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8.黒衣の青年

 その頃、珪己はすでに玉門をくぐり、華殿の内の池にかかる石橋を歩いていた。煌めく太陽の光は大鏡のごとき池の水面で照り返され、春にしてはまぶしいほどの明るさである。しかし珪己の心中は穏やかではなく、背中を伝わる冷や汗で寒気すら感じていた。


(さっきは危なかった……)


 探るような視線を感じてとっさに扇子で顔を隠したが、その珪己の動作の確かさに、仁威が疑うような仕草をみせていた。ちょうど廊下の曲がり角についたところだったので、姿を消すことで事なきを得たが……。武に通じていないふりというのはひどく難しいことだと痛感する。


 と、石橋の曲線のちょうど中央部分まで来て、珪己は、後宮の近くに佇む見知らぬ青年の姿に気がついた。侑生や仁威よりもやや年が上の、しかし文官や武官のための衣装を身に着けていないその青年は、すでに珪己の存在を認めているようである。


 後宮の入口に近づくにつれ、その青年との距離が縮まっていく。


 先程の反省――武芸者であることを悟られないよう、間合いをとらず、目を伏して静かに青年のすぐそばを通り過ぎようとして――。


 すれ違うその瞬間、青年の方から珪己に声をかけてきた。


「やあ。君が菊花姫付の珪己殿かな?」


 珪己は足を止めて青年に振り向いた。


 至近距離で正面からとらえた青年は、一言でいえば妖艶な人物だった。街中に幾多ある妓楼付近で見かける、女郎や男郎がもつ雰囲気と同質のものを漂わせている。


 例えば李侑生がその美貌で官吏らしからぬ印象を与えつつも本質は上級官吏に足る人物であるのに対し、この青年のそれは、その研ぎ澄まされた容姿、雰囲気、何もかもが唯人では持ち合わせない種類のものだった。その衣も黒一色ながら、近くで見れば最高級の絹で織られた上物であることが一目で分かり、珪己の推測を裏付けるかのようだ。


 珪己は腰帯に差していた扇子を広げて顔を隠した。


「ええ。私が珪己ですが何用でしょうか?」


 珪己の固い声音に、なぜか青年がくくっと笑った。

 それだけで青年のまとう妖しい気配が霧散した。


「君、そんなに警戒しなくてもいいんじゃない? 李副使の扇子まで取り出してさ。僕は別に君を取って食べようというわけじゃないよ」


 思わず扇子を降ろした珪己の頬が赤く染まっていることを見てとると、青年が面白そうにほほ笑んだ。


「おや、図星だったかな? 変な男には扇子を見せればいいとでも言われていたのかな」

「あなた、自分が変な人だってことは分かっているのね」


 珪己も思わずくだけた口調で答えていた。

 それに青年はいよいよもって愉快そうになった。


「僕、今まで変だなんて言われたことはないんだけどな」

「じゃあ私が言ってあげるわ。あなた、変だわ。何よその恰好」

「えー、これ気に入っているのになあ」


 青年のしなやかな指がつややかに光る黒絹の衣装をなでた。

 そんな仕草一つにも今の珪己は不快さを感じる。


「変よ。昼間っから変な雰囲気漂わせているのも変。あなた、いつもそうやって女の子をひっかけているんでしょ」

「うん。ひっかけてはいるね」


 華殿の外で見かけた多数の男官吏の色めいた仕草が思い出されて、珪己の背中にぞっと寒気が走った。それでつい、この一種独特な青年につっかかってしまった。


「そういうのやめたほうがいいんじゃない? 女とみたらおかまいなしって感じで最低だわ」

「女性はみんな素敵だから、惹きつけられるのも仕方ないことさ」

「だーかーら! それがだめだって言ってるのよ。そういうことは本当に好きになった相手とだけにしなさいよ。少なくとも私はあなたみたいな人はお断わりよ」

「それでそんなふうに固くなっているの?」

「……それが悪い?」

「君って、普通だね」


 つまらなさそうな声音に、珪己はかちんときた。


「普通で何が悪いのよ」

「だってさあ、君の言うことって、あれだろ。好きな子を一人に決めて、その子しか抱いたらいけないっていうことだろ?」

「ちょ……、こんな明るい時分から何言ってるのよ!」


 周囲を見る限り、声も届かないほど遠くに数人の武官がいるだけではあったが慌てた。


 だが青年はかまうことなく続ける。


「僕は昼でも夜でも、抱きたいときに、抱きたいと思った女性を抱くけどね」

「そういうのを節操がないっていうのよ!」


 本気で頭にきている珪己を、まあまあ、と青年がなだめた。


「でもさ、人の気持ちって永遠のものじゃないよね? それに、抱きたい抱かれたいと思う気持ちは好きでなくたって感じるものでしょ。なのにどうして一人に決めようとするのかな。好きな人としかしないって決めてしまうのはなぜなんだい?」

「……そんなの私には分からないわよ。恋したこともないし」


 思わず、本音が出た。

 侑生の恋人としてふるまっていることなどすっかり頭から抜け落ちている。


 青年はその矛盾をつくことなく、純粋に珪己の発言を面白がっている。


「え? 君って恋したことないの? てことは、恋しないと抱かれたくないっていう君はまだ抱かれたこともないんだね。うわー……」


 青年が珪己を見る目つきは珍獣を見るようだ。


「うるさいわね。文句ある?」


 じろりとにらむ珪己を、青年が心配そうに覗き込んだ。


「なんだか君、相当たまっていない? なんだったら僕が相手してあげようか。初めては好きな人じゃないと嫌だなんて言ってると、君の場合、一生誰にも抱かれることはないよ。しょうがないから助けてあげてもいいよ。ああ、僕って優しいなあ」

「……うるさーい!!」


 珪己の怒鳴り声は、華殿全体に響き渡る勢いだった――はずだ。


 しかし――青年の手に口を塞がれ、珪己は結局一言も発することができなかった。

 いつの間にか腰にもう一方の手が回され、二人の上半身は拳一つも空いていないほどに近づいている。


「……大声を出したらだめだよ。注目されて困るのは君のほうだ」


 先ほどまでの軽薄な雰囲気はすっかり鳴りをひそめている。その双眸は、笑っているにも関わらず獣のように鋭く珪己を見おろしている。珪己の喉がごくり、と鳴った。


 珪己がおとなしくなったことを確認し、青年は静かに手を離した。

 その瞬間、珪己は本能的にすり足で数歩下がった。


 青年が薄く笑った。


「そんなに警戒しなくてもいいのに。そんなに操が大事なのかい?」

「……それが普通です!」

「僕はそうは思わないな。例えばほら。これとか、どうする?」


 青年は懐に手を入れると、一束の料紙を取り出し珪己に示した。折りたたまれた紙の上には朱色の刻印が押されている。皇帝からの勅旨であることを示すその印を、珪己はこの時初めて目の当たりにした。李家滞在時に侑生から話には聞いていたが……。


 声にならない珪己に青年は重ねた。


「君は今夜、皇帝のしとねに呼ばれたんだよ」

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