6.東宮
華殿の池にかかる石橋を、闇夜の中、江春に連れられた楊珪己が東宮に向かって歩いている。細い月の淡い光が、美しく整えられた珪己を儚い色で照らしている。
今夜、皇帝が一人の女官を東宮に召したことは警護の武官にも伝わっている。池のほとりに配置されるその数は通常の数倍、物々しい雰囲気が立ち込めていた。
東宮の入口に着くと、そこには侍従が一人待機していた。物言いたげな江春と無言で別れると、珪己はひるむことなく、その侍従に連れられて東宮に足を踏み入れた。
*
枢密院の執務室にて、李侑生は一人机に向かっている。机上の書類を機械的に処理してはいたが、その心は嵐のように乱れていた。
皇帝の勅旨が枢密院に届けられたのが昼過ぎのことだ。
枢密使代理の侑生の元に届いたその勅旨は、今夜一人の女官を東宮に召すことと、そのための警備を強化するようにとの命であった。数刻後、江春から届いた早文には、その女官が楊珪己であることが記されていた。文では、江春は珪己と侑生のことを心から案じているようであった。
侑生の扇子は官吏という小物には効果があっても、皇帝の決意に対しては一片の塵に等しい。
(これまで後宮にも渡ろうとしなかった陛下が、なぜ突然、女人を召そうというのだ……?)
(なぜ珪己殿を? 姫の一件があるにせよ、特段目立つような動きはさせていないはずなのに……)
様々な疑問が降っては湧いて出る。珪己の父であり侑生の上司である楊玄徳は今夜も地方の宿舎におり、ここ開陽に戻るまで早くてもあと二、三日はかかるだろう。かといって、玄徳がいればなんとかなるのかというと、そのようなことはない。枢密院の長官にも勅旨を止めることなどできはしないからだ。
ふと見た窓の外に、細い月が雲の隙間からうっすらとその姿を現しているのが見えた。月の位置から、珪己が東宮に入った時分であることが察せられる。
その時、扉が勢いよく開かれた。
物思いに沈んでいた侑生は、その人物が姿を見せるまで、部屋に誰かが近づいていることにすら気がついていなかった。
それは袁仁威であった。
普段冷徹な雰囲気をまとう仁威が、目をつり上げ、体からは触れば火傷をしそうな熱気を発している。憤怒のほどはその様子から一目瞭然だった。このような仁威を目の当たりにするのはずいぶん久しぶりだと侑生がぼんやりと思う間に、仁威はつかつかと侑生の前に来るとその手で机を思いきり叩いた。
「これはいったいどういうことだ! 楊珪己が陛下に召されただと?!」
「どこでそれを聞いた」
侑生の冷静な物言いは仁威の怒りを倍増させた。
「武殿に待機しているはずの第四隊の補充要員がもぬけの殻だった。総動員で華殿の警護に当たっているのだということは武殿にいたその他の隊の者は皆知っていた。お前の女官が召されたという話も、この部屋に来るまでに幾多の官吏の口にのって伝わってきた。そして、清照の文には、あの女官は楊珪己であると書かれていた……!」
「……ああ、姉上の文というのは詩だけではなかったのか。事前に読んでおくべきだったな」
「そういうことではないっ……!」
もう一度、先ほどよりも強く、仁威が机を打ち叩いた。
「それにお前はもっとも大事なことを秘密にしていただろう! 楊珪信は楊珪己だったのだな?!」
「……なぜ分かった」
「最初は見誤ったが、あれはどこからどう見ても女だ。そしてお前が本心から気に掛ける女といえば、これまでの幾多の遊び女ではない。楊珪己しかありえない! しかし、まさか女官と武官が同一人物だったとはな。楊枢密使はご存じのことらしいが、このような結果になるとは万に一つも考えていなかったのか!」
「……出て行ってくれないか」
一言、それだけ発すると、侑生はその目を閉じた。椅子に深くその身を沈めていく。
「もう俺にもどうすることはできないんだ。……許せ」
その言葉も動作も、今の仁威には癇に障るだけだった。
この男はあの日からずっとこんな感じだ。
こんなふうに自分一人で物事を理解しようとし、たった一人ですべてを引き受けようとする。
その目の先には過去と罪、それに楊家の人物しか見えていない。
許せというその一言にも、仁威を尊ぶ気持ちはかけらも見えない。
同じ過去、同じ罪を共有する唯一の存在だというのに、だ。
「お前は……お前はいつもそうだ。そうやって自分一人高みにいるような顔をして、自分一人で罪を背負っているとでもいうような顔をして……」
物事を正しく見ようとせず、自分に都合のよいように解釈する姿は、まるで罪という美酒に溺れて酔っている愚か者のようだ。同じ武官であったくせに、こうして偉そうに紫袍を身に着けて澄ました顔で枢密副使の大椅子に座り、罪の重さに浸り――。
「……仁威?」
ようやくこちらを真っ当に見返した侑生に、仁威が吠えるように叫んだ。
「俺に許すも許さないもないだろう! 許しを乞うのは楊珪己にだ! それにあの日のことを俺が忘れているとでも思っているのか! 忘れて平気な顔をして、武官を、第一隊隊長を勤めているとでも思っているのかっ……!」
鋭利な責めに、侑生の顔が一気に白くなった。
それは二人だけの重い過去、重い秘密についてであった。
二人だけの場でも語ること、触れることを禁じてきた過去についてだった。
見つめ合う二人の瞳、すぐに侑生の双眸が不安定に揺れ出した。
それに気づいた仁威は自分の暴言に己のことながらも驚き――だが侑生を今一度睨み付けると猛然と室から出ていった。




