10.反意
室の外では複数の武官が常に囲んでいる気配がしていた。そのため、二人はそれからは特に話し合うこともなく、ただじっと与えられた部屋で玄徳とともに時を過ごした。腕に自信があるとはいえ、自分よりも年上の大勢の武官と渡り合う度胸はなかったのだ。
部屋にいる間、二人は玄徳と二度と言葉を交えることはなかった。二人には玄徳と過ごす時間が気づまりですらあった。早く何もかもが終わればいいのに……とも願った。そうやって永遠とも思える長い時間をひたすらこの場で耐えたのである。
夜もだいぶ過ぎた頃、ふいに外が騒がしくなった。
侑生が扉を細く開けると、向こうに広がる鍛練場に武装した武官が十数人やってくる姿が垣間見えた。暗闇の中でも、彼らの腰に長剣が認められた。その拵えは見慣れた鍛練用のものではなかった。
「まさか……」
青ざめる侑生の肩越しに仁威も扉の外を覗き、そして目を見開いた。
男達は皆、顔や腕や首、それに衣装を赤く染めていた。それが返り血によるものであることは容易に想像できた。それとともに、むせ返るような血の匂いや赤い霧がこの部屋にまで漂ってくるような錯覚を感じた。
仁威は本能的に扉を閉めた。
侑生もまた、夏の暑さのせいだけではない嫌な汗をその額に浮かべている。
ぽつり、と玄徳がつぶやいた。
「……彼らはそこまで行動を起こしてしまったんだね」
二人には返す言葉がなかった。
「蔡蘭、珪己……」
続く玄徳のつぶやきで、男達が何をしてきたのかが二人にもはっきりと分かった。
*
やがて数人の武官が部屋にやってくると、彼らは二人に玄徳を外に連れ出すよう命じた。久方ぶりの血の匂いにいきり立つ彼らに、二人は息を飲むほどの恐怖を感じた。
こいつらはおかしくなっている。
言われた通りにしなければ――自分達の身が危ない。
玄徳は二人のわずかな迷いに気がついたのか、自らの足で立つと縛られたままの状態で歩き出した。ふらついた玄徳の体を二人はとっさに同時に支えた。そして、そのまま興奮する男達に囲まれ、三人は半ば寄り添うように鍛練場の中央へと連れ出されたのである。
その日、雲がないのに月が見えなかったことを覚えている。
ちかちかと瞬く幾万の星の下で、三人はいつの間にか百人近い武官の集団に囲まれていた。 悪夢のようだがそれが現実だった。
一人の大柄な男が三人の前に進み出た。懐に手を入れると、黒いものを雑作に投げる。
三人の足元に落とされたものは長い髪だった。べとつく何かによって、元の艶や手触りのよさは見る影もない。二人のどちらからともなく、ひっと声が漏れた。その髪もまた血に染まっていることに気づいたのだ。
「楊副使よ、これが誰のものか分かるか?」
顔にこびりついた幾多の血しぶきをものともせず、その男の表情は誇らしげだった。
「これはあなたの奥方の髪だ」
玄徳はその髪に目をやるとつぶやいた。
「蘇孝明、第一隊の隊長ともあろうあなたまでもがこのようなことに加担したのですか」
ぶるっと、その男、蘇孝明の体が震えた。
「……だからお前は気に食わないんだ! 武の道に通じていないお前になど、俺達武官の心意気は分かるまいっ!」
「気に入らないことがあれば力ずくで解決するというのは本来の武の道ではありません。私の手は直接戦う術は持っていませんが、それくらいのことは分かっていますよ」
このような状況でこのように冷静でいられる玄徳も、自分達の隊長がこのような大それたことをしでかした張本人であることも、侑生と仁威にはいまだ理解しがたいものだった。これは夢ではないか、そうひたすら願いたくなる光景だった。
二人の指先が小刻みに震えだした。
だが気づいてもどうにもできない。
ただここに立っているだけで気が遠くなるほどだったのだ。
ぎり、と歯ぎしりをした孝明がふいに玄徳を両脇で支える二人に視線をやった。目が合うや二人の心臓は大きく跳ね上がった。
「袁仁威。李侑生」
呼ばれ、二人は反射的に大きく返事をした。
