表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/57

5.李清照の恋

 ふと、先日の道場で、剣を向け見合った浩托こうたくの強い瞳を珪己は思い出した。向かい合う浩托の目はいつだってぴんと張りつめた糸のようだ。しかし、今こちらを向く侑生ゆうせいからは同じような鋭さを感じない。


 侑生の瞳がやわらぎ、刹那、ここ数日で見慣れた笑みが浮かんだ。


「明日からは、私のことは李副使、または李枢密副使とお呼びください」


 少しの間で、珪己けいきは自身によってその理由を見出すことができた。


「……そうですね。明日から私は女官としても武官としても、高位にある侑生様のお名前を呼んではいけませんね」


 弟子の名答に、侑生は満足げにうなずいた。


「そのとおりです」




 その時、一人の女性が断りもなく扉を開けるや、二人のいる室の中に飛び込んできた。


「あらー、なんだか二人でいい雰囲気じゃない?」


 この女性の名は李清照りせいしょう


 侑生の姉であり、今年二十六歳だという。ただし、清照は年齢以上に大人びたまろやかな体を有しており、仕草の一つ一つ、指先までもがなんともいえない色香を放っている。


 清照には李家滞在中に化粧の仕方などの一般的な女性の嗜みを教授してもらったのだが、これまで武芸ばかりの毎日で己の美貌を磨いたことがない珪己にとって、清照は初めて出会ったときから少し緊張させられる女性だった。


 清照はお盆に載せた茶器を問答無用で机の上に並べ出した。侑生が苦笑いを浮かべながら、けれど特段怒りもせず、慣れた手つきで机上の地図を巻き、脇によけた。清照はちゃっかりと空いている椅子に腰を降ろし、てきぱきとお茶の準備を始めていく。


「姉上。扉を開けるときはまず声をかけて、許可を得てからにしてください」

「はいはい、分かりました。はい、お茶どうぞ。珪己ちゃん、登城の準備は大丈夫?」


 清照は珪己のことを、弟のつてを頼って後宮に入る田舎貴族の娘だと思っている。小さな嘘に珪己の胸はちくりと痛んだ。


「はい。全て清照さんと侑生様のおかげです。ありがとうございました」

「あら、いいのよ。せっかくだから後宮を楽しんできてね。華やかできっと素敵なところよ。私も早く後宮に入りたいわ。ねえ侑生、私の手続きも早くしてよね。いつまで待たせる気?」

「姉上は本当に自分が女官になれると思っているのですか。もっとしとやかに、礼節を重んじたふるまいを身につけてからですよ」


 憮然と言い放たれた侑生の言葉は珪己の耳にも痛かったが、それよりも清照が女官を希望していることが初耳で、


「清照さんは女官になりたいんですか?」


 思わず訊ねていた。


 清照がうふっと無邪気に笑った。


「ええ、後宮で女官として働きたいの。あ、でも、皇帝陛下の妃になりたいわけではないのよ。陛下には三人のお妃様がいらっしゃるし、私はただ一人の旦那様と愛し愛される関係を築きたいって思っているから」

「それでは、後宮に入るのは行儀見習いのためでしょうか?」


 女官となるのは貴族や有力な官吏の娘であるが、その目的は、皇帝の寵愛を得て実家を繁栄に導くため、もしくは後宮を退いた後に良縁を得やすくするため、そのいずれかである場合が多い。後者は後宮に勤めた経験のある娘はそれだけで二割増しの箔がつくと言われているからだ。女官として選ばれるには、最低限の家柄はもとより、美貌、知性、立ち居振る舞いの美しさなどが認められなくてはならない。つまり、女官経験者は最上の女人として宮城に認められたことと同じなのである。


 と、ここまで考えて、珪己は自分が女官となって本当に大丈夫なのだろうかと一抹の不安を覚えた。『女官らしくない』という理由が任務を果たせない最大の原因となるかもしれない。冗談抜きで、だ。


