9.朱夏の記憶
その頃、李侑生は枢密院の執務室で、袁仁威は武殿の鍛練場の中央で、空にかかる弓のように細い月を眺めながら、それぞれが同じ過去を思い出していた。
八年前の楊武襲撃事変のことを。
彼らの人生にとって決定的な分岐点となったあの夏のことを――。
*
その年、貴青二年。
侑生と仁威は晴れて武挙の試験に合格し、近衛軍第一隊配属となった。合格者の中でもひときわ年若い二人は、同い年であることを知れば、親交が深まるのに時間はかからなかった。
そう、二人は武官として出会い、武芸者として親交を深めていたのである。そこには今のような明確な上下関係など一切なかった。対等の友人であり好敵手であった。
この時代、武官の地位は低下傾向にあったとはいえ、この若さで正規の官吏として登城できるものはわずかしかいなかった。それはつまり、華やかな人生を二人が約束されたことを意味していた。だからこそ、武官となれたことに二人は素直に幸福を感じた。周囲は二人のことをもてはやしたし、自分たちもそれに値する人間であると思い込んでいたのである。
――そう、あの夏の日までは。
その日の夕方、二人は鍛練場の隅で壁を隠れ蓑にして優雅に寝そべっていた。
初代皇帝の御世から武官の地位は下がる一方であったが、それは二年前に三代皇帝が即位してからも変わることはなかった。そのため、真剣に鍛練に励むような武官はほとんどおらず、二人も同様であった。二人が自身の武芸の業に自信を持っていたことも理由の一つではあったが、いずれにせよ、この暑い中、汗水たらして稽古をするのは誰もがおっくうに感じるような朱夏の夕暮れ時であった。
日暮の鳴く声をなんとはなしに聞きながら、二人はうとうととまどろんでいた。もう少し日が暮れれば、帰れる。その程度のことしか考えていなかった。新人武官の二人を除けば、ほとんどの武官はすでに鍛練場を後にしていた。まだ明るさの残るこの時間にここまで武官の姿が見当たらないのも、今から思えば疑問を持つべきことだったのだろう。
と、そこに第一隊所属の武官が一人やってきた。
「お前ら、ちょっと手伝え」
年長者の命令には従うしかなく、二人は面倒な気持ちをなんとか隠しながらその男についていった。連日の暑さで体がだるく、頭の芯がやけにぼうっとしていた。
連れていかれた先は第一隊隊長のための執務室だった。まだ幾度も顔を合わせたことのない上司の部屋だと知り二人の体が緊張に固くなったが、その武官はお構いなしに扉を叩いた。
「俺だ。新人を二人連れてきた」
位もない男による横柄な物言いに驚きながらも、二人は開かれた扉の内側に無理やりこづき入れられた。
入るなり、二人はぎょっとした。
そこには当時の枢密副使であった楊玄徳がいた。
玄徳のことは武挙の合格証書を受け取る際に一度見かけた程度ではあったが、文官の紫の袍衣と腰に下げた青玉の飾りから、二人は容易に玄徳の正体を察したのである。
玄徳はその体を太い縄で縛られていた。
玄徳の他に、部屋には同じく第一隊所属の武官が一人いたが、侑生と仁威に玄徳の見張りをする旨を言いつけると、先の男とともに部屋から出て行ってしまった。こうして三人は一室に閉じ込められたのである。
突然のことに侑生と仁威は茫然とした。しばらく無言で立ちすくんでいたが、床の上でかすかに身じろぎをした玄徳に、二人は現実の世界に引き戻された。
玄徳の衣服は乱れ、汚れていた。その顔は何度も殴られたらしく、唇は切れ、片方の瞼が異様なほど腫れていた。二人は武官ではあったが、これほどまでに酷い暴力を受けた被害者を見るのは初めてであった。
自分達の突如置かれた立場についてなかなか心の整理がつかず、二人は部屋の隅でこそこそと話をはじめた。
「侑生、俺達はどうすればいいんだ?」
「どうするったって……俺にも分かるわけがないだろう」
「でもあの方は楊副使だよな。そんな偉い人をこんなところに閉じ込めてどうするんだろう」
「……反乱、か」
侑生の一言に仁威は凍りついた。
「は、反乱だと……?」
「さっきの奴ら、武官の扱いが文官に比べて良くないとか、枢密院の上級官吏が文官っていうのが気に食わないとか、いつも文句を言っているよな」
「あ、ああ……」
このような話は武官の間では日常茶飯事で、よくある愚痴、世間話に近いものであった。枢密院でなくても、どこの部署でもよくある話だ。二人はこの類の話を真剣に受け止めるほどには武官としての経歴はなく、いつも適当に聞き流していたが……。それがこのような事態を引き起こすほど深刻な問題であったのだと、二人は現状から判断するしかなかった。
「で、どうすればいいんだよ俺達は……!」
「知るかよ。仁威、お前は人にばかり訊かずに少しは自分で考えろよ」
その時、玄徳の弱々しい声が二人の耳に届いた。
「……君たちは確か、第一隊所属の李侑生と袁仁威だね」
思わず振り向いた二人が見たのは、少しほほ笑んでいる玄徳だった。身元を暴露され真っ青になった二人に、くすりと玄徳が笑った。
「君たちは巻き込まれただけなんだろう? 分かっているよ、安心なさい」
その言葉に二人はひどくほっとしたのを覚えている。それでも身の潔白を証明しようと、二人はあわてて説明をした。
「そ、そうなんです」
「さっきの人に無理やり連れてこられて。まさかこんな事態になっているとは知らなくて!」
玄徳はそんな二人にそれ以上何も言わず、ただ黙って聞いていた。




