5.旧知との再会
すぐさま仁威は屋敷を飛び出し、楊家に向けて馬を駆けた。
すでに空は夕暮れに赤く染まり、冷気を感じる風にもこれから訪れる夜の気配を感じられた。だがその冷たさには一心不乱に駆ける仁威の熱い体や心を落ち着かせる効果まではなかった。
馬から降り、仁威は人の気配のしない楊家の屋敷の前でしばし立ちすくんだ。
初めてここを訪れたときの陽光の白さと神々しさ、最後に訪れた夜の蛍の淡い光、佇んでいた少女の儚さ――。この八年間、決して忘れることのできなかった様々な記憶がここにはある。
と、背後から懐かしい声がかかった。
「おお、袁仁威ではないか。久しぶりだなあ」
振り返ると、そこには過去の上官がいた。
「……お久しぶりです、鄭将軍」
「かっかっ。もう儂は将軍ではないよ。今はしがない町の道場の先生だ」
鄭古亥の指す先、楊家の屋敷の隣には武芸のための道場がある。ここに道場が開かれた当初、仁威も半月ほど通っていた。その頃に起こった出来事はなつかしさ以上に痛みを伴って思い出せる。
古亥がにやりと笑った。
「珪己嬢ならいないよ」
「どこにいますか?」
「玄徳殿が言うには、後宮で調べたいことがあって嬢の力をしばらく借りるとのことだったが」
「ではやはり楊珪己は後宮に入っているのですか?!」
突如気色ばんだ侑生に古亥が笑った。
「ははは、気になるか。今まで楊家のことを放っといたのは、袁仁威、お前だろうに」
ぐっと押し黙る仁威に古亥は続けた。
「お前と違って李侑生は、枢密院に勤め出してからは毎晩玄徳殿をここまで送り届け、週に一回は嬢の顔をのぞいているぞ」
「……では侑生と楊珪己が恋仲であるというのは本当なのですか?」
しわに囲まれた古亥の目が丸くなる。
「はあ? んなわけないだろう。李侑生は嬢の姿をのぞいていただけだ。あいつにだって嬢と顔を突き合わせる度胸なんてないさ。だから玄徳殿のお守をすることで自分を納得させていたんだろうが。そんなことも分からないのか、この馬鹿」
「……すみません」
「ところで、お前がここに来たってことは……何か問題があったのか?」
ぎらり、と仁威を見据えた古亥の瞳は、かつての将軍の鋭い牙がのぞくようであった。
反射的に仁威の体が震えた。
「いえ、まだ何も問題は起こっていません。侑生が楊珪己を後宮に連れ込んだと聞いて、それで驚いてしまっただけです。八年前のことがあるのに楊枢密使の娘御を利用するというのは、あいつのやることにしては腑に落ちないものがありましたので」
「……ふうむ。それならよいが」
気づけば古亥の体は、元の小さく丸い齢七十の爺のものに戻っていた。
「ま、確かにお前さんが驚くのも無理はないわな」
そうつぶやき、顎をさする。
と、古亥が厳しい顔を仁威に向けた。
「袁仁威。ここに来たからには、もうお前は部外者ではないぞ。もしも嬢に何かあったら今度こそは必ず助けとなれよ」
これに仁威が目を見開いた。けれど次の瞬間にはその表情を決意と覚悟を秘めた武官らしいものに変えた。
「はい。必ず護ります。もう二度とあのようなことは繰り返しません」
*
次に仁威が向かった先は李家の屋敷であった。侑生に会い、事の真相を確認する必要があった。李家に着く頃にはあたりはすっかり闇夜に包まれていて、弓のように細い月が雲に見え隠れするだけだった。
李家の家人に侑生を訪ねてきたことを告げると、その後ろから華やかな女人が姿を現した。清照だ。
「侑生は今夜は宿直をするそうよ。先ほど文が届いたわ」
二人の間に静寂が漂った。
八年ぶりの再会は、無表情な二人の間に複雑な濃度の空気を作り出した。
先にそれを打ち破ったのは――仁威だ。
「……分かった。急ぎなのでこれにて失礼する」
それだけを告げると踵を返し、屋敷を出て行く。だが馬に跨り鐙を蹴ろうとしたその時、先ほど仁威が出てきた李家の門から清照が駆けてきた。その形相は今、必死なものに変貌している。
「それだけ? 八年ぶりに会ったというのに、私に言うことは他にはないの?」
仁威が無言で鞍から滑り降りた。そして息も荒々しい清照の正面に立ち、見下ろした。
「……『今』、俺に言ってほしいのか?」
かあっと頬が赤く染まった清照に、仁威はかまわず続けた。
「俺は……俺はお前のことを愛していない。あのときはお前がいてくれたおかげで俺は救われた。けれどお前のことは愛していない。だからお前の気持ちに答えることはできない。本当はもっと早くにこのことを言うべきだった。あの時お前にしたことに対しては詫びないが、これを伝えるのに時間がかかってしまったことは……本当にすまないと思っている」
少しの間ののち、清照がふうっと低くため息をつき、顔を上げた。
「ようやく『答えて』くれたのね」
今日まで何度も贈り続けた愛の詩に対して。出口のない迷路に陥り、清照は詩を作ることでしか自分を保てなくなっていた。それもようやく終えることができる……。
「お前も『それ』を望んでいたのだろう?」
いつしか、愛ではなく答えをもらうことだけを清照は望むようになっていた。今日読んだ清照の詩にはその心境がよくつづられていた。だから仁威もようやくその心を清照に伝えることができたのだ。
つうっと、清照の目から涙が一筋こぼれた。しかし、少しほほ笑んでさえいるその表情は晴れやかなものになっている。
「……ええ、ありがとう。ようやくこの想いに区切りが打てるわ」
仁威が再び馬に乗ると、清照は馬上の人に長い間の疑問であった決別のきっかけを問うた。
「仁。あなた、あの日何を決めたの……?」
八年前、最後に清照の元を訪れた仁威からは、巣立つ直前の雛鳥のような、儚さの中に決意を秘めた強さが見えた。だから清照は想い人を引き留めることができなかったのだ。
「ねえ、仁。あなたはあの日、何のために生きると決めたの……?」
仁威の目が一瞬迷うように動いた。しかしその双眸が清照に向けられたとき、そこには明確な決意が現れていた。
「俺はあの日、それを決めたからお前の元を離れた。けれど今日、初めてその決意が揺らぐことがあった。だが俺にはまだやるべきことがあるし、見たい世界もあることにあらためて気づいた。だから、俺はこれからもう一度自分が生きる意味を探す。ここで、この手で、自分の力で、何のために生きるのか、生きてもよいのかを知ろうと思う。……これで答えになっているか?」
清照は仁威を見つめた。憐れむような、愛おしむような目で。
「……仁。あなたは今も何かにとらわれているのね。もう十分苦しんだはずだというのに」
仁威はそれには答えることなく、馬を駆ると清照の元から離れていった。遠ざかる仁威の姿が小さくなり見えなくなっても、清照はその場に佇んでいた。
「私は何度でもあなたのために歌うのかもしれない。あなたがその過去とともに生きている限り、何度でも……」




