3.いきさつ
つまり、こういうことである。
現皇帝の御子は、七歳になる息女・菊花姫ただ一人なのだが、この姫の身に最近危険が生じているというのだ。
一つ一つは些細なこと、らしい。だが唯一の御子に関することゆえに、回数が重なるにつれ事態は重く見られつつあるのだという。
なお、姫のご母堂は胡淑妃という。淑妃とは側妃の位の一つであり、正一位、現在最も位の高い妃である。胡淑妃は現皇帝即位の際に正五位の才人として後宮に召し入れられたが、菊花の誕生により淑妃にまで取り立てられた。後宮には胡淑妃の他に、正二位の金昭儀、正四位の王美人という二人の妃がいる。が、どちらも皇帝の寵愛を得られず子を有していない。
ちなみに、妃の少なさもだが、妃の最上位である皇后のみならず、本来であれば側妃の筆頭として君臨すべき貴妃ですら現皇帝は有しておらず、それはこの時代にはおいては珍しいことだ。初代皇帝は十数人、二代皇帝はその三倍の妃を召し抱えていたと聞く。
その胡淑妃も姫を産んだ後、産褥が重く床に臥す毎日で、これ以上子を産むことは難しいそうだ。必然、唯一の子である菊花は政局的にも非常に重要な位置を占めていた。
その菊花は、皇帝の妃やその子供らが住まう後宮に居を構えている。しかし、後宮内には皇族以外の男は立ち入ることが禁止されており、それは武官であっても例外ではない。
はるか昔に宮城を跋扈し後宮内の警護を務めていた宦官は、初代皇帝の御世にすでに廃止されている。湖国誕生からこれまでにおいて、後宮内の警護はどのようになされていたのか、という疑問はさておき、現在、菊花の身を守り、かつ後宮に入れる女人が急きょ必要とされているのである。
「枢密院にこの件が相談されたとき、珪己しかいないと思ってね」
玄徳の言い分はもっともである、と珪己自身も思った。自分以外の女武芸者の存在など聞いたことがない。
湖国は三代皇帝の御世となって早十年、国としての基盤は固まり、その治世は百花繚乱の気勢があふれんばかりとなっている。諸外国との関係も非常に良好で、世は完全なる平和を謳歌していた。
そのような時、国は政務を執り行う文官の採用や育成に力を入れるものだ。比較すれば、国を興す際の立役者であった武官は冷遇される傾向にあったというわけで……いわんや、武芸者についても同様だった。
この時代、武芸を究めることを望むものは数少なくなりつつあり、嗜みだとかお稽古事としての側面に重きをおく者の方が多くなっていた。武官という職ですら、本業は命を懸けることではなく、体の鍛練によって禄をもらうものと捉えられている有様である。
しかし変わらないこともいくつかあった。その一つが『武に女人かかわるべからず』という不文律だ。関わる必要がない、というのが当の女人にとっては真実であろうが。
その唯一の例外がこの少女、楊珪己である。
珪己は八歳から自宅隣の道場にて武芸を学んできた。男に負けず劣らず熱心に稽古に勤しんできた結果、今では師範代理を務めるほどまでに上達している。
そのことは珪己自身にもよく分かっていて、それゆえ父の言葉に少女の口元が自然と綻んだのも仕方のないことだった。
侑生が言葉を継いだ。
「菊花姫のお世話をする女官という名目で、珪己殿には後宮に入っていただきたいのです」
それを聞いて、珪己はようやく落ち着きを取り戻すことができた。椅子に座りなおし、ほっと一息つく。
「女官……ですか。なんだ、そういうことだったんですね。いきなり妃になれとでもいうのかと思いました」
「そういう話に捉えられても仕方なかったですね。申し訳ありません。事が解決すればこの任務は終了ですが、おそらく長くても数か月程度、かと」
「そうですか。それなら大丈夫です。私、やります。そのような危険なことばかりでは姫君もさぞ心細いでしょうし」
「珪己ならそう言ってくれると思ってたよ」
玄徳が目を細めてお茶を飲みほした。
「ところで、父様。もう一つ、私が武官になるっていうのはどういうことよ」
これについては、こうである。
後宮に勤める女官ともなると行動にはいくつかの制限が生じる。しかし、警護のためにはある程度自由に動ける必要がある。とはいえ、宮城内にて武による行動を許されているのは皇族と武官のみ、とくれば。
「枢密院としてはこの規律を守らないわけにはいかないんだよ」
この玄徳の言い分ももっともだ、と珪己は思った。
長官みずから規律を破れるほど現在の湖国は甘くはない。国中に敷き詰められた法の数々によってこの常春のような世が維持されているのだ。また、玄徳が人一倍規律に厳しい性質を持つことは、娘である珪己は十分すぎるほどに理解している。
「でも、女が武官になってもいいのかしら?」
珪己の素朴な問いに、玄徳が得意げな顔をした。それはよほど仕事でうまくいったときにしか見られない表情である。
「それが改めて法を調べたら、採用において性別を制限するような記述はなかったんだよ。なあ、侑生」
「ええ、玄徳様。私も隅から隅まで書に目を通しましたが、そのような記述は見つかりませんでした。これまで、武官になりたいと思う女性も、女性を武官にしたいと思う人物もいなかったんでしょうね。それに武官と女官を兼ねてはならないという法もありませんでした」
玄徳の満面の笑みを受けて、侑生は少し苦笑している。
話を重ねているうちに、二人の雰囲気は見るからに和んできた。ただの上司と部下というだけではない親しみと絆が二人にはあるようだ。仕事一辺倒だと思っていた父、そして独特な魅力を放つ侑生――二人の新たな一面を垣間見て、言葉では説明し難い不思議な感情を珪己は覚えた。
とはいえ、褒められるのを待つばかりの父と、それに同調する侑生の様子には、笑いをかみ殺すのが大変だった。大の大人、しかもこの国の上級官吏たる二人が、揃いも揃ってこうも子供じみた表情をするとは。
「なるほど。重箱の隅を突いたわね、父様」
玄徳もまた、娘のからかうような表情にも負けることなく軽く胸を張ってみせた。
「どうだい?」
「うんうん、すごい」
娘の乾いた返答も愛情の裏返しと知っているのだろう、玄徳は気にすることなく話を進めていった。
「そうそう、後宮では武器の所持は禁止されてはいるけれど、周辺は近衛軍が警備をしているから、刺客が押し入ってくるようなことはないと思っている。ただ、武芸に通じる珪己でないと気づかないようなこともあると思うから、今回の任務を引き受けることにしたんだ。私も枢密使として珪己に害が及ぼされることのないように注意するから、安心して後宮に入るといいよ」
「はい、父様」
「それでは、準備が整い次第、珪己殿の武官就任、そして女官着任の儀を進めさせていただきます」
「分かりました。父様、侑生様、よろしくお願いします」
そう答えた瞬間、珪己の頭にあることがひらめいた。明るく輝いた瞳は父親譲り、好奇心によって星のようにきらめいている。だがそれに玄徳は少し眉をひそめた。
「……何かいたずらでも思いついたような顔をしているね」
「え? いたずら? そんなんじゃないわよ。でも、ふふふ。いいこと思いついちゃった」
そのあと、玄徳が何度となく尋ねても珪己は降ってわいたこの名案を口には出さなかった。珪己の胸には、これからの未知の経験に対する恐怖よりも、突如思いついたことへのわくわくとした期待、喜びのほうが勝っていたのである。