それに孝明が満足げにうなずいた。
「お前らこの男を殺せ」
「……え?」
「二度は言わない。今すぐ殺せ。その腕が役に立つときがきたんだ。喜べ」
なぜですか、などと訊ける状況ではなかった。
正面では自分達の隊長が鋭く射抜くような視線で二人を眺めている。そして今にも腰の剣を抜いて飛びかかってきそうな多数の武官に取り囲まれている。彼らはその剣気でもって無言で新人武官に圧力をかけていた。鍛練場ではついぞ感じたことがない濁流のような激しい気に押され、二人はなすすべもなかった。
その時、玄徳が二人にしか聞こえないほどの声でつぶやいた。
「私はかまわないからやりなさい」
思わず二人同時にその声の主を見た。
「一つだけ君達にお願いしたい。生き残って、事の次第を枢密院に報告してくれないか。君達にできる唯一のことはそれだけだ」
これ以上はないというほどに目を見開いた二人に、玄徳がふっと笑った。このような時に笑える玄徳に、二人は玄徳の意志の強さを感じざるをえなかった。
「大丈夫。君達がここで私を殺してもそれは仕方のないことだから」
「……仕方がないって。それは俺達では隊長達に敵うわけがないってことですか」
「違うかい? 君達の腕のほどは知らないけれど、少なくとも、君達の心は最初から負けてしまっているよね。こういう状況では仕方のないことだけど」
最初から。
それはあの部屋に連れていかれて玄徳と対峙した時からだ。
二人は部屋に閉じ込められている間、何もしなかった。
例え多勢に無勢だとしても、どちらか一人だけでも助けを呼びに逃げ出すことができたかのもしれないのに――何もしなかった。
最初からあきらめていたし、当事者であるという意識もこの場に連れ出されるまで芽生えてもいなかった。
そして今、心身の全てを恐怖に支配されているような愚か者でしかない――。
ぐっと、侑生の拳がきつく握られた。
仁威にも侑生の考えていることが分かった。
(今からでも間に合うのでは?)
(……であれば自分が!)
次の瞬間、ためらうことなく仁威が玄徳の腕を離した。支える玄徳の重みが増え、侑生の動きが遅れた。侑生が玄徳を両腕で受け止めると同時に、腰の剣を抜いた仁威が玄徳と孝明の間に立ちふさがる。
孝明の顔が歪んだ。
「……おい、どういうつもりだ」
腹の奥から響くような上司の声は、二人の新人武官の体を即座に緊張させた。だが、仁威は、暑さだけが原因ではないぬるりとした汗をその手のひらに感じながらも、切先を上司の眉間に正確に合わせた。
「お前……殺されたいのか?」
孝明の言葉に感化されたかのように、取り巻く百人近い武官から異様な気配が発せられた。これこそが殺気というものだと、二人は後に理解する。
実戦経験のない仁威は、このように怨霊じみた多くの殺気を身に受けたことはなかった。気がつくと額から汗が流れていたが、身じろぎひとつでもすれば命とりとなるこの状態では、切先すら一寸も動かすことはできない。
一つでも隙を見せれば、間違いなく、死ぬ。
ぽたり、ぽたりとつたう汗が地面に落ちていく。
侑生は玄徳を片手で支え直すと、空いた手を使って剣を抜いた。そして玄徳を護るように背中に回った。侑生の喉はこれ以上にないほど乾いていたが、唾を飲み込むという一動作すら危険な行為と感じられるほど切迫した状況にあった。
新人二人の明らかな反意はその場にいる全ての武官を刺激したらしい。
一人、また一人と、ちゃきっと音を立てながら腰の剣を抜いていった。
ちゃき、ちゃき、という音は、鍛練場を取り囲む武殿の建物に反射し、折り重なって星の瞬く闇空に響いた。
猛々しい囲みはじりじりと三人に近づいていく。
対峙する孝明の一遍の隙のなさに、敗北と死、二つの言葉が仁威の脳裏に浮かんだ。
今にも押し迫らんという百人近い男に囲まれ、これでは玄徳の唯一の望みを損なうことになると――そのことに侑生はようやく気がついた。
二人の新人武官の結末は、その場の誰もが予測できた。




