4.李侑生からの講義
侑生の言う準備というものが整ったのは、それから数日後のことだった。
珪己は道場に赴き、武芸の師匠である鄭古亥にしばらくの暇乞いをした。親戚の急な誘いを受けてしばらく旅にでる、とだけ伝えて。
古亥は齢七十近くのやや縮まった体をもったいつけて動かした。
「あいやー、珪己嬢がいないとなると、道場もしばらくはお休みだな」
「またそんなこといって! 少しは生徒達に稽古をつけてあげてくださいね。いっつも私にばかり指導させるんですから」
「えー、やだよー」
「そんなことを言う師匠にはお土産を買ってきませんからね」
「……嬢はひどい女子になったもんだ」
「鄭師匠! 今、何か言いました?」
「なんも言っておらんわい、ふん」
子供のようにすねる古亥に、珪己は半ば脅すように生徒の指導を入念に頼んだ。師匠のものぐさ具合にあきれつつ、この機会にまたやる気が戻ってくれれば、とも思う。古亥はここ数年、珪己含め、どの生徒にも稽古をつけず、日がな寝転がっているだけなのだ。
それから、珪己は旅装に身を包み、侑生の屋敷にそっと身を寄せた。そしてこの李家の一室で、珪己は侑生から宮城で務めるための最低限の知識を、数日に渡って教授されたのである。
宮城内には三殿が鎮座する。
一つは昇龍殿。湖国の政治を司る二府の一つ、中書省がこの殿に居を構えている。つまり、昇龍殿とは文政に関わる者が集う殿なのである。また、昇龍殿には朝議や公式行事などが執り行われる広間も備えられている。
もう一つは武殿。こちらはその名のとおり武に関わる者が集う殿である。武官は当然のこと、玄徳や侑生の勤める枢密院もここで軍政を執り行っている。
宮城に勤める武官は、警護を担当する近衛軍、騎馬を組織する騎馬軍、各地に派遣される兵を管理する歩兵軍のいずれかに所属する。これら三軍のうち、珪己は近衛軍に配属されることになった。
なお、玄徳が長官として治める枢密院では、これら三軍に対する人事、予算案の上程と遂行状況の監視に調整、軍地または警護先への派遣命令書の作成、といった武官の管理も行っている。武官こそが軍政を成すための一翼であり、つまりは武官は枢密院の管理下にあるということだ。
枢密使には歴代文官が就くこととなっており、しかるべく、玄徳も文官である。だが玄徳は官吏としては珍しく、武芸をたしなんだ経験が皆無である。それでよく枢密使が務まるものだ、なぜ父が枢密使に任ぜられたのだろう、と、珪己は常日頃思っているが、それを口に出したことはない。
話をもとに戻すと、宮城の三殿の最後の一つこそが、今回の舞台となる華殿である。
ただ一つ、宮城内においてさらに四方を壁で囲まれたこの殿には、三つの宮がある。
一つは東宮、皇帝が暮らす宮である。ただ、現皇帝は東宮ではなく、昇龍殿内の自身の執務室で寝泊まりすることが多いそうだ。非常にやる気のある良い皇帝である、との珪己の感想に、侑生はふふ、と笑った。
もう一つは西宮であり、ここには皇帝の兄弟姉妹、叔父叔母などの血縁者が暮らしている。
そして最後の宮が後宮である。ここは皇帝の妃やその子らが住まう宮で、一人娘の菊花も暮らしている。この宮には従者も住んでおり、珪己のための部屋もすでに用意されているそうだ。
これら三宮は華殿の中央にある広大な池のほとりに正三角形の頂点のように配置され、それぞれの宮をつなぐ橋が三宮の間にかかっている。
「……それにしても皇族って不思議ですね」
講義が一息ついたところで、珪己は机の上に広げられている宮城の地図をつついた。
「親子や兄弟が一緒に住めないなんて。私には考えられません」
「なぜだと思いますか?」
侑生から発せられた問いに、珪己の頭は急回転していった。本当に先生のような人だと内心焦りつつ。
「……えーと……どうしてでしょう?」
早々に解を模索することをあきらめたが、侑生は気にもとめていないようだ。
「東宮とは皇帝陛下を守るためにのみ存在する宮なのです。そして古来より、皇帝陛下と敵対しやすいものといえば、それは血を分けた皇族なのです。外戚の干渉を抑えるため、成人した皇族の多くは地方に赴任させられますが、その他の、例えば成人していない方や地方に赴けないほど病弱であったり年老いた方などを囲うのが西宮という場所なのです」
相槌を打つ間もなく説明は続く。
「東宮と西宮の間には多くの武官が配置されていますが、彼らは宮同士を行き交う者を記録したり、時には特定の輩を排除することを任ぜられています。また、後宮は皇帝の妃と次代を継ぐ子らの住まいですが、彼らもまた傀儡として利用されたり、自身が権力を得るために謀反を起こすことがあります。西宮と後宮に住まう者同士が引き合うときが、最も憂慮される事態を引き起こす可能性があります。よって、後宮と西宮の間にも多数の武官が配されています」
よどみない侑生の答えに、珪己は心から感心した。
「侑生様って本当にすごいんですね。さすが枢密副使……」
「ふふ、ありがとうございます」
「文官になるための科挙の試験は難しいんですよね。まだお若いのに侑生様はご立派な方なのですね」
文官の採用試験である科挙の難しさ。
それは誰でも知っていることだ。
この国を興した初代皇帝はこれまでの武官による国の支配を改めることで国家の安寧を図ることを決意したのだが、それまで有名無実であった科挙を改革、文官の数を増やし、自らも最終試験・殿試によって特に優秀な文官の発掘に尽力したという。ちなみに殿試を一位で通過した受験者は『天子門正』、つまり皇帝の弟子と呼ばれる名誉にあずかるのだが、この土地では湖国創世以前から、皇帝とは神にもっとも近い存在として敬われており、それゆえ、こういった科挙の改革は芋づる式に文官全体の地位を高めたのであった。
よって、市井の者にとって、科挙とは金と名誉、両方を一度に得られる夢のような仕組みでもあった。だがそれゆえに合格することは至難の極みで、一生を受験に捧げても合格できない人も珍しくはない。
この青年はその科挙に合格し、しかもその年若さですでに上級官吏をも拝しているというのだから……珪己でなくとも、心からの驚きと賛辞を与えたくなるはずだ。しかも、これほどの好条件を備えているだけではなく美丈夫とくれば、この首都・開陽においてもそうそう見かけない稀有な人物といえる。
だが侑生は自然な仕草で珪己の賛美に謙遜してみせた。
「いえいえ。それはそうと、侑生様と呼ぶのはやめていただけますか?」
「え?」
珪己が顔をあげると、侑生の顔からは笑みが消えていた。
やや鋭い双眸がまっすぐに珪己の方を向いている。