1.狩りの開始
明け方、東の空に白く細い太陽の光が芽生えだした頃、楊珪己は眠い目をこすりながら東宮を後にした。
まだ早い時間であるからか、昨夜のように多数の武官は見当たらない。遠目に数人が配置されているだけだ。
ややひんやりとした空気が心地いい。だが生まれたての日差しは珪己の目を無遠慮に突き刺してくる。優しい色彩とは裏腹に随分と力強い陽光だ。
珪己の髪には大粒の黄真珠の簪が飾られている。
東宮を出る前、龍崇が手自ら珪己の髪を結い直した。現在の東宮には女官が不在なためであるが――珪己は龍崇の慣れた手つきに、昼に龍崇と交わした不埒な会話を思い出さざるをえなかった。髪を整え終えると、龍崇は珪己がここに訪れた際に身に着けてきたいくつもの煌びやかな簪を隅においやり、代わりにこの黄真珠の簪を飾りつけたのである。
黄は皇帝の色だ。
と、橋の陰から一人の武官が静かにその姿を現した。
思いがけないその武官の登場に珪己は歩みを止めた。
袁仁威だった。
今度は顔を隠すことなく、真正面から仁威と向き合う。
今さら隠しても遅いことは分かっているから。
仁威は珪己の前に立ちふさがったものの、険しい表情のまま一言も声を発しようとはしなかった。華美な衣装はもちろん、黄真珠の簪に言葉が見つからなかったのかもしれない。
珪己は少し逡巡したのち、腰に帯びていた薄い青の扇子を抜き取った。
「これを李副使に渡してください」
仁威の眉がぴくりと動いた。
「本当は後宮に戻ってから女童にでも頼もうと思っていたのですが、早いほうがいいですし、袁隊長から渡していただけると……助かります」
少しの間の後、仁威が聞き取れないほどの小さい声でつぶやいた。
「それでいいのか」
「はい。お渡しすれば、李副使はお分かりになると思います」
「そうか」
仁威がそっと扇子を受け取った。
「それでは失礼します」
それだけ言うと、珪己は仁威のそばを通り過ぎた。
だがその瞬間、背後から手を強く掴まれた。
振り返った先にある仁威の顔は、昨日、仁威の部屋で垣間見た驚きの表情とは異なり、ひどく切なそうだった。
「……すまない」ぎゅっと眉をひそめ、絞り出すように声を発する。「俺達はまた助けることができなかった」
珪己には仁威の言葉の真意は分からなかった。
けれど――これだけは言える。
「袁隊長。私は私に与えられた使命のためにここに来ました」
珪己は真っ直ぐに仁威を見返した。
「ご存じのとおり私は強くはありません。ですが私に迷いはありません。必ずやこの責務を果たしてみせます。きっと……いえ、必ず」
それだけ言うと、仁威の手をそっとほどき、珪己は後宮へと再度足を向けた。
仁威がその後ろ姿を見つめ続けていたことを知るよしもなく。
*
後宮の入り口では江春が待っていた。その顔から、江春が一睡もしていないのは明らかだった。江春は珪己の髪に挿された簪を一目見るや、よよっと崩れ落ちた。
「珪己殿……何と言ったらいいんでしょう」
珪己は膝を折り、江春の手をとった。
「江春様。これから大部屋になるべく多くの女官方を集めてください。できるかぎりさりげなく」
「なんですって?」
「これから後宮の虎を退治するのです」
「虎……?」
怪訝な顔をする江春に、珪己は無言でうなずいた。その顔には昨夜垣間見た悲壮さは見当たらなかった。強い意志で輝く瞳ときゅっと口角のあがった挑戦的な表情は、夜が明けたばかりの透明な空気の中でひどく冴え冴えとしていた。
だから江春は一つうなずくや、その願いを叶えるために即座に行動を起こしていった。
*
袁仁威がその枢密副使の執務室の扉を開けたとき、李侑生は扉に背を向け、窓の彼方に視線をやっていた。
その後ろ姿はまぶしいほどの朝日に溶けてしまいそうだった。
仁威は察した。侑生が自分と同じように、一夜かけて八年前の過去と対峙したことを。一欠片も甘さのない子供時代が終焉した瞬間を思い返していたことを――。
声をかけることができずにいる仁威に、ふと、侑生がゆっくりと振り向いた。
「……仁威か」
仁威は侑生に近づくと、薄い青の扇子を差し出した。
「これは?」
「先ほど東宮から出てきた楊珪己と会った。その際、これをお前に渡すよう言付かった」
「……そうか」
「これを渡せばお前には分かる、そう言っていた」
「私との関係を終わりにしたいということだろう」
ふうっと、侑生がため息をついた。
これに仁威の眉が少し上がった。
「お前と楊珪己は恋人の関係ではないと鄭古亥殿から聞いている」
「なんだ。知っていたのか」
少し残念そうに侑生は言う。
今度は仁威の眉間にしわが寄った。
「今は冗談を言っている場合ではない。これが何のことか、お前には分かるのか?」
侑生は扇子を受け取ると、そっと開いた。幾重にもたたまれた薄い青の布から、白檀の香りとともに、二、三枚の桜の花びらがこぼれ、ふわりと机の上に舞い落ちた。
侑生が珪己とのことで桜を連想させるものといえば――後宮へ届けさせた文箱の飾りに桜の一枝を利用したことだけだ。
気がつくと、侑生はひどく安堵した。
その表情の変化を仁威が察した。
「あいつは大丈夫なんだな?」
「ああ、そのようだ。昨夜は夜伽のために東宮へ行ったわけではないようだ」
「と、いうことは?」
侑生はこの手によくなじんだ扇子を音を立てて閉じると、机の上で両の手を組んだ。
「袁隊長。これから私は、なぜ枢密院が珪己殿を登城させたのか、その経緯を話すこととする。そして近衛軍第一隊にはこれから極秘の任務に当たってもらう。おそらく一刻もたたないうちにその旨の勅旨が枢密院に届くはずだ。やってくれるな?」
枢密副使の言葉に、仁威は居住まいを正すとその顔をひきしめた。
「副使殿のおおせのままに」




