3.策を立てる
菊花が目覚めたのは、夜のとばりが降り、三日月が空にかかるころだった。目覚めるなり「腹が減った」と第一声から夕餉を所望した。
自室にて控えていた珪己が連絡を受けて菊花の部屋に赴いたとき、当の姫は寝台でおかゆをすすっていた。菊花は珪己の顔を見ると照れくさそうな表情を見せた。
「おお、よう来たな」
「姫様、お元気になられたようでなりよりです。どこか痛いところなどありませんか?」
「ないない。よう寝たからの、すっかり元気になったわ。それに、ほら」
菊花がさじで指した先には虫籠があった。
「あれもあるしな」
そばにはべる女官達も主同様に照れくさそうな表情になっている。
菊花はさじを椀に入れると、残りのおかゆを一気にすすった。そして空になった椀を置くと、珪己に向かってにいっと笑ってみせた。
「それではさっそく始めようか」
「……はい?」
「昼間に話したであろう。あれだ」
そう言いながら、菊花は手を払う。その仕草で部屋にいた女官全てが部屋から退くのを待ち、あらためて告げた。
「母上のもとに父上が来るようにするにはどうすればいいのか、共に考えようではないか」
菊花を見ると、その目は爛々と輝き、頬は赤く興奮気味になっている。まさに生きるものの顔だ、と珪己は思った。すると、すとんと覚悟が決まった。
「はい。それでははじめましょうか」
「おお!」
珪己は寝台の隣の椅子に座った。
「姫様は、お父上に後宮に来ていただきたいのですよね」
「そうだ。母上に会っていただきたいのだ。もちろん、わらわもお会いしたい」
菊花の話によると、妃やその子供は後宮の外に出ることが基本的には許されていないという。
彼らが皇帝に会う方法は三つしかない。皇帝が後宮をたずねてくるのを待つか、皇帝自身の住まう東宮に呼ばれるか、もしくは外遊などで共に外出する機会を得るか、である。
だが、菊花の父である現皇帝は、菊花が知る限り一度も後宮に来たことがないそうだ。菊花が誕生して以来、皇帝のお渡りが一度もないことを、女官達が噂しているのを聞いたこともあるそうだ。菊花の母、胡淑妃も姫を産み落とした直後からずっと寝たきりであるため、東宮に呼ばれることも外遊に誘われることも、これまでなかったはずだ。
(……これはなかなかの難題だわ)
思わず眉をひそめると、菊花が不安げに珪己を見やった。その視線から菊花の心配が伝わり、珪己はにっこりと笑ってみせた。
「大丈夫ですよ、姫様。時間はかかるかもしれませんがゆっくりやっていきましょう。こういう場合はまず、なぜお父上が後宮においでにならないのか、その真相を知りたいですね。何かご存じですか?」
ふるふる、と菊花が首を振った。
「うーん、となると……姫様のお気持ちをお父上に伝えてみるのがいいのかもしれませんね……」
「……わらわの、気持ち?」
「そうです。……そうだ! お父上にお文を書きませんか?」
「ふ、文か?」
「ええ。読んでいただけるかどうか、正直私にも分かりません。けれど悪い方向に行くことはないと思うんです。何もしないで後悔するよりはいいんじゃないかって、そう思います」
「……それは珪己の経験だな?」
「はい、姫様。……どうでしょうか?」
うかがう珪己の視線をものともせず思慮深く膝の上の自分の手の甲を見つめていた菊花は、やがてその手で自身の膝を強く打ってみせた。
「うむ、分かった! 確かに、わらわはこれまで父上に自分の気持ちを伝えたことがない。いつも、父上はなぜ来ないのかと、そればかり思っていた。だが待っていては駄目なのだな。よし、もう待つのはやめじゃ。ではさっそくわらわに紙と筆を持てい!」
「それでこそ姫様です」
珪己はにっこりと笑った。
そして、気づけば菊花を羨望のまなざしで見つめていた。
自分も姫のように強く生きられるようになりたい、そう願いながら……。
菊花はその晩、夜遅くまで、顔も手も墨で黒く染めながら一通の文を書き上げた。生まれて初めて書いた父への文は長大で、折りたたんだ紙の厚みから菊花の熱い心が伝わるようであった。
*
「――そうか。姫は支障のない容態にまで回復したか」
開かれた窓から入ったそよ風に、灯明皿の上で炎が揺れ、じじ、と油の沁みた芯が鈍く鳴った。
控える女官は無言で叩頭することでそれを認めた。
薄く開けた窓からは月星は見えない。
雲に陰りその姿を隠している。
幾ばくかの間の後、上空を吹く強い風が雲をふるわせると、わずかに月が現れた。月光がこの部屋の主である彼女の顔を白く照らすと――。
彼女は笑っていた。
純粋な喜びとは無縁の表情で。美しいがゆえに恐ろしい相貌で。
彼女の内にひそむ凶暴な獣は待ち望んだ獲物を自分自身の牙で仕留めることを熱望している。