 清照がゆるゆると首を振った。


「いいえ、違うわ。少しでも好きな人の近くで過ごしたいからなのよ」

「好きな人……。でもお相手は皇族の方ではないのですよね?」


 後宮の女官は皇帝以外の皇族の男性に見初められる可能性もある。


 けれど清照はこれにも首を振った。


「私がお慕いするのは官吏の方なの。その方は宮城に勤めているから、私が後宮に入ればその方に会うのが容易になるというわけ。知ってるかしら、後宮勤めの女官は官吏の方にとても人気があるのよ。お文を交換したりお庭で二人で会ったりなんて日常茶飯事で、誰に咎められることもなく、非日常的な雰囲気の中、男女の愛を深められるんですって」


 その手で口元を艶っぽく隠しながら、うふふ、と清照がほほ笑んだ。珪己は初めて聞く後宮の裏世界に衝撃を受けたが、清照はすでに自分の夢見る世界に浸っている。だから姉上のことは女官に推薦したくないんだ、とつぶやく侑生の言葉も耳に入っていないようだ。


「前はここにも何度か来てくれたのだけれど……。お忙しい方だからめったにお会いできなくて。でも殿方がいらっしゃることができないのであれば、私が出向くまでよ。私のこの魅力で必ずやじんを虜にしてみせるわ!」


(それって片思い? すごく強烈だわ)


 武芸一筋の珪己の周囲には、清照のように一途に恋に生きる女人はいない。珪己自身にも経験がないし、恋にとんと興味がなくこれまで生きてきた。そのため、清照の突然の告白に驚いていたが。


(でも……清照さんってとても純粋な人なのね)


 それ以上に、好きな男のために猪突猛進な清照が好ましく思えたのだった。そして清照を夢中にさせる恋というものが、十六年生きてきて初めてまばゆく感じた。


「……清照さんにそこまで想われているその方は幸せですね」


 しみじみと、心からそう言うと、清照が満面の笑みになった。


「珪己ちゃんにそう言ってもらえるとうれしいわ。でも仁は全然私のことを相手にしてくれないのよ? 女官になるとお文に書いても『やめておけ』ってただ一文だけ。冷たいのよ。ねえ侑生、あなたは宮城で仁に会うことがあるんでしょ? 仁は私に会えなくて寂しいと思っているかしら?」

「残念ですが、姉上の話は全然しませんね」

「まあひどい。でもそんな無愛想なところも素敵なのよね……」


 ほう、とため息をつくと、清照が突然椅子から立ち上がった。


「そうだわ。今のこの気持ちを詩にしましょ。明日二人は登城するんでしょう? 侑生、私の詩を必ず仁に渡すのよ。それでは!」


 清照が突風のように去ると、部屋に残された二人の間にほんの少しの静寂が生まれた。侑生が滑らかにその視線を珪己に向ける。すると、珪己はなぜか先ほどの、清照が扉を開ける直前の侑生の様子が思い出された。その瞳の強さと美しさを思い出すだけで、道場で剣を握っているわけでもないのに緊張で体がこわばる。それは珪己の知らない不思議な感覚だった。


 珪己は茶碗を手に取り、一口ふくんだ。


 何か言わなくては。


「……仁さん、でしたっけ?」

「は?」

「どのような方なんですか? 文官の方ですか? 清照さんの恋のお相手なんですから、きっとすごく素敵な方なんでしょうね。一度お会いしてみたいです」


 珪己の発言に侑生が美麗な眉をひそめた。


「素敵などという言葉は仁には当てはまりません。仁は財政を担当する文官なので、日がな室にこもって銭を数えているような根暗な男です。珪己殿の出向くようなところでは働いていません」

「そうなんですか。残念です……。遠くからでも一目見たかったなあ……」


 つい本音が出たところで軽く睨まれた。


「珪己殿は宮城に何をしに行かれるのですか?」

「……すみません」

「分かればよろしい」


 二人の目が合うと、どちらからともなく笑みがこぼれた。そこには柔らかで居心地のいい空気だけがあった。先ほど感じた緊張など、もはや一欠片も残っていない。


 侑生が言った。


「さあ、それでは明日、さっそく後宮へ参りましょう」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