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4.文の配達

 あくる朝、珪己はさっそく菊花の文を入れた箱を抱えて東宮――皇帝の住まい――に向かった。


『わらわの気持ちは珪己に届けてほしい。頼んだぞ』


 そう告げると、菊花は部屋付の女官全てを引き連れて、庭園に新しい虫を採集しにでかけてしまった。なお、菊花に遊びに誘われたのは初めてのことのようで、女達はみなうれしそうであった。もう虫が怖いなどという者はいない。


 穏やかな春の日差しを浴びつつ、後宮から東宮にかかる石橋を珪己は渡っていく。その心には緊張感よりも充実感のほうが占められていて、この日の心地よい陽気がそれをさらに助長させていた。自然と足取りも軽くなる。


 向かう東宮の入口には受付を担っているのであろう、一人の侍従が佇んでいた。東宮で働く者はみな男であるという話を珪己は思いだした。


 後宮から女官がやってくるのは珍しいと見え、その侍従はいぶかしげな表情をしている。


 珪己は自然と姿勢を正した。


「菊花姫の部屋付の女官、珪己と申します」

「何用か?」

「ここに姫から皇帝陛下へのお文を持参しました」

「菊花姫からのお文か?」


 侍従の目に驚きが浮かんだ。


「はい。姫様が陛下にお伝えしたいことがここに全て書いてあります。昨夜、遅くまで一生懸命書いておられました。父を乞う娘の気持ちは姫様とて同じです。お受け取りいただき、ぜひ陛下へお渡しくださいますよう、よろしくお願いいたします」


 珪己の真剣な表情に、侍従のまなざしも変わった。

 珪己の差し出す文箱を丁寧に、だがしっかりとその侍従は受け取った。


「あい分かった。必ず陛下にお渡ししよう」



 *



 重要な役目を果たしほっとするのもつかの間、珪己の足は玉門の先、昇龍殿へと向かっている。


 菊花は昼餉まで庭園で遊び倒すつもりだと言っていたため、姫への報告は急ぎではない。


 珪己の手にはまだ二つの文箱がある。


 一つは父・玄徳にあてた文であり、菊花に感化されてしたためたものだ。仕事は順調だから大丈夫です、とそれだけを記している。隠密任務の半ばである現状から、珪己には他に書けることがなかった。それでも今、なんとなく父と――唯一の血縁と繋がりたくなったのだ。


 そういう自分はいつもよりも心が弱っているのかもしれない、と珪己は思う。この宮城で体験する様々な出来事は、過去や今の自分を容赦なく揺さぶってくるからだ。それには良いこともあるが……難しいことも多々あり、整理しきれず翻弄されている自覚も十分にあった。


 もう一つの文は李侑生の姉・清照から預かったものだ。清照に武官の服を用意してもらった際、引換に依頼されたことが、この文を愛しの仁様へ届けることであった。


『知らない女官が持ってきた文なら、警戒せずに読んでくれるかもしれないから』


 そう清照が寂しげに笑った姿を思い出す。しつこくしすぎて嫌われたのかも、と心配なのだそうだが、それでも自分の気持ちを相手に伝えたいという願いを捨てられないようであった。


 菊花といい、清照といい。それだけの強い想いを持てる相手がいることを、珪己はなぜか少しうらやましく感じた。父に対するこの穏やかで安堵する気持ちとは異なる、激しく必死な想いを――。



 *



 昇龍殿に入り、珪己はまず中書省、戸部こぶの執務場所を探した。清照の想い人、仁は銭を数える人だという。であれば、財政を担当する戸部の文官であるはずだ。廊下ですれ違う文官に道をたずね、珪己はようやく戸部にたどり着くことができた。


 さて、これからどうしたものか、と扉の前で少し思案していると、その扉が向こう側から勝手に開いた。慌てて退くと、続いて比較的年若い青年が忙し気に姿を現した。文官の袍衣に身を包んだ青年の腰ひもに緑玉の飾りがつやめいて光っている。戸部の官吏であることを示す玉だ。


 珪己はほっとした。着衣の色も緑、これは最下位の九位から七位までが身に着ける色である。声をかけるのに最適な人物とみた。


 対する青年は、突然目の前に現れた女官に驚きを隠せない様子だ。お使いなどのために華殿の内壁から外に現れる女官はしばしば見るが、政治の中枢であるここ昇龍殿を訪れた女官を、官吏となって年の浅い青年はついぞ見たことがなかったのだ。


