7.皇帝・趙英龍
侍従に促され、珪己は皇帝の部屋に一人通された。
部屋には誰もおらず、しんと静まり返っている。
ここに暮らすものの気配がほとんど感じられない。
皇帝はここではなく執務する昇龍殿の室で普段寝泊まりしているという噂は事実らしい。
部屋に灯された数本の蝋燭は、風もないのにその薄淡い炎を小刻みに揺らしている。調度類はほとんどなく簡素ともいえる。だが部屋の奥のほうに、薄い闇に包まれてはいるものの、ゆうに大人二人で使える寝台が鎮座しているのが垣間見えた。
珪己の体がぶるっと震えた。
無意識に腰帯に差した扇子に手をやっていた。
その時。
扉の向こうから、静かに歩み寄る複数の気配を感じた。
先ほどの侍従らしき存在と、もう一人。
「――皇帝陛下がおなりです」
侍従の発した声に、珪己は扇子から離したその手をきつく握った。爪が食い込むほどに強く。だがそれも一瞬のこと、扉に向かいなおると両手を顔の前で組み頭を下げた。
扉が音もなく開き、その人、皇帝が部屋に歩み入る気配を感じた。お前は下がっておれ、と低く告げる声を合図に、侍従は扉から離れ、閉め、いずこへと去って行った。
皇帝は部屋の中央にある椅子に腰を降ろし、顔を上げるように小さく告げた。その言葉に従い、両手を降ろすと珪己はゆっくりと頭を上げた。
椅子に座るその男は、一目見れば紛れもなく皇帝そのものであった。
皇帝の証である黄袍に身を包む姿は、薄明かりの中で望月のごとく光り輝いている。この国随一の主として圧倒的な存在感を放つこの男――皇帝となって十年、この長いとも短いともいえない年月は、齢三十のこの男を生まれながらの絶対者であったかのように仕立て上げていた。
それでも、その風貌――たとえばつり上がり気味の大きな瞳だとか、滑らかそうな頬、また表情全体から受ける印象には、確かに娘である菊花を思い出させるものがある。
珪己の緊張は最高潮に達した。
珪己の様子と腰に帯びた扇子に、ふっと、皇帝・趙英龍が笑った。その扇子は李侑生が科挙の殿試で一位及第した際、この皇帝自ら下賜したものである。
「そのように固くならずともよい。今夜そなたをここに召したのは余の夜伽をさせるためではない。余は、余の『天子門正』に対して不義は働かぬ。――まあ、ここに座れ」
気の置けない関係であるかのように、ぽん、と、英龍が自身の隣の椅子を叩いた。
「……失礼致します」
ためらいがちに椅子に腰を下ろした珪己を見やり、英龍がささやくように言った。
「そなたが持参したという菊花からの文を読んだ」
「本当ですか?!」
思わず上げた珪己の顔は喜びに輝いている。これに英龍がうれしそうに笑った。
「そなたが菊花の心をほぐしてくれたようだな。文にはそなたのことがよく書かれていたぞ。であるから、今夜そなたをここに召したのだ」
「と、申しますと?」
英龍のともすれば皇帝らしくない人なつこそうな笑顔に、珪己の緊張は次第に解けていった。
「菊花は元気にやっているか?」
「はい。いろいろとありましたが、今日も大好きな虫をお庭に採りにでかけたりと楽しく過ごされています。部屋付の女官とも心が通うようになりました」
「そうか」
うんうんとうなずく目の前の男性は、子を慈しむ親そのものだ。菊花が生まれ落ちてから一度も会おうとしない、不出来な親とは到底思えない。
(……なぜこのような方が後宮においでにならないのだろう)
珪己の顔に浮かぶ怪訝な表情から、英龍はその心を読み取ったかのようだった。
「そなたには余が理解できないであろうな。ひどい父親だと思っているであろう」
「いえ……。はい、そのとおりです」
思い切って珪己は正直に答えた。全ては菊花のためである。その答えに、英龍のややつり上がった大きな瞳がさらに見開かれた。
「余にそのような物言いをする者は珍しいな。うん、だがその通りだ。余も自分のことを悪しき親だと思っている」
英龍が遠くを見やり、大きくため息をついた。
「余はな、女人を抱けぬのだ」
「……え?」
「いや、抱けぬのではない。昔は抱けた。菊花は余の子供だ。であるが、麗が菊花を懐妊した頃には抱けなくなっていたのだ。それだけではない。麗にも、菊花にも、他の妃にも、会いに行けなくなってしまったのだ」
思いがけない皇帝の告白だった。
しかし、皇帝の目に宿る真摯な光は、冗談を言っているわけではないことを雄弁に証明している。
「……余と麗とは、物心ついたときから後宮で育ったのだよ。他にも幾人かの子供が後宮にはいたが、余はいつも麗と一緒にいた。余は次期皇帝となることが生まれたときから噂されていて、大人はもちろん子供ですら、余に取り入ろうとする者ばかりであった。けれど麗は……麗だけは違ったのだ」
「天陽園が……あの小高い丘に花が咲く池のほとりが胡淑妃はお好きなのだと、そう姫から聞いています」
「そうそう、あの庭で池を眺めながら、二人でいつまでも語ったものだ。大きくなったら二人で西のほうへ旅に出よう、その時は余が琵琶を弾くから麗は歌え、そうやって旅費を稼ぎながら西の端まで行ってみよう、と。……余と麗は、後宮という狭い世界から抜け出しいつか自由になりたいと願っていたのだよ。麗は下位の女官が名もない官吏との間に産んだ子であり、余は皇族で、身分の違いはあったが、その願いが二人の絆を不思議と深めていた」
英龍は話をいったんやめると、ひどく言いづらそうに眉をしかめた。
「だがそんな夢物語は叶うわけもない。余は三代皇帝として即位した。その際、余にひとまずといって与えられたのが今いる三人の妃だ。麗は貴族や上級官吏の家の出ではないが、余が気に入る女人であるというだけで無理やり妃とされたのだよ。……余は麗に申し訳なかった。旅に出ようと二人話していたのに、一生を後宮で過ごさせるはめになったのだから」
「陛下は……胡淑妃を愛しておられないのですか?」
珪己の素朴な問いに、英龍が不思議そうな面持ちでその顔を上げた。
「愛……? そのようなことは考えたこともなかったな。余にとって、麗は大事な存在であることは確かだが、愛かと問われると分からない。余は愛とはどのようなものか知らないのだと思う」
英龍の答えは、不器用な菊花の言動を思い出させた。
「余は、妃になった麗にしばらく手をつけなかった。余にとって、麗はそのようなことをしたいと思う相手ではなく、ただ一緒に語り合いたい相手だったのだ。もし余が麗を抱いたら、余と麗の関係が変わってしまうのではないかと、そう恐れてもいたのだ。それに、麗には後宮でせめて幸せに過ごしてもらいたかった」
珪己は英龍の話を不思議な思いで聞いていた。
(語り合いたい人や幸せを願う人というのは、愛する人とは違うの……?)
「……だが、余が妃を抱かないことは臣の不興を買うようになった。皇帝であれば子孫を作るべきだとか、務めを果たさない妃は問題であるとも言われた。麗には、他の妃や有力貴族らからの軋轢もあった。子を作りもしないのに皇帝を独占する不届きな女だとな。余は麗以外の妃の元へは一度も顔を出したことがなかったから。それが余が麗へ示せる誠意だと思っていたのだ」




