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2.鄭古亥の道場にて

 珪己が意識を取り戻したその日、隣の道場には二人の青年の姿があった。

 李侑生と袁仁威である。

 そして二人はかつての上司、鄭古亥と向き合っていた。


 古亥は二人の報告を聞き終わると大きくため息をついた。


「珪己嬢がそんな大変な目にあっていたとはな……」

「申し訳ありません。私の力不足です」


 侑生が深々と頭を下げる。

 続けて仁威も頭を下げた。


「いや、俺がもう少し早く後宮に入ればよかったんです。商人の舟なんか待たずに突撃しておけば」


 言い終わる前に、二人の頭が思いきり固い何かでがつんと叩かれた。痛みに思わず顔を上げると、いつの間にか手にした木刀をかざし、古亥がにやりと笑っていた。


「珪己嬢は無事だったのだからそのように気を落とすでない。それに、お前達は『今回は』動くことができたのだろう?」


 八年前の夏の一夜を思い出し――侑生と仁威は少し顔を赤らめた。


 二人にとってあの夏は悪夢そのものであった。だが歯がゆくも青臭い春のような、人生の分岐点であったことも確かなのである。そして、人は概ねその時を後悔と甘酸っぱさをもってちょくちょく振り返るものなのだ。


 古亥がその目を細めた。

 その脳裡にあるものは、やはり自身の過去への郷愁か。


「まあ、あれだな。お前達もようやく成長したってことだ。儂はうれしいよ」


 言葉が見つからない二人を古亥がじろじろと眺めまわしていたが、やがて仁威に目を止めると、たまらずといった感じで吹き出した。


「そういや、袁仁威よ。お前、ここに来なくなったのはやはり珪己嬢に顔向けできないと思っていたからか」

「は……?」

「最後にここを出て行った夜、お前の八つ当たりする声が道場にまで聞こえてきたでなあ」

「……聞こえていたのですか?」


 仁威のこれほどまでの慌てぶりは、この男の部下に話しても信じてもらえないだろう。にやにやと笑う古亥に、仁威は苦虫をかみつぶしたかのような顔になり、ぷいっと横を向いた。


 次に、古亥はその表情を変えないまま侑生のほうを向いた。


「でだ、李侑生。お前もそれを聞いていたんだよな。楊家の庭に隠れていたのを儂はこの目で見たぞい」

「ど、どうしてそれを……!」


 今度は侑生が慌てる番である。


「どうしてって、袁仁威の怒鳴り声が聞こえて、念のため楊家をのぞきに行ったからさね」

「……ということは。あの日、楊家の門が少し開いていたのは。侑生、お前のしわざか」


 いつの間にか冷静さを取り戻した仁威までもが、侑生に見下げたような視線を向けている。


「お前は科挙の勉強をしに実家に戻っていたのではなかったのか?」


 答えられずにいる侑生に、ほっほっと古亥が笑った。


「大方、楊家の者のことが心配で戻ってきたのだろう。その日から、この男がちょくちょく楊家の周囲をうろついているのを、儂は何度も見ているでな」

「……鄭殿!」


 侑生のこのような姿を女達が見たらなんと思うだろう。


 古亥は二人のことを笑いながらも、心では自分自身のことを一番笑っていた。


(……儂もこいつらと同じだ。あの日から楊家のそばにいることでようやく生き続けることができた馬鹿者なんだからな。だが儂もこいつらのように少しは成長しなくてはいけないな……)


 古亥は将軍を辞した後、一度開陽を後にしている。

 しかし自分の犯した大きな罪に心が落ち着くことはなかった。


 あの夏の夜に命を賭した。

 この命は惜しくないと本心から思っていた。


 ……でなければ自身の部下をあのように手にかけることなどできなかった。


 大虐殺の実行は平和を望む人らしい心をもってしてはできなかった。あれだけの数を相手にして生きのびることができたこと自体、自他ともに認める猛将であっても奇跡だったのである。


 だが……一度捨てた人の心を古亥は取り戻すことができなかった。取り戻す方法を知らず、取り戻すことが自分に赦されているのかも分からず……心のないまま生きる日々はとても辛いものだった。


 ――ではなぜ自分は生きているのか。


 思い悩む時、古亥は玄徳から文を受け取った。

 楊家の守護を依頼する簡素なそれは、古亥の悩みをいったん保留にするだけの力があった。


 そして古亥は開陽の土を再度踏んだのである。



 あの蛍の飛び交う夏の夜。


 珪己は仁威が立ち去っても池のほとりで立ちすくんでいた。その表情は珪己の複雑な内面を表していて、古亥はつい声をかけてしまった。初対面の老人に警戒の色を見せた珪己の反応は、事変の当事者であれば当然で――古亥はあわてて珪己に言った。


『儂はこの隣に越してきた鄭っていう者で、道場を開いているんだ。怪しいものなんかじゃないぞ』

『道場?』

『そうだ、道場だ。武芸の稽古をするところだ』

『……武芸?』


 珪己は不思議そうな顔をしていたが、その瞳にさっと強い光が宿った瞬間を、古亥は今でも思い出せる。


『ねえ、おじいさん。おじいさんは強いのね? だったらお願い。私を強くして! 私、強くなりたいの!』


 珪己の願いは古亥に生きる理由を与えた。

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