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2.嘘をつかなくてもいい

 午後、珪己は武殿内の鍛練場を訪れた。昨日は菊花の眠り薬の一件があって稽古を無断で休んだ珪己だったが、稽古仲間である周定莉はそのことについて一切触れてこなかった。


 二人は黙々と稽古に励んだ。今では、珪己は定莉とほぼ同格に戦えるようになりつつある。だがその心は晴れなかった。


 何度目かの休憩中、定莉がややためらいながらもその口を開いた。


「今日の珪信さん、心ここにあらずという感じですね。どうしたんですか? もし僕に何かできることがあったら言ってくださいね」

「……定莉」

「ほら、僕達明日はいよいよ武挙を受けられることになったんですし、頑張らないと」


 武挙、と聞いて珪己の心は一層重くなった。武挙を受け自分の実力を試すことは大きな楽しみとなっていたからだ。


 今の自分がかりそめの武官であることは重々承知している。名前も性別も偽っているくらいなのだから。だが憧れの近衛軍に配属されるに足るかどうかを審査される、つまり自身の武芸の実力を近衛軍の武官に量ってもらえる絶好の機会が目前にあり、こうして体術を学ぶようにもなり……。武芸者としての珪己自身はこれまでの幸運に歓喜していた。そのことにあらためて気がついたのである。


 けれど、今夜は東宮へ行かねばならない。


 そこで皇帝に気に入られてしまえば、女官と武官の二束のわらじをはくことは許されなくなるだろう。武官としての自分は今日で終わり、明日からは女官として生きるしかなくなる……それは武芸との別れをも意味していた。


 八年前の事変の後、見知らぬ人に感化されて思わず道場の門を叩き、ここまで強くなるために稽古を積んできたが……。もしかしたら、自分は武芸によって生かされていたのかもしれない。そう珪己は思った。


 稽古に励んでいる時、辛いことは何もなかった。

 そこにあったのは、面白さだとか楽しさだとか、いい思い出だけだ――。


 結局、珪己は定莉の心配に何も答えられずその日の稽古を終えた。

 それは珪己の生涯で武芸との関わりが終焉するかもしれないことをも意味していた。



 *



 一人、鍛練場を後にしようとしたその時、珪己に近づく武官がいた。

 第一隊隊長・袁仁威だ。


 仁威の気配に、珪己はようやく今日ここに来た最大の理由を思い出した。本当はもう武芸に未練を残したくもなく、夜まで自室にこもっていたいくらいだったのだが、このために重い腰をあげて鍛練場まで来たのだ。だが武芸との別離を意識した稽古は苦痛すら伴い、いつのまにか失念していた。


 珪己は手に持った袋から一冊の書物を取り出してみせた。


 仁威は目の隅でその書物をちらりと見た。

 だが受け取ることなく、ただ一言『ついて来い』と告げるや、背を向けて歩き出した。

 有無を言わせない雰囲気に、珪己はその書物を持って追いかけるしかなかった。

 仁威の足は速く、その背中からは怒りすら感じられた。


 仁威が入ったのは、武殿の隅、仁威が隊長としてあてがわれている部屋であるが、珪己はそのことを知らない。扉が閉まると、二人しかいないその部屋には重苦しい空気が漂った。


 珪己は目を伏せ、あらためて無言で書物を取り出した。それは以前、仁威から借りた体術の武芸書である。だが仁威は今度は書物には目もくれず、ただ腕を組んでじっと珪己を見下ろしてきた。体躯の大きな仁威に憤怒をもって見下ろされるのは拷問に近い。そう、仁威は明らかに憤っていた。だが珪己はこれに耐えるしかないと思った。今日の稽古での自分は散々だったから、それについて叱咤されても当然だと思ったのである。


 しばらく無言の状態が続いたが、深く長いため息の後、ようやく仁威が口を開いた。


「お前は俺に嘘をつかなくてもいい」


 思いがけない言葉に珪己が頭を上げると、仁威と目が合った。

 胸がどきりと鳴った。

 仁威の目は困ったような、けれど真摯な澄んだ光を宿していた。


「お前は本当は武の道に進みたいのではないのか? 何がお前の道を遮っている? 今日のお前の業からは迷いしか見えなかった。……本当は続けたいのにあきらめなくてはいけない戸惑いすら感じた」


 見抜かれていた、と思うと、珪己は顔が赤くなるのを隠せなかった。

 それを見て仁威が柔らかくほほ笑んだ。

 仁威は珪己の手から書物を抜き取ると、そのまま、その書物を珪己の頭にぽん、と載せた。


「いいか、お前は俺の部下だ。俺は悩んでいる部下を捨て置いたりはしない。話せ。俺は俺のできる限りをしてお前のことを助ける。お前の望みを言ってみろ」


 珪己は自分の瞳にゆっくりと涙が盛り上がるのを感じた。


 まだここに来て数日だというのに、この人は自分のことを部下としてよく見てくれている。仁威の声音は彼の瞳と同じ色をもっていた。それはひどく透明で、言葉に嘘偽りのない真実そのものの色だ。


 心がふるえた。


 定まったはずの心が、揺れる。

 

(話したい……)

(この乱れた心を、今この人にさらけだせたら……)


 けれど、男としてふるまう今の状況からしても、自分を本当に迷わせている勅旨のことでも、何もかも……この上司に話せることなど何もなかった。


(……ああ、だめだ!)


 こんな時だというのに、過去の自分が顔をもたげてくる。


 八年前、何もできなかった自分。

 母や家人らの動かぬ体を前に、茫然と立ち尽くしていただけの自分。

 そういう自分を変えたくて、そのために剣を握ってきたはずなのに……。


 稽古を始めた当初、手の平は豆ができてはつぶれ、いつもじんじんと熱を持っていた。次第に固くなり痛みがなくなっても、今度はそれと引き換えに女らしからぬ手だと揶揄されるようになった。裸足で固い板床を歩き回るせいで、足裏もいつの間にか石のようにかちこちになってしまった。


 加減を知らない兄弟子に散々に打ちのめされて体中青あざができたこともあるし、顔面を打たれて鼻血を出したこともしょっちゅうだ。


 女のくせに武芸かよ、と、表で裏で、嘲笑する声は昔も今も絶えない。

 それでも、今まで一度も武芸から逃げようと思ったことはなかった。

 武芸から逃げるということは、自分を強くする唯一の道から逃げるということだからだ。


 痛くても泣いたことはない。

 辛いと思ったこともない。

 一日一日、強くなっている自覚があったからだ。

 稽古を続けることで目指す自分に近づいていると実感していたからだ。


 だが――。


『まだ目指す頂には到達していない』


 己を直視し、理解してしまい、珪己は死ぬほど恥ずかしくなった。

 菊花を、一国の姫を救えるなどと思いあがっていた自分のことが――。


(私はそこまで強い人間ではなかったんだ……!)


 とっさに背を向けて逃げようとしたその時、手首を仁威に捕まれた。

 その手の強さと熱さに、珪己は思わず振り返ってしまった。


「……お前」


 振り返った珪己を見た瞬間、仁威の顔にはっきりとした驚きの表情が浮かんだ。


 刺さるような視線に、珪己は渾身の力を込めて腕を掴む手を振りほどいた。


 そして再度背を向けるや、今度こそは振り返ることなく部屋を飛び出し、全速力で上司の元から逃げだしたのであった。

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