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6.伝えたいこと

 女官の告げる声とほぼ同時に、扉が無遠慮に勢いよく開かれた。


 そこに現れたのは、黄袍に身を包む皇帝・趙英龍であった。


 開いた扉の向こう一面、闇空と濃い墨色の庭園が広がっている。それが五匹の昇龍が刺しゅうされた黄袍のまぶしさを、彼自身を引き立てるかのようだ。


 英龍の周囲を四、五人の女官があわてた様子で取り巻いているが、英龍は全く意に介さず悠々と室内に進んでいく。


 だが右手奥で縛られ寝転がった珪己を一目見た瞬間――英龍の全身が大きく膨らんだ。英龍はその怒気を隠すことなく、左に座る王美人へと顔を向けた。だがその口が開きかけた時、王美人がすっと立ちあがった。ひざまずき、優雅に皇帝への拝礼の型をとる。


「皇帝陛下のおなり、心より感謝いたします」


 場違いなほどに落ち着いたその所作に、英龍はのまれかけた。

 だがそれは一瞬のことだった。


「王美人よ。このようなことをしでかして、このまま後宮にいられるとは思ってはいまいな?」


 顔を上げた王美人は艶やかにほほ笑んでいた。

 触発され、英龍が腹の底から怒声を発した。


「分かっているのか……!」


 びりびり、と空気がふるえた。


 長い間、女だけで暮らしてきた後宮住まいの女官にとって、男の――それも皇帝の怒声は非常に恐ろしく聞こえた。珪己の腕をつかむ女官の手から力が抜け、ひいい、と息を飲む音がもれた。


 そのような中でも王美人の様子には変化がなかった。ただ黙って、跪いたままで頭上の英龍を見つめている。光悦感すらうかがえるその横顔を、珪己は胸のつまる思いで眺めていた。


(王美人は本当に皇帝陛下のことがお好きなのだわ……)


 恋や愛にうとい珪己であっても、これまでの王美人の発言を思いおこせば、その表情が何を物語っているか理解できた。理解できてしまうと、自分をこのような危機に陥れ最高の恐怖を与えたこの女性のことを憎めなくなってきていた。


 ただ、想いを寄せられている当の男には王美人の心は伝わっていないようで、英龍の体を包む怒気が一層ふくらみを帯びた。


 王美人から目を離さぬまま、同伴者の名を呼ぶ。


「龍崇!」


 放たれた呼びかけに応じ、扉に隠れたところから黒衣の青年が姿を現した。


「楊珪己を連れて行け!」


 龍崇が珪己のほうを向いたその時、珪己の喉に一本の針が突き立てられた。

 珪己の背後で膝をついているのは果鈴である。


「こちらに近づいたらどうなるかお分かりか?!」


 龍崇の動きが止まった。


 このような状況においても、針先を一寸も震わせることなく皇族二人に挑むことを選んだ果鈴の覚悟のほどは、その目を見れば英龍、龍崇にも理解できた。そのため二人は動くことがままならなくなった。人は心が定まると時として極限の力を発することができるというが、王美人への忠誠心、ただそれだけがこの哀れな従者を突き動かしているのだ。


 一つ間違えばその針が振り下ろされてしまうという状況下で、しかし皇族二人は変わらず様子を見続けている。珪己を救うべく、隙が生じるのを待ち構えている。


 誰も何もしゃべらない。動かない。


 鷹のように鋭い二対の瞳を前に、果鈴の額からじんわりと汗が噴き出てきた。ひとえに王美人のためだけに行動する女官は、傍から見れば、嵐の中で耐える一本の小枝のように頼りない存在でしかない。手に持つ針が重みに耐えかねたかのように時折揺れるのもまた、彼女の限界が近いことの証だ。


 その時――王美人が均衡を破った。


「果鈴や。ありがとう」


 そして鷹揚にうなずいてみせると、「それでは、陛下。私に一つ教えていただきとうございます」と問うた。


 英龍の視線が再度王美人に向けられた。


「……何だ?」

「私のしたことと陛下のなさったこと。どちらに罪があるとお考えでしょうか」

「……何だと?」


 虚を突かれ、英龍から生じていた怒気が立ち消えた。それは武に疎い王美人にも分かったようで、そのほほ笑みは大輪の花のように咲き誇った。


「もとは陛下が私の元にお渡りにならなかったことが発端なのです。この十年、陛下は一度としてこちらにおいでになることはありませんでした」

「そ、それは」


 思わず言いかけた英龍を制し、龍崇が「控えるのだ!」と怒鳴りつけたが、王美人はその表情を崩すことはなかった。


 ただひたすら、英龍を一途に見つめている。


「陛下。私は後宮にやってきて十年目にして、ようやく今夜陛下にお会いすることができたのです」

「……王美人」

「いえ、私が陛下に伝えたいのはこのようなことではないのです。私が陛下にお伝えしたいことは……」


 見つめあう英龍と王美人を、この部屋にいる全ての者が固唾を飲んで見守っていた。

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