるほどに巨大な池がある。春のうららかな日差しを浴びて、水面がまぶしいほどに煌めいている。ところどころに何やらつつき遊ぶ白鳥がたむろしている。池を取り囲む紅色の花、若葉の茂る木々と相まって、すべてが一枚の絵のように彩りよい。春の爛漫さを見事に表現する光景がそこにはあった。
池のほとりからは曲線の美しい石橋がかけられ三宮へと続いているのが見えた。付近には、事前に聞いていたようにちらほらと武官の姿があるが、二人は咎められることもなく石橋に足をかけた。
天界のような壮大かつ絢爛な光景は、一息おいて、逆に珪己の興奮を鎮めていった。すると冷静さの戻った目で周囲を観察する余裕も出てきた。
「ここに配置されている武官の方々は李副使のことをご存じなんですね」
「ええ」
自分たちの存在を察した武官らが刹那送った視線に珪己は気づいていた。そして侑生の姿を認めた後は、彼らにとって自分たち二人が無関心な存在となったことにも。
「今日は私が新しい女官を後宮へお連れすることを彼らに事前に伝えてありました。とはいえ、もし私が突然現れたとしても彼らは私を通すでしょう」
枢密副使の高い位は宮城においてこそ明瞭に感じられるものである。
「……ところで、そろそろこの手を離していただけませんか?」
「どうして?」
心なしか面白そうな声音で、実際、前を歩いていた侑生が珪己に向けた表情はまさにその通りであった。
「どうしてって……。枢密副使ともあろう方が、このように女性と手をつないで歩いているところを見られてもよいというのですか? ここに来るまでにざっと百人には見られましたよ」
「ふむ、それでは珪己殿に問いを与えよう。なぜ私があなたの手を離さないのか、と」
ついと立ち止まると、あっと思う間もなく侑生が体をかがめた。
その顔が繋ぐ珪己の手に近づけられ――甲に唇が触れた。
「……李副使!」
驚きのあまり硬直した珪己に反して、侑生はさらにその手を強く引いた。次の瞬間、よろけた珪己の顔は侑生の胸の中に納まっていた。そのまま両の腕を背中に回され、気づけば珪己の体は侑生の温もりに包まれていた。
侑生の身に着けている紫の衣から漂うまろやかな白檀の香りが、珪己の胸を不意打ちで満たした。
ぱくぱくと声にならない小さな叫びをあげる珪己の耳元に、低い声でささやきが落とされる。
「……これで分かるかな? よく考えておくんだよ」
真近で向けられた澄んだ双眸に、珪己は何一つ言い返すことができなかった。




