5.皇帝は何を求めるか
やがて部屋に差し込む緋色の陽光が陰り、夜のとばりが降りた。
女官の一人が灯明皿の芯に火をともしていく。ぽ、ぽ、と小さな炎が生まれるたびに、闇の中で穏やかにゆらめいた。それでようやく室内を識別できるようになったこの場で、先程から珪己は床に倒れたまま動けずにいた。
王美人は飽きることなく珪己を見つめ続けている。
飢えた獰猛な虎の前で人はどれだけ耐えることができるだろう。隙を見せれば襲いかかられるという恐怖は、珪己の精神を刻一刻と消耗していった。昨夜一睡もしていないこともあり、全てにおいて極限の状態へと追い込まれている。だが逃げるすべはない。
ふと、王美人の表情が変わった。
不思議な生き物を見るようなその目には先ほどまでの憎悪の光は見当たらない。
部屋の外からつぶやくような女官の声が聞こえると、果鈴が無言で部屋の外へと出た。その声は小さく、珪己には聞き取れなかった。
少しの間の後、王美人が細く長いため息をついた。
「ほんに不思議だ。そなたにあるのは若さだけではないか。その美しさも若さゆえのものでしかない。私のほうがよほど美しいというのに、陛下はなぜそなたを召したのであろう」
「……陛下は美しさなど求めていません」
「そのような男など聞いたことがないぞ。では陛下は何を求めているのだ? 献身的な愛か? 魅惑的な体か? そうであっても、私はそなたにも誰にも負けることはない」
「……私にもまだよく分かりません。ですがそういったことではないと思っています」
「そなたは馬鹿よのう。男のことをちっとも分かっておらぬ」
初めて、からからと王美人が笑った。
そこに果鈴が戻ってきた。
王美人は扇子を開くとその口元を抑えつつ、目尻を下げたまま果鈴に振り向いた。
「果鈴、この者はおもしろいな。陛下はこの者がおもしろいから酔狂で興味を持っただけなのかもしれない」
「そうなのですか?」
話が分からずいぶかしる果鈴に、王美人がふふっと笑った。
「うむ。毛色の変わった猫を愛でたようなものだったのだろう。まあ、そうであっても、私がこの者の存在を許すことはないがな」
「……荷降ろしが済んだようです。それでは連れていきます」
王美人はうなずくと、とたんに無表情になった。
果鈴は床に転がる珪己に近づき、膝を折ると、懐からすっと大針を出した。
「これから一声でも発したり逃げようとする素振りを見せたら、この針をあなたに刺します。……分かりますわね?」
果鈴の体からは、闇夜よりも暗い濃い気が漂うかのようだ。
これが殺気なのだ――そう珪己は悟った。
珪己の無言を了解と捉え、果鈴が部屋の隅で待機する女官に合図を出した。その女官は珪己の背後に近づくと、手巾で口をふさぎ、次にその目を隠そうとした。
白い布がじりじりと迫ってくる様は珪己を慄かせた。
それを付けられれば――真っ暗になる。
そして狭い箱に入れられば――殺される。
じり、と尻が後ろに動いたが、その女官は容赦なく近づいてくる。
向こうにはうつろに横を向く王美人、こちらをには盛大な笑みを浮かべる果鈴が見える。
全身に鳥肌が立った。
暗くて狭いところは嫌いだ。
だけどそれ以上に――死が怖い。
あの夏の朝、起き抜けに発見した物言わぬ人々の姿が思い出される。可愛がってくれた洗濯女、遊び相手になってくれた掃除夫、よく味見させてくれた調理人、そして――母。
死とはああいうことをいうのだ。動くどころか喋ることもゆるされず、明日を迎えることもゆるされず――ただ塵となることを言うのだ。それを死というのだ。
(だけど――何もできない自分が一番嫌だ!)
これではまるで何も変わっていない。
八年間、自分は一体何をしてきたのだろう。
どうして何もできないのだろう……。
ふがいなさと絶望で、珪己の目にじんわりと涙がにじんだ。
その時、扉の向こうからばたばたとせわしない足音が聞こえ、その足音の主の到着とともに、扉の向こうから息も絶え絶えに女官の声が響いた。
「ちょ、勅命です! 皇帝陛下がおなりになるとのこと……!」
珪己に目隠しをしようとしていた女官の手が止まり、針を持つ果鈴の手が降ろされた。室内にざわめきが生じ、瞬く間に広がっていく。
「王美人様、どうしましょう! もうこの者をさらったことが露見したのでしょうか?」
動揺を隠せない果鈴を、王美人は不思議そうに見やった。
「何をそんなに驚いているのだ」
そこに間髪入れず、さらなる声が扉の向こう側から届いた。
「皇帝陛下はすでに後宮内に入られたとのことです! お待ちしていただく猶予はありません……! 我々の静止はまったく聞き入れていただくことかなわず、こちらにまっすぐ向かわれております……!」
果鈴の顔が見る間に青ざめた。
「王美人様……!」
「だから、どうしてそのようにあわてるのだ。お前らしくもない」
「ですが、このような状態なのですよ? そ、そうですわ。この女は急いで芯国の商人に引き渡してしまいましょう。ほら、さっさと連れていきなさい!」
命じられた女官が珪己の二の腕を引いた――まさに、その時。
さらに遅れて到着した女官の声が響いた。
「皇帝陛下がおなりです……!」
それはもはや悲鳴のようであった。




