3.覚悟
後宮の自室に戻り最後の気力をもって女官の姿に戻った珪己だったが……寝台に突っ伏すやしばらく動けずにいた。
(自分の中に残っていた迷いがこの任務を駄目にするところだった……!)
仁威の視線は、明らかに自分が男ではないことを疑うものだった。いや、あの時仁威が示した驚きは、女であることを確信したからこそ生じたものだったとしか思えない。
(……だとしたら、自分がここにいられるのは今日が最後かもしれない)
仁威が自分のことを枢密院に報告して、それを侑生が隠し通せるとは限らない。女であることが合法である云々ではなく、騒ぎになれば極秘である任務が明るみになることが問題なのだ。その場合、自分の任務は終了、強制退城となるだろう。
(……であれば、今の自分ができることは勅旨に従うことだけだ)
菊花の役に立つためでもあるが、もしここで勅旨に逆らうような動きをすれば、今以上に捜査を阻害し、最悪、父や侑生にまで迷惑を及ぼす恐れがある。
やがて――。
夜が訪れ、明かりを灯さない部屋が闇一色に染まっても、珪己は動くことができなかった。
覚悟した。
覚悟するべきだ。
分かっている。
頭ではすべて分かっているのだが……。
心がついていかない。
今、指先一つでも動かしたら。
何も考えずに動くことができたなら。
『わたしはいったい何を選ぶ?』
もはや自分が強いか弱いかなどということは一切関係ない。
自分にできること、選べることは一つしかない。
(そうでしょ……?)
その時、扉の向こうから江春の声が静かに響いた。
「珪己殿、そろそろお支度をしましょう。お手伝いします」
女官長である江春は全てを把握しているのだ。
(ああ……こうやって逃れられない状況になってようやく)
珪己は腹にぐっと力を入れ、顔を上げた。
「……はい。お願いします」
珪己は後宮内の別室に連れて行かれた。そこで身を清め、丁寧に化粧を施され、豪奢な衣装に身を通していく。髪が複雑に結われ、簪や腕輪などの装飾品が飾り付けられると、鏡に映った自分は妙に大人びた知らない誰かのようだった。
全ての用意が整い、支度を手伝う者が下がると、江春と珪己は部屋に二人きりとなった。
と、江春がぽつりと言った。
「珪己殿はこれでよいのですか? 李副使はご存じなのですか……?」
「……いえ。知らせていません。でもいいんです」
薄くほほ笑んでみせた珪己だったが、その顔は幾分青白い。緊張と、不安と――様々な感情がないまぜになり、こうして座っているだけでも辛く苦しいのだ。
だが――これは自分で決めたことだ。
自分で決めたことには自分で責任を取らなくてはいけない。
(そういう自分になりたくて私は剣を握ってきたんじゃないの……?)
これまで武芸の稽古に励んできたのは、何も物珍しい習い事を体験してみたかったからではない。女の身で武芸を極めるべくまい進してきたのは、弱い自分に打ち勝つため、強い自分になるためだ。
強くなりたい。
その気持ちだけは誰にも負けない。
(ねえ。そうでしょう――?)
それでもいまだ惑いのある珪己の前、鏡の中に、ふいに八年前の自分がぼんやりと現れた。
幻の中の自分はおどおどとしてうつむいている。
ぎゅっと握りしめた両の拳は何もしなかった自分自身への怒りだ。
何もしなかったくせに一人前に悲しみに浸ることもできず、珪己はこれまで、涙を流すことを自らに禁じて生きてきた。
だけど――今の自分は違う。
やれることはある。
やるべきこともある。
(もう迷わない。私は強くなるんだ……!)
ただ一つ、決意だけを秘め、珪己は鏡の中の己を見つめ続けた。
そんな珪己の横顔を、江春がいたわしそうに見つめている。
「……私には皇帝陛下のお考えが分かりません。なぜ珪己殿を召されたのか。姫のお心を変えた珪己殿が物珍しいのでしょうか……」
「姫はこのことをご存知ではないですよね……?」
「もちろん知らせていませんとも。お父上が気に入りの女官にこのようなことをして、悲しまれないわけがありません!」
「でしたら、このまま言わないでおいてください。もし知られたら、『珪己はお父上と姫のことについてお話をしに行っただけだ』って、そうお伝えください。私はもとよりそのために参るのですから」
「珪己殿……。分かりました。そのようにします」
江春の瞳はいつのまにか濡れていた。




