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1.大事なもの

 その後のことを珪己はきちんと覚えていない。


 いつの間にか黒衣の青年は姿を消していた。だが珪己の手には勅旨の文がしっかりと残されていた。自室に戻り読めば、そこには確かに今夜東宮に参るようにとの厳命が記されていた。


 後宮にいる全ての女官が皇族に見初められる可能性があることは珪己にも分かっていた。市井の民でも知っている常識だ。だが、現皇帝は胡淑妃の懐妊後からかれこれ八年もの長い間、後宮に渡ることがなかった。それゆえ絶対に起こりえないことだと過信していたのだ。


 それは珪己だけではなく、父や侑生も同じはずだ。でなければ、珪己を後宮の女官に据えようとするはずがない。父は任務に忠実であるが、蛇のいる藪の中に娘を放り込むくらいなら代案を用意するはずだからだ。そのくらいのことは娘である珪己には分かる。


 しかし、考えるまでもなく、このことも珪己には分かっていた。


『この勅旨を断ることは絶対にできない』


 また、こうも思っていた。皇帝は菊花の文を読んだからこそ、それを持参した自分に興味を持ったのではないか、と。でなければ、顔も知らない新人女官の珪己を東宮に召すはずがない。


 そして、珪己は昨日菊花とかわした約束を覚えている。

 菊花のために自分はなんでもする、と言ったその約束を――。


 ふと、先ほどの黒衣の青年の言葉が思い出された。


『僕はそうは思わないな』


 あれはあの青年なりの優しさだったのかもしれない、と珪己は思った。


 恋や操よりも大事なものは何かと問われると、その真相をいまだ知らない珪己には手に余る難題となる。


 だが命よりも大事なものは何かと問われれば、それには即座に答えられる。

 破ってはいけない約束を果たすこと。

 それしかない。


 決意を秘め菊花の部屋に赴くと、そこでは部屋中の女官を集めて賑やかに虫の鑑賞会が開かれていた。珪己に気づくと菊花は満面の笑みを向けてきた。


「おお、珪己か。見よ、今日はこんなにたくさんの虫が採れたぞ」


 両手を広げて自慢げに採取した虫を見せてくる。

 珪己はそんな菊花を心から愛しく思い、とびきりの笑顔を見せた。


「まあ、姫様。こんなにたくさん!」

「うむ。皆が協力してくれてな」


 女官達が照れくさそうに、けれど自慢げにほほ笑んでいる。

 珪己はつとめて明るく言ってみせた。


「姫様、こちらも朗報です。東宮へお文を届けましたところ、侍従の方が、しかと陛下に届けてくださるとおっしゃってくださいました」

「おおそうか! それはよかった!」


 菊花の顔がよりいっそう明るく輝いた。


「これですぐにうまくいくとは限らぬが、まずは一歩進んだな。のう、珪己」

「はい、姫様」

「あとで母上のところに行って文のことをお伝えしてこなくては。そうだ! また今夜、父上に文を書こうかのう。珪己もつきあってくれるか?」


 無邪気で健気な菊花に、珪己はぐっとくるものがあった。が、こらえ、笑顔を維持した。


「それが姫様、今夜は私は一度自宅に戻りたく存じます。明日の朝には戻りますので、申し訳ありませんが……」

「ほお、そうか。よいよい、今夜は一人で書いてみる」


 少し寂しげな表情をした菊花の前に、一人の女官がぐいっと進み出た。


「姫様。でしたら私がお手伝いいたします」

「いえ、私が」


 我こそは、と、わいわいと騒ぎ立てる女達に、菊花は少し目を丸くし、それから、からからと笑った。


「よし。それでは今夜は皆に手伝ってもらおうか」

「はい、がんばります!」


 一同、揃って答えたものだから、菊花が声を上げて笑った。


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