4.逡巡
その日、日が暮れる前にも関わらず、仁威は自宅へと戻っていた。
楊珪信の一件は仁威の心を乱していた。このような状態では仕事にもならず、さっさと武官の服を脱いでしまいたくなったのである。いつもは自分の士気を高めてくれるはずの官服が、今日はやけに重く感じた。
今、仁威は平服に着替え、自室で一人、暮れゆく空を窓から眺めている。
昼間、腕を掴んだ部下が振り返った瞬間、仁威はその部下の秘密と正体をはっきりと悟った。
『……女なのか?』
発しそうになったその声はなんとか飲み込んだ。それを伝えてしまっては、これほどの重大な秘密に抱えてきたこの見習い武官の気概を損なうことだけは直感的に分かったからだ。
けれど――。
零れ落ちそうなほどの涙をたたえたうるんだ瞳や、色づいた頬、手の平に感じた手首の細さは、至近距離で見て、感じてしまえば間違いなく女人のものであった。
初めて長剣を持って向き合った時、この相手から一瞬放たれた気の性質から、仁威は楊珪信のことを男だと思い込んでいた。いや、武官といえば男であることが不文律の今の世では、女であることを疑うことは難しいのだが……。
しかし今日、改めてさっと全身を一瞥し、なぜ今まで男だと思い込むことができたものだと自分の不能さを呪うくらい、この見習い武官は女人でしかなかった。
手を振り払い逃げ出したその背中の主は、止まることなく駆けていき、仁威はただ黙ってその遠ざかる背中を見つめることしかできなかった。
(……俺は自分の部下のことが分かっていなかったのだな)
そのような上官にはなるまいと思ってやってきたのに。
(部下の性別すら見抜けないで、この先隊長としてやっていけるのか……?)
あれ以来、仁威の胸にはいいようのない不安がずっと漂っている。
これまで自分がやってきたことに対して自信が持てなくなっている。
(侑生が文官となる道を選んだように、俺は武官として武の道を究め、隊長となってからは部下の育成に力を注ぐと決めたはずだったのに……)
ふと、片隅に置いた文箱が目に入った。今日、侑生から上官命令だと言って渡されたものだ。李清照のことを思い出してさらに胸が痛んだ。
(……俺は清照のことも傷つけたままだ)
八年前の楊武襲撃事変の後、夜も眠れない状態に陥った仁威を、清照は優しく抱きしめた。そんな清照に甘え、仁威は清照を幾度も抱いた。何度も、何度も。それ以外に吐き出すすべを持っていなかったのだ。体に巣くう様々な感情、例えば後悔、懺悔、逡巡といったものを――。
にもかかわらず、清照はその都度、仁威の頭をそっと抱え、優しくなで、その時仁威が欲する甘い言葉をささやいたのだった。
『私はいつでもあなたとともにいるわ――』
けれど、仁威にとっての清照とは、どん底に突き落とされたゆえにすがった一筋の蜘蛛の糸でしかなかった。だから、これからどうやって生きていくかを心に決めたときには……清照は不要の存在となってしまった。
(冷たい? そうだろうとも)
そのようなことは侑生に言われずとも分かっている。
けれど……気づいてしまえば、自分には決定的なほどに清照へ向ける心の熱が欠けていた。
対する清照は燃え盛る炎のように激しい愛を有していた。それが一途さからくるものなのか、彼女特有の愛なのかは分からない。分からないが、自分が清照に向けていたものは、心が定まれば霧のようになくなってしまっていたのだ。
心に何も有さないというのに清照に向き合い続けることのほうが誠実だとは思わない。
ただ……本当は。
怖かったのだ。
愛というものを感じていない自分に愛をささやくことのできる清照のことが。そして、またこうやって人を傷つけてしまう自分のことが……。
それからは、仁威は李家を訪れていない。
この頃では清照からの文も受け取らないようにしていた。
けれど今、仁威は久しぶりに清照の文を開いていた。そこには愛をささやく詩が幾編も記されていた。清照は仁威が李家を訪れなくなってから詩作に傾倒するようになっていた。そんな清照に仁威はある種の恐れ、自分の知らない世界への恐れを感じていた。報われない愛のために語り続ける清照の詩の世界を……。
と、仁威は清照の近況を伝える文のほうに、思わず目を見開いた。
そこにはこう記してあった。
『侑生にもとうとう恋人ができたみたい。楊珪己さんというの。実はこの文を仁に運んでくれた女官がその子なのよ。驚いた?』
――楊、珪己。
その名を認識した瞬間、仁威の脳裏に幾多の過去が浮かんでは消えた。
八年前のあの夜、そして朝。
その後、あの少女に対して重ねた罪。
そして今日見かけた女官。
薄い青の扇子を持っていた少女――。