 青年官吏の顔がぱあっと輝いた。


 後宮勤めの女官は全ての男にとって高嶺の花、天女のような憧れの存在であることを珪己は知らない。


「すみません。こちらに仁さんという方はいらっしゃいますか?」


 女官に声を掛けられるのも初めてのことで、答える青年官吏の声がうわずった。


「仁、ですか? 姓はなんという?」

「それがその、知らなくて……。戸部で勤められている方だと聞いているのですが。お文をお渡しするよう言付かっているのです」

「そうですか。……うーん、でも、戸部には仁という官吏はいないなあ」


 いつの間にか、青年の口調がなれなれしくなっている。


「え、本当ですか? 中書省で一日中お金を数えている人だって聞いたのですが」


 その無邪気な物言いは知性でもって任をなす文官にはないもので、たまらずといった感じで青年がくくっと笑った。


「何それ。俺達って一日中銭を相手にしているように見える?」

「い、いえ。そういうわけではないのですが」


 慌てる珪己に青年が目を細める。そして一歩近づいた。無遠慮に間合いを詰めてくる青年に珪己は後ずさりしたが、気がつけば背中が廊下の壁に当たっていた。


 追い詰められた珪己の耳のそば、青年の手が壁に添えられ逃げ場を失う。女官姿では覚えたての体術を使うわけにもいかず、珪己は狩人に狙われた兎のように縮こまるしかなかった。


「ねえ、本当に悪いと思ってる?」

「は、はい。申し訳ありませんでした」

「じゃあさ、今晩つきあってよ」

「……は?」


 いぶかり顔を上げた珪己の目と鼻の先に、興奮する青年の顔があった。


「今晩後宮に行っていい? 女官の手引きがあれば後宮で逢引きができるんだろ? 俺一度やってみたかったんだよね」


 ぎらぎらと輝く青年の目に、生まれて初めて、珪己はこの手の恐怖を感じた。思わず胸元に手を当てる。その仕草を恋に怯えた女の初々しさと捉えたのか、興奮する青年の顔がさらに近づいてきた。


「ね、いいだろ。君の名前教えてよ。そしたら、その仁って奴のこと調べてあげるからさあ」


 胸元に当てていた珪己の手に扇子が触れた。

 本能的に扇子を腰帯から引出す。

 ただの扇子とはいえ、狙いを定めて攻撃すれば相当痛いはずだ。


 と、それまでにやついていた青年がその薄い青の扇子に気がついた。


「……それって」


 青年があわてて珪己から体を離した。

 やや紅潮していた顔が今は白くなっている。


「君、もしかしてあの李副使りふくしのうわさの恋人?!」


 一瞬の間の後、珪己はこの扇子の意味を理解した。


 色恋が関係するような言動をなぜ侑生がしてきたのか。

 また、なぜその噂が広まることを黙認しているのか。

 その全てを――。


 珪己はおもむろに扇子を開いてみせた。

 漂う白檀の香りが珪己に力を与えた。


「ええ、これは李副使からいただいたものです。私が後宮に勤める間、私を護るようにとくださったもの」


『この扇子を持つ女官に手を出したらゆるさない――』


 やり手と噂の枢密副使すうみつふくしの声がどこからか聞こえたような気がして、青年の顔がとうとう真っ青になった。


「……す、すみません! ゆるしてくださーい!」


 そう叫び、今しがた出てきた扉に脱兎のごとく戻っていった。

 ばたん、と大きな音を響かせ、扉が閉められた。


 残された珪己はといえば、この場をやり過ごせた安堵で一つ大きくため息をついた。



 *



 扇子でばたばたと顔を仰ぎながら、武殿の中を、枢密院すうみついんに向かって歩いていく。道すがら、珪己の女官姿におおっと色めき立つ男性官吏が幾人かいたが、手に持つ扇子に気づくや、どの男も目を背けて去っていった。興味本位な視線すら瞬殺してしまう、まさに最強の扇子である。


(これは魔除け、いえ虫よけの扇子だったのね)


 破魔の剣でも手に入れたような、なんとなく爽快な心持ちで、珪己は武殿の上階に位置する枢密院の執務場所へと立ち入った。


 扉の前に立つ武官に、枢密使すうみつしである玄徳への文を持参したことを告げる。するとその武官いわく、玄徳は今朝早くから地方に出ていて不在とのことだった。自宅に住む常であれば出張云々も必ず知り得ている情報なのだが、今は後宮に寝泊まりしているし、気軽に文を配達してもらえる状況でもないので仕方がない。


 ところが。


 そうですか、と悲しそうにつぶやき扇子で顔を覆うと、その武官はすぐさま納得した顔になった。


「ああ、李副使であれば在室しているぞ。よし、会わせてやろう」


 勝手な気転をきかせて扉の向こうへと消えていく。そしてほとんど待つこともなく再度扉は開き、現れた武官は得意げに親指を立ててみせた。


「李副使はちょうど執務に一区切りがついたところであった。部屋に入ってもよいそうだ。ゆっくりしていきなさい」


 武官は下卑た笑いを浮かべていた。

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