3.紅玉
散々な思いをし、這い出るように道場を後にした二人は、次に楊家の屋敷の門をくぐった。二人してここを訪れるのは事変以来のことである。
池のほとりには珪己が佇んでいた。
一瞬、あの夏の夜が既視感をもって二人の前に現れたかのように見えた。
伏し目がちに池を見つめていた珪己は二人の気配に気がつくと顔を上げた。
とたんに二人に現実が舞い戻る。
今目の前にいるのは――齢十六の楊珪己だ。
すると、この少女が生きてここにいるという事実が、二人の胸にひしひしと喜びを運んできた。
八年前の夏。唯一の生存者である珪己を発見したとき――二人は生きる者がいたことに安堵した。だが心から喜ぶことなどできなかった。
なぜなら、自分達の怠惰がなければ事変を防ぐことができたかもしれなかったから。この少女や玄徳に哀しみを背負わせることもなかったはずだから……。
しかし今は違う。
自分達はやれるだけのことをやった。すべてが正解ではなかったし、完璧ではなかったかもしれないが、後悔しないように動いた。あの時の自分と今の自分は違う。だからこそ、目の前の少女の姿を見て素直に喜ぶことができたのである。
「……すまなかった」
つぶやいたのは侑生であった。
仁威は隣に立つ旧友をちらりと見ると「なんのことだ」と言った。
「だから」
説明しようとして――侑生は口をつぐんだ。
そんな侑生をもう一度横目で眺め、仁威がにやりと笑った。
「そんなふうにこれからは素直になることだ」
「はあ? いつも鉄のような面でいるお前には言われたくはない」
「俺もお前なんぞに言われたくはない。いつも気味悪い笑みを浮かべているか、頭痛でも抱えているような顔をしているお前にはな」
小声で応酬しながらもあわや本格的な口論となりかけた――その時。
珪己の方から二人に近づき声を掛けてきた。
「侑生様! それに袁隊長まで!」
「珪己殿、お久しぶりです。具合はどうですか?」
簡単に表情を切り替えてみせた侑生はやはりあの頃とは違う。演じることに慣れ、苦悩する日々に慣れ、贖罪の日々に慣れてしまった悲しい男に戻っている。
柔らかい笑みで珪己を見やる侑生の様子にやや眉をひそめた仁威であったが、この二人と過去に繋がっていることを露とも知らない珪己は自然な表情で応じている。
「ええ、もうすっかり。このたびは本当にありがとうございました」
だが――二人の無言の視線の意味に気がつくと、珪己は困った顔をした。
「……もちろん、いろいろありましたからなかなか整理がつきませんけど。でも今回のことで私は自分の弱さや愚かさに気づきました。それはよいことなのだろうと思います」
「お前は強いな」
ぽつりと仁威がつぶやいた。
あの頃の自分達とこの少女、どちらが強いかは一目瞭然だ。当時、自分達は第一隊の武官であり剣の腕にも覚えがあった。だがそれだけだった。八年前、何もしなかった自分達――引き換え、この少女は護るべき者のために果敢に戦う道を選んだ。
だが珪己はゆるく首を振ってみせた。
「私はまだまだ弱いです。袁隊長だってご存じでしょう? 私が今回どれだけ無様だったのか」
「そんなことはない……!」
言い募ろうとする仁威に、珪己は今度は強く首を振った。
「いいえ、私は弱いです。そして、自分が弱いことを認めなくては、私はこれ以上強くなれないのだと思います。でなければ私は……私の大切なものを護ることができない人間になってしまいます。それだけは嫌なんです」
語る珪己は菊花との約束を思い出している。そう、約束をするのであれば、それを護るだけの力がなくてはいけないのだ。
「……ではこれはお前にとって必要なものになるかもしれん」
言うや、仁威が懐から一つの小箱を取り出した。
「これは?」
「お前の手で開けてみろ」
うながされ、受け取った小箱の蓋を開けると――そこには紅玉の飾りが入っていた。
武官の印である。
「それはお前のものだ」
「袁隊長、私は武挙を受けていません!」
「武挙は受けていないが、特段の成果を上げた者は武官に推薦される。お前は今回、十分な成果を上げた。だから俺が推薦した」
驚き、侑生を見ると、侑生は珪己にうなずいてみせた。
「枢密院としても第一隊隊長の推薦に同意しました。ただ、珪己殿が今回の件で二度と武に関わりたくないと思われる可能性もありましたし、様子を見てからお渡ししようと思っていたのですが……杞憂でしたね」
すると、珪己は心底心外だというように眉をひそめ、大声をあげた。
「何言ってるんですか! 私は武芸が大好きなんです! 何があったってやめることなんかありません!」




