6.愛をささやく
――そう言って去っていった玄徳のことを思い出し、侑生は最後にまとめあげた書類を束の最上段に置きながら、ふうっとため息をついた。
玄徳の言うことは、分かるようで分からない。
なぞかけや問答のようだ。
はっきりしていることは、今の自分は玄徳の重荷になるということだけだった。
(だが今の私を創ったのは玄徳様だ。創造主を神と呼ぶのであれば、やはり玄徳様は私の神なのだ。玄徳様なしでは生きることができないという点でも……これは否定できない)
(……いや、否定したくない。玄徳様以外にこの身を捧げられるものなどないし、この大罪を背負って生きる以外の道を私は知らない)
この罪を雪ぐ手段は、枢密副使として玄徳に尽くすこの道だけ。そう侑生は思いつめていた。
玄徳の提示した恋というものにも、この罪を打ち消すほどの力など――あるわけがない。
(自分を大切にしろ、幸福になれ、そう玄徳様は言っていたが……)
それにも侑生は首肯することはできない。自分にはそれを望む権利も価値もないと思っているからだ。……罪を背負いし身で、どうしてそのような絵空事を語ることができようか。
扉の向こうから二人の足音が近づいてくるのが聞こえた。先ほど来客の旨を伝えにきた武官とあの少女だろう。にやついた表情を浮かべた武官の手前、少女に何かしらの愛情表現を示さなくてはいけない……。
すると昨日の玄徳の指摘が思い出される。
『もう嘘の恋はやめなさい』
扉が叩かれた。
もう考えを精査する余地などない。
(……こういう時、惚れた女官が部屋まで来たのだから)
侑生は扉を自ら開けると、一瞬で作り上げた満面の笑みで珪己を迎えた。
「これはわが愛しの君、私に会いにきてくださったのですね!」
大げさすぎた、と悟ったのは、珪己の目が丸く見開かれたからだ。
すると、珪己はおもむろに扇子を広げてその顔を半分隠した。唯一見える両の目が媚びるように上目使いに侑生をのぞきこんでくる。
「侑生様、お久しぶりでございます。どうしてもお会いしたくてたまらなくなって……ここまで押しかけてきてしまいました」
予想外の反応に驚き次の台詞が出てこない侑生に、見かねたのだろう、珪己の方からもうひと押ししてきた。
「まああ、そんなに喜んでいただけただなんて、珪己、うれしくて泣いちゃいそう! ささ、早く二人きりになりましょう?」
ここでようやく合点のいった侑生は、にっこりと笑ってみせるや慣れた手つきで珪己の腰に手を回した。
「ああ、こうして明るいうちから二人きりになれるというのも素敵だね。おい君、このことは他言無用に願うよ」
そばに控え一部始終をつぶさに見ていた武官に声をかけると、侑生はそのまま珪己を連れて自室に入り扉を閉めた。
武官の気配が消えるのを待ち、やがて二人は顔を見合わせると、たまらずくくっと笑った。
「珪己殿は宿題の答えが分かったようですね。先ほどはお上手でしたよ」
「あの武官の顔、見ました? 私たちに当てられてちょっと挙動不審になってましたよね」
「彼はこのことを黙っているような者ではないでしょうから、間もなく私たちの関係は宮城において不動のものとなるでしょう。これで珪己殿は安心して後宮で暮らせるはずです」
「はい、ありがとうございます」
無邪気な珪己の笑顔に、侑生は少し胸が痛んだ。またも昨日の玄徳の言葉が思い出され、すると一つの事実にはっきりと気づいた。
「珪己殿」
あらたまった侑生の態度に、珪己が不思議そうな顔をした。
これに侑生は勇気を出して続けた。
「今回の私のしたこと、申し訳ありませんでした。まだお若い珪己殿にこのような噂をたててしまって、ひどく嫌な気持ちになりましたよね」
侑生の心からの謝罪に、しかし珪己は両腕を腰に当ててみせた。その顔には怒りすら浮かんでいる。
「そうですよ、乙女の心を弄ぶだなんてひどすぎます! 私はまだ恋もしたことがないのに! それに後宮では侑生様を慕う女官の方々に責められて大変なんですからね!」
「……面目ありません」
「侑生様がああいったことをいつもしているのだろうということも、もう十分察しがついています。さぞや多くの女性の心を傷つけてきたことでしょうね」
「……はい」
落ち込んでいく侑生に、でも、と珪己は続けた。
そこにはもう怒りの感情は見当たらない。
「でも侑生様は私を護ろうとしてくださっていたんですよね……?」
「それはもちろん! ほかならぬ玄徳様の娘御のため、そう思って……!」
「ならいいです。後宮で暮らしている間だけは、侑生様の恋人ということでかまいません。というか、私なんかのために侑生様にご迷惑をかけてしまって。私のほうこそすみません」
あっけらかんと笑う珪己に、侑生はといえば、無性に救われた思いでいた。
先日の武殿の裏でのこともそうだ。
この少女には幾度も救われている。
本来は救うべきは己のほうであるというのに……。
侑生の顔がやや陰った。
だがそのわずかな変化に珪己が気づくことはなかった。
「それにしても、清照さんが言っていたことは本当だったんですね」
「というと?」
「あれですよ、女官というだけで女性としての箔がつくというやつです。ここに来るまでにいろんな男性にいやらしい目で見られたんですよ?」
心底嫌そうに珪己が眉をしかめた。
「最悪なのは戸部の官吏です。今夜後宮の庭園で逢引きしろ、なんて言うんですよ。……まあその時、この扇子で叩いてやろうと思って、それで侑生様のいう『宿題』の答えに気づけたわけですけど。この扇子を見ただけでその官吏の態度が反転したのはとても痛快でした」
「戸部? なぜそのようなところに?」
「ああ、それはこれです。今日はこのためにここに来たんです」
珪己は脇に抱えていた二つの文箱を、侑生の執務するための机に置いた。
「こちらは父にあてた文です。元気だよ、くらいのことしか書いてませんけど届けてもらってもいいでしょうか?」
「ええ。もちろん。他にも早馬で出したいものがあるのでまとめて出張先に送っておきます」
「で……こっちは清照さんから仁さんへの文なんですけど」
「姉上から?」
とうとう侑生の顔がはっきりと強張った。
だがそれにも珪己は気づかなかった。
それどころか自分の話にすっかり没頭している。
「そうです、清照さんにお文を直接渡すように頼まれていたんです。侑生様がちっとも持っていってくれないからって、私が代わりに。でも戸部には仁という名の官吏はいませんでした。仁さんはお金を数えている方なのですよね?」
「……仁は今、別の部に配属されているのですよ」
「どこの部か教えてもらえますか?」
「いいえ、これは私が仁に渡しておきます。ご安心ください」
「そうですか? それではよろしくお願いします。清照さんとのお約束ですからちゃんと届けてくださいね」
「……で、その約束と引き換えにあの武官の服を調達してもらったというわけですね?」
「あ……」
二人の立場が逆転していることに、にぶい珪己もようやく気がついた。
侑生の醸し出す雰囲気が冷気を帯びている。
「次からはそういうことは私に頼んでください。そして私には二度と嘘をつかないこと。『約束』できますね?」
「……は、はい。約束します」
侑生の満面の笑みには明らかに苛立ちが含まれており、珪己は戦々恐々としながらもおとなしくうなずいてみせたのだった。




