7. 十年
ひゅん、と、細く高い音がしたかと思うと、何かが扉の向こうで小さく光った。
それは英龍と龍崇の間を通り抜け、一直線に右手奥、果鈴と珪己のいる方へと向かっていく。
「……ああっ!」
悲痛な声とともに、果鈴がその手から針を取り落とした。
失礼する、という一声とともに、またも皇族二人の間から出現したのは一人の男だ。商人の恰好をしているが体躯は一際大きく明らかに唯人ではない。
男は土足で無造作に室内に分け入ると、ひとかけらのためらいもなく果鈴を蹴り飛ばした。
「ぐうっ……!」
目にもとまらぬ俊敏さ、抵抗する間も逃げる間もない。腹に受けた衝撃は骨も折れんばかりにぎりぎりとめり込み、数歩後ろまで飛ばされた果鈴はそのまま白目をむいて気絶した。
周囲の女官が一斉に悲鳴やら叫び声やら上げ始めた。その中には非難の声もあった。だが男は我関せず、横倒しになったままの珪己に近づくと無言で抱き上げた。
男と目が合うや、珪己は長い間硬直していた体から力が抜けていくのを感じた。その男、装いは商人のものだが――。
「袁、隊長……」
力の抜けた珪己の体が仁威の腕に重くのしかかる。触れている部分からは双方の温もりが強く感じられた。これにより珪己は深い安堵を覚えた。だがそれは珪己だけの感覚ではなかった。仁威もだ。
(あの夏の朝抱きしめられなかったこいつが今俺の腕の中にいる……)
八年前のあの夏の朝、珪己を抱きしめ悔恨の涙を流し続けたのは侑生だった。その間、仁威は珪己に近寄るどころか死人の山の中で呆然と突っ立っていただけだった。あの一場面において自分の成したことは善でも悪でもなかった。楊家で生き残りの少女を見つけた、ただそれだけのことだった。……そのはずだった。
なのにどうしてだろう、あの日の少女を腕の中で感じている、ただそれだけなのに心の奥底から湧き上がってくる抑えがたい感動は……。打ち震えるようなこの感動は……。
(過去はこんなにも俺を縛り付けているのだな……)
だが感慨に浸るのもつかの間のことで、仁威は珪己を抱えて英龍と龍崇の背後まで下がると珪己を降ろし、その口をふさぐ手巾をとりはずした。そう、今は八年前に浸っている場合ではない。
ようやく自由を得た珪己のその口からついて出た第一声は、どうして、というつぶやきだった。この後宮内に皇族以外の男がこうも堂々と立ち入ることは禁じられているからだ。
仁威は珪己の手足も自由にしてしまうと、その目をはたと見つめた。
「俺はお前のことを助けると言った。その約束を違えることなどない」
仁威の迷いのない言葉は、張りつめていた珪己の心を、そして珪己の涙腺を刺激した。これに仁威は眉をひそめた。
「お前は武官だろう。いちいち泣くな」
「い、今は女官だからいいんです」
「それだけ強がることができれば大丈夫だな」
ふっと仁威が笑った。
仁威と珪己を背にした英龍がざわめきの続くこの場に通告した。
「寵姫を取り戻し余の用は済んだ。追って沙汰を伝える」
王美人に背を向けると、英龍は床に座する珪己に膝を折った。そして珪己の手をとると、手首に残る緊縛の痕にもう一方の手で触れた。
「このようなことに巻き込んですまなかった。痛むか?」
「だ、大丈夫です」
「楊珪己……そなたが無事でよかった」
気がつくと――珪己は英龍の両腕に包まれていた。
英龍の黄袍を彩る硬い刺しゅう糸は珪己の頬を小さく傷つけた。だが布越しに心臓が早鐘を打つ音が確かに聞こえた。そう、英龍もまた仁威ほどの強い罪悪感を背負ってはないものの、この一件については心底案じていたのだ。
これまで皇帝らしくふるまってきた英龍だからこそ、この行為、この鼓動の速さで十分に彼の優しさが伝わってくるようだった。だから珪己は素直な気持ちで、瞳を閉じて英龍の温かさを受けいれた。それを仁威や龍崇はやや離れた位置で眺めている。ようやく大団円を迎えようとしている――そんな空気がこの四人の間には確かに流れつつあった。
だがそこに。
「……私のほうを見てください」
低い女の声が響いた。
「……その者ではなく私に触れてください」
声の主に反して、珪己を抱く英龍の腕に力がこめられる。
「王美人、控えるのだ!」
龍崇の命令は王美人には届かない。
「陛下、私のことを見てください。どうか私のほうを……! 今宵やっとお会いできたというのに、それではあまりにもひどいではないですか……!」
「王美人っ!」
再三の静止も王美人には効果がない。
「私はどうしてこのような報いを受けなくてはならなかったのですか。私はこれほどに罪深い女なのでしょうか。私はこのような女ではなかったのです。……十年、十年です。一人、この部屋にいたこの十年が私をこのようにしてしまったのです……!」
「王美人! 控えろ!!」
「それでも、これまでは陛下のお渡りを待つことができました。だから私はここで生きてゆくことができたのです。ですがこれからは……? これからはどのようにして生きてゆけばよいのですか……っ?」
それに英龍は振り返ることなく無情に答えた。
「そのようなことは自分で決めろ。余に問うことではない」
英龍は珪己を抱き起こした。
そして、王美人に背を向けたまま立ち去ろうとした――その時。
「王美人様……っ!」
果鈴の悲痛な叫び声があがり――異様な雰囲気を察し英龍が振り返った。これにより珪己の視界は黄袍の向こうで王美人が崩れ落ちる様子をとらえた。
王美人の華やかな衣装が、その胸のあたりを真紅に染めている。
その中央に一本の簪が突き刺さっている――。
黄真珠は血の赤に染まりながらもにぶく光っていた。
王美人はやや血の気の引いた顔ながらも、珪己と目が合うとひどく満足そうにほほ笑み――それからゆっくりと崩れ落ちた。
「いやあああ……っ!」
果鈴の絶叫を最後に珪己の意識はふつっと途切れた。
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