11.君たちは必ず生きるんだ
そこに、一陣の風が走った。
と、思うまもなく、蘇孝明の体が揺らぎ、白目をむいて背中からどおっと倒れた。
粉塵が舞う。
「お前ら何をしとる! 血迷ったかっ……!」
孝明の背後から颯爽と現れたのは、当時の近衛軍将軍・鄭古亥だ。
最強の武官の突然の襲来に、男たちは一瞬気圧されたようであった。だがその効果は長くは続かなかった。
「鄭将軍、邪魔をしないでください!」
「そうです! こいつらは我々武官をないがしろにする枢密院の文官へのみせしめなのですっ!」
「我々に逆らうそいつら二人も許してはいけないのです!」
「そうだそうだっ……!」
一人の声が次の声を呼び、その声がまた次の声を呼ぶ。勢いづき、男達はその手の剣を高らかにかかげ、中央に佇む生贄三名に一気に近づこうとした――が。
「……やめい!」
近衛軍将軍の怒声に男達の動きが再度止まった。
「お前らにこいつらを殺させはせん! どうしてもというのなら、まずはこの儂を倒すがよいわ……!」
しかし、この古亥の見せた鬼気迫るほどの覚悟をもってしても、居並ぶ男達の心をくじくことはできなかった。心が憎しみや狂気という名の鬼に完全に捕らわれてしまっていたのだ。
声に出さない声が――聞こえる。
(やらねば、やらねば……!)
(今こそが最大の好機……!)
(今やらねば……!)
囲みはじりじりと窄んでいく。
侑生と仁威は玄徳を挟んで背中合わせとなった。
いよいよ本格的な暴動が起きれば――その先には絶望しかない。
もう――止まらない。
終わりだ――。
すると――古亥がその体を震わせ、振り絞るように声を発した。
「そうか……。部下の不始末は儂の罪……。であれば、儂の手で貴様らを裁くしかないな……」
言い終わるが早いか、齢六十近い小柄な古亥の体から、何かが着火して爆発を起こしたような激しい闘気が発せられた。それは先ほどの孝明の比ではなく、その場にいるほとんどが一瞬居を失うほどであった。
次の瞬間――。
強烈な闘気とは不似合にも思える疾風のごとき剣の舞を古亥が見せた。
古亥がその足と剣を止めると同時に、近くにいた三人の男が音もなく崩れ落ちた。遅れてその場にぱあっと血しぶきが舞う。
息を飲み固まる新人二人に、古亥がすかさず血塗られた剣で道を示した。
「お前らはここから立ち去れいっ……!」
古亥が三人の男を切り倒したことで、そこにわずかな道が生じていた。
「こいつらは儂一人で十分だ! さあ急げっ……!」
言い終わるよりも早く、古亥はがむしゃらに襲い掛かってくる男を次々と薙ぎ払っていった。
ためらいは一切ない。鋭い剣筋は肉を一刀両断し、その都度大量の血の雨を降らしていく。その剣捌きはまさに神のようであった。
将軍の言うとおりだと、侑生と仁威は即座に判断した。視線をかわすや二人は玄徳を両脇から抱え、古亥の作った決死の細道を一気に突き進んだ。
古亥の剣の凄味は男達の行動を一瞬遅らせた。はっと気づいてあわてて追いかけようとした時には、すでに彼らの前に音もなく古亥が立ちはだかっていた。
闇色の天空に向かって腹の底から吠える。
「お前らはここで儂と散るがいい……!!」
*
侑生と仁威は息も絶え絶えに武殿を抜け出した。抱える玄徳の息は二人とは比べられないくらい荒かったが、ここで歩みを止めるわけにはいかなかった。古亥の勇猛さは十分実感していたが、その網をかいくぐった追跡者がいつまた襲い掛かってくるか分からない。追われる恐怖を二人はひしひしと感じていた。
通り抜けていく武殿のどこにも明かりはみられなかった。あれだけの騒ぎが起きているのに何の反応も起こらないことから、この殿は反乱者によって占拠されていると考えるのが妥当であった。そのため、三人は誰に助けを呼びに行くわけにもいかず、できることといえば、宮城から脱出することしかなかった。
このような日付も変わるほどの遅い時刻には、昼日中の常のように文官の姿は見えず、向かいに見える昇龍殿の扉もまた閉じられているのが普通だ。この日も警護のために配置された武官が所々で確認できる程度であった。
しかし、これらの武官のうち誰が敵で誰が味方か、先ほどまで反乱が起こることすら知らなかった二人には判断がつくわけもなく。そのため、焦燥感にかられながらも、宮城の外に出られる正門まで身を隠しながら進んでいくしかなかったのである。
走っては隠れる、走っては隠れるを繰り返し、広大な宮城の敷地を進み、あと少しで正門――というところで。
「嘘だろ……?」
思わず侑生と仁威はうなった。
宮城の唯一の出入口である正門には、当然のことながら警備のための武官が配置されていたからだ。……万事休すだ。
その時、玄徳が言った。
「君達二人だけで逃げなさい」
驚く二人に玄徳は続けた。
「君達はたまたま今回の件に巻き込まれただけだ。だからもしあの武官の中に私が標的となっていることを知っていた者がいたとしても、突発的に反抗に巻き込まれた君達のような者のことまでは知らされているとは思えない。ただし、もし追手がここまで来て彼らに君達のことまで知られたら終わりだ。私達は共倒れになることだけは絶対に避けなくてはいけない。……『今度こそ』は分かるね?」
玄徳が二人の手をそっと握った。
二人は声が出なかった。
「いいかい。君達は何も知らない顔をして……そうだね、後宮で女官と逢引きをしていたとでも言って出ていけばいい。それで疑われることは何もないはずだ。もし何か問い詰められたとしても、あちらも二人しかいない。いざとなれば全速力で走って逃げれば助かるだろう」
「……楊副使はどうされるのですか?」
「私の身一つ隠す場所くらいあるよ。だてに官吏となって長くはないからね。朝になれば誰か早起きの官吏が登城する。それまでの辛抱だ」
いたずらっぽく片目をつぶる玄徳が本当のことを言っているのかどうか、二人には分からなかった。だが自分達にできることは、今度こそ玄徳の言うとおりに行動することだけだった。
「……分かりました」
「うん。それでは、気をつけて。君達は必ず生きるんだ。いいね」
立ち去る二人に、玄徳は静かにほほ笑んでみせた。




