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8.再会を乞う

 それで、と英龍が苦しげに続けた。


「とうとう……余は麗を抱いた。そのほうが麗のためになると思ったのだ。しかし抱いた次の日には、余と麗の間の何かが変わってしまった。語る言葉がなくなってしまったのだ。黙ったままの夜を幾度もすごし、二月もすると麗が身ごもった。麗は悪阻つわりがひどく、やせ細るその姿を見るのも、余にはひどく恐ろしくてな……」


 両手をぎゅっと握り、英龍が吐き出すように言った。それから後宮へ行けなくなってしまったのだ、と。


「麗を幸せにしたかったのに、苦しめてしまっていることに気づいたのだ……」

「陛下……」

「麗は菊花を産み落としてから寝たきりの状態が続いている。だから余は菊花にも会えずにいる。例え菊花の周囲に不審な空気が漂っていると気づいても……。自分の母親を不幸にした張本人だとののしられるのではないかと恐れてな。余は情けない男であろう?」


 珪己は黙って首を振った。

 それに英龍は少し笑ってみせた。


「けれど今日、菊花から初めて文をもらい、うれしかった。麗も菊花も、余に会いたいと願ってくれていると書いてあった。それは本当なのだな?」

「はい、真実でございます。姫は陛下に後宮にお渡りになってもらいたい、ただその一心で動いておりました」

「そうか……。今夜はそれを確認したかったのだ。どうも自信がもてなくてな」

「陛下」


 珪己は英龍に向かって居住まいを正した。


「今夜は私が陛下のお話を聞かせていただきましたが、このことは陛下が胡淑妃や姫に直接お話しするのがよいかと思います」

「なん、だと?」

「先ほど私は陛下に尋ねました。胡淑妃を愛されていないのか、と。けれど陛下のお話を聞いて、そのような言葉の定義にこだわる必要はないと確信しました。陛下はお二人を慈しんでおられます。そのお気持ちがあることこそ、人と人とにとって最も大事なことではないでしょうか」

「……そうか。余はこれまで、このことをすう以外の誰にも言えなかったのだが、今夜そなたに話せて本当によかった」

「崇……とは?」

「ああ、ちょう龍崇りゅうすうは余の義母弟で、皆には黒太子と呼ばれている者なのだがそなたは知らないか?」


 黒太子。


 その名は珪己の脳裏に鮮烈に一人の青年を思い出させた。


 ――昨日の黒衣の青年。


「龍崇は余が心から信頼する数少ない皇族の一人でな、そなたのことを後宮の女官としたのは龍崇の発案なのだよ。湖国では創生以降宦官を廃しておるため、信頼に足る皇族の一人に華殿、そして後宮を護る任を与えているのだが、今、それは龍崇の任であってな。余は龍崇を通して楊枢密使に適任の女人を探すよう命じたのが、まさか枢密使の娘御がやってくるとは驚いたものだった。しかし、武など使わずとも、そなたは良い働きをしてくれている。さすがは楊玄徳の娘だ」


 ふと、珪己は気がついた。黒衣の青年――龍崇は、今夜皇帝が珪己を抱くつもりがないことを分かっていたのではないか、と。珪己が侑生の恋人ではないことも当然知っていたはずだ。


(分かっていてあんな言い方するなんて……!)


 勅旨を侍従に頼まず手自ら渡しに来たことといい、気づけばやることなすことが憎たらしく思えてきた。たとえ皇族であろうとも、恋を知らない女に対してひどすぎるではないか。


 皇帝の前にも関わらず、珪己の胸の内に龍崇への怒りがふつふつと芽生えだした。


 その時、英龍もまた居住まいを正して珪己に向き合った。


「楊珪己。そなたに全てを話したのは、余なりの、これからそなたに起こることへの誠意を示すためだ」


 英龍の真剣なまなざしに、珪己の身が引き締まった。


「余はこれを機に、菊花に害をなす後宮の虎を捕えたいと思っている」

「虎、とは……?」

「菊花はこれまで幾度となく命を狙われている」


 告げる英龍の固い声音に、珪己は両手をきつくを握りしめた。


「陛下……それはどういうことでしょうか」

「菊花自身が事を起こしたのは眠り薬を利用したもののみだ。それ以外の件は全て後宮内のいずれかの人間の仕業である」

「それは、どういう……」

「そなたが後宮に入ってからも、菊花の衣装に刃が入っていたことがあったであろう」


 珪己は息をのんだ。女官となったその日、菊花が指を切る事件があった――そう江春が言っていたことが思い出される。


 だが後宮内に武器は持ち込めない。であれば、それは刺客によって故意に仕込まれたものと判断するのが道理だ。


 合点のいった様子に英龍がうなずいてみせた。


「そうだ。覚えておろう。そして後宮でこのような不埒なことをしでかせる親玉は二人しかいない。きん昭儀しょうぎおう美人びじん、二人のうちのどちらかだ」


 いとも簡単に二人の妃の名を出す英龍に、珪己は固唾を飲んだ。


「これまで菊花に及ぼされる害は、命の危険のあるようなものではなかった。それは余が麗や菊花の元を訪れなかったこととも関係する。だが、もし余が二人に親愛の情を示すようなことがあれば、必ずその行為は過激なものへと発展するだろう。それが余が後宮を訪れなかったもう一つの、しかし最大の理由だ」


 しかし、と英龍が続けた。


「もう余はこのようなことは終わりにしたい。麗に会って謝りたいし、菊花をこの手に抱きしめたい。だから楊珪己、虎を狩るために余にもう少し力を貸してくれないだろうか」


 英龍が膝の上に載せていた珪己の両手をぐっと握った。珪己に向き合う英龍の双眸は強い光を放っている。誰かを真に想うからこそ、その瞳は美しく輝くのだろう――。


 心がふるえ、珪己は英龍の手を握り返した。


「はい。陛下のため、胡淑妃や姫のためにも、この身を賭してご尽力させていただきます」


 すると、英龍の顔が一変して笑みに彩られた。


「であるとな、すう

「ええ、陛下」


 振り返ると、寝台の陰から黒衣の青年がすっと姿を現した。いつからいたのか。


「ではそなたはこれからは崇の命に従ってくれ。そなたの協力があれば、数日以内にも決着をつけられるであろう」

「……はい?」

「ああ、その間抜け面はなんだい。君にはこれから皇帝陛下の寵愛を一身に受ける女人としてふるまってもらわなくてはならないんだよ?」


 龍崇の突然の発言は珪己の頭を混乱させた。いや、もう限界だったのだ。


「え……? 決着? 寵愛? ……どういうことですか?」


 展開の速さに考えがまとまらず、珪己は思わず頭をかきむしっていた。華やかに結い上げた髪が見る間に崩れたが、混乱する珪己は全く頓着しない。それを見て英龍が心配そうに龍崇を見上げた。


「崇よ。この者で『あの策』は本当に大丈夫であろうか?」

「ここに来ることができたのですから胆力は十分にあるでしょう。後は私にお任せください。まだ朝まで時間があります。私が一晩かけてしっかりと教育いたしますよ」


 龍崇のほほ笑みは、珪己には悪事を企む者の顔にしか見えなかった。

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