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4.地獄の中で

 珪己が初めに感じたことは――頭の痛みだった。


 固い斧で割られるような衝撃が絶え間なく続き、ぐっと歯をかみしめる。


 次に右半身だけに冷たさを感じた。


 床らしき板の上で横にされている。


 そして両手が腰のあたりで縛られ動かせないこと、足も同様に束縛されていることを、ちくちくとした感触と圧迫感で理解した。


 最後にひどく重い瞼を無理やり開けると――そこには果鈴の他、数人の女官と、質の良い椅子に腰かける見るからに高貴な女がいた。


 その女の身にまとう衣装の煌びやかさは菊花以上のものだ。これでもかと装飾品を身にまとい、唇は真紅に艶やかに彩られ、不思議な香りを漂わせている。――この女が王美人おうびじんに違いない。


 王美人の背後の窓からは緋色に染まる陽光が差し込んでいる。

 その人を怪しく不気味に照らすように――。


 珪己の視線に気づき、王美人が口を開いた。


「ええ、そうよ。今はもう夕刻。今夜は東宮へ行けそうにもないわね」


 珪己は反射的に動こうとしたが、手足の拘束は強く、ただ身じろぎすることしかできなかった。縄の食い込む痛みに眉をひそめる様子に、王美人があでやかにほほ笑んだ。


「ほほほ、いい気味だこと」

「……こんなことをしでかしていいと思っているんですか?」


 王美人は優雅な動きで扇子を開き、その艶やかな口元にあてた。その間、睨みつける珪己から視線をそらすことはなかった。


「ふふ。今までだってよかったことなどなかったわ」

「え……?」

「陛下は一度も私の元へ来てくださらない。毎日毎日、来てくださるのを待つだけの日々……。陛下が三代皇帝として即位され、私が後宮に召されると決まったときから、私は陛下と愛し愛される間柄になりたいと、ただそれだけを願っていたのだよ。……後宮がこれほどまでに地獄であるとは知らなんだがな」

「王美人様……」


 果鈴が心配そうに王美人に寄り添った。

 王美人はそれを手に持つ扇子で軽く払った。


「大丈夫だ、果鈴。ほんにそなたは主人思いだのう。そなたはこうしてこの娘を私の前に連れてきてくれたではないか。これこそ至上の喜びだ」


 そして珪己のほうを見やった。


「のう、珪己といったか。私はな、陛下が私以外を愛するところなど死んでも見たくないのだ」


 淡々と語ってはいるものの、その目は言葉以上の荒ぶる感情を映し出している。


「これ以上の地獄には耐えきれぬ。床からも出られぬような、寵愛を失くした胡麗これいと違い、お主は若く健康で、私にとっては菊花以上に危険に思える。だからそなたのことは殺すと決めた」

「……それであなたの気は晴れるかもしれません。けれど、それでは陛下の心はますますあなたから離れていってしまいませんか」

「私が満足するからそれでいいのだよ。それに陛下は今後も私を愛することはないであろう……。それ以前に、陛下にとって私など、その辺にいる蛆虫うじむしよりもたちが悪い。存在すら気づいてもらえていないでな……。であれば、そなたを殺して、私がどれだけ陛下を想っているか知らしめてやりたいと考えてもよいであろう?」


 薄い笑みをたたえながら、王美人が静かに立ち上がった。そして無言で珪己の傍に近づくと、珪己の顔を少し眺め、その頬をすうっとなでた。


「……若く美しい肌だのう。陛下がお喜びになるのも無理はないか」


 そうつぶやくと、頬にあてていた手を珪己の頭上にやり、唯一のかんざしを静かに引き抜いた。

 ほどかれた珪己の長い髪が肩に舞い散る。

 王美人は両手で黄真珠の簪を持ち、まじまじと見つめた。


「……私はこのような品をいただいたことはない」


 次の瞬間、先ほどまでの優雅なふるまいが夢であるかのように――王美人は簪を片手に持つと、その先端を珪己の瞳に向かってびゅっとふるった。


 あまりの速さと凄味に、珪己は目を閉じることもできなかった。

 鋭く尖った簪の先端は珪己の片目に刺さる寸前で――止まった。


「……これでお主の美を損なえば陛下はどう思うだろう?」


 珪己は声も出せず、身じろぎひとつできないでいる。

 そこに果鈴が近寄り、簪を持つ王美人の手をそっとその両手で包んだ。


「そのようなことをされてはお手が汚れます」


 言われ、逡巡した王美人の手がゆっくりと降ろされた。


 簪の先端が目の前から消えたことで、忘れていた呼吸を思い出したかのように、珪己の口から溜めていた息が漏れ出した。それとともに心臓が破裂しそうなほど高鳴り出す。


 これほどまでに誰かを怖いと思ったことも、自分の無力さを痛感したこともない――。その事実にあらためて気がつくと無意識に体が小さく震えた。


 王美人は珪己の様子にやや満足そうにほほ笑むと、簪を手にしたまま元いた椅子に座った。王美人につき従い、果鈴もその隣に戻る。


 王美人は果鈴を見やると、


「それではこの者はどうする。ここに捨て置き餓死でもさせるか」


と、それがいとも簡単なことのように口にした。


「いえ、やはり王美人様のお部屋を汚すのはどうかと。それにこの者が今夜東宮に行かなければ騒ぎとなりましょう。その際、嫌疑がかかりこの部屋に捜索の手が及ぶのも忍びません。このような者のために王美人様が損なわれることなどゆるされることではありません」

「では。何か策はあるのか?」

「はい。今夜はちょうど月のない夜ですから」

「おお、そうであるな。今宵はしん国の商人がやってくる日か」

「はい、あと数刻ほどで小舟がやってきます。荷を出した後の空箱にこの者を入れ、宮城から出してしまいましょう。そしてそのまま遠く離れた湖に運ばせ、重石とともに沈めてしまえばよいのです」

「うむ……。だがそれでは陛下への私の愛は伝わらないではないか」

「……王美人様。それはこの者がいなくなった後、私が別の策を考えます。陛下が女性に興味があることを考慮すれば、今までとは異なる良案も示せますわ。陛下のお心が王美人様に向かうよう誠心誠意努力します。ですからどうか……」

「まあよい。此度は果鈴の言うとおりにしよう。だが、もしこの者が抵抗したら即刻殺せ。そして瞳をくり抜き私の元へ持ってくるのだ」

「……はい、かしこまりました」

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