2.独白
菊花は昼過ぎまで昏々と眠り続けた。
珪己は部屋付の女官全てに下がってもらい、たった一人、その小さな手を握りしめて菊花が起きるのを待ち続けた。説明しがたい感情をもてあまし、やり過ごしながら――。
ふと、菊花を見ると、その目がうっすらと開くところだった。まだ焦点の定まらないその両の目は、珪己を確認するとわずかにゆらいだ。
「……珪己。来てくれたのか」
「姫様、お体は大丈夫ですか。気分は悪くないですか?」
「うむ……まだ少し胸がむかむかとするが、大丈夫だ。慣れておる」
その言葉に珪己は胸がしめつけられた。
「……なぜですか?」
突如、強い口調で問うてきた珪己に、菊花が少し驚いた顔をした。
しかし珪己はかまわなかった。
本当はこんなふうに他人の心の奥底を覗くようなことはしたくない。
自分にもそっとしまっておきたい過去はあるからだ。
もう八年もたつというのに、思い出してしまうたびに心は痛むばかりだ。
痛い痛いと血を流し、深い罪悪感に苛まれている。
一歩前に進むことすら怖くなることがあるし、生きることそのものに恐怖することもたびたびある。
触れずにこのまま奥の方に沈めておければ――どれほど楽だろうか。
だが今、珪己の中に誰にとも分からない怒りが生まれていた。
だから問わずにはいられなかった。
「なぜなんです? なぜ、このようなことを……!」
菊花の青白い頬がぴくりと動いた。
それでも目をそらさず見つめ続けると、菊花は眉を下げてため息をついた。
「……母上のためだ」
「どういうことなのですか?」
「……わらわが生まれたから父上は後宮に来なくなった。だからわらわがいなくなればいいんだ」
「このくらいの眠り薬で、そう簡単に人は死んだりしません!」
「やはりそうか。……うすうす分かっておった」
突如、菊花が胸元の掛布を自分の顔まで上げた。布の陰から、菊花がすすり泣く声が伝わってくる。
――初めはおそるおそるだった。
やがて足りないと分かってからは頻度をあげて、菊花は自分を痛めつけてきた。
それでも死に至る程度の行為にまで踏み込むことはせず、できず……惰性のようにこのようなことを続けてきたのである。
今日だってそうだ。汁を全て飲み干せば望む結果は得られたのかもしれない。薬を大量に投与して濃度の高い汁を作ることだってできた。そうすればたった一口で『成功』していたかもしれない。足を滑らせたふりをして池に落ちてみてもよい。いつでもどこでも、死ぬための手段は限りなくある。
けれど、どうしても決定的な行動が打てないでいた――。
自分がいてはいけないのは分かっている。
自分がいても母は笑ってくれない。
自分がいなければ笑ってくれるようになるのかもしれない。
姫であるということ以外に、『自分自身』を望む人は誰もいないのだから。
でも――。
「……死ぬのは、やはり怖いのう」
「……姫様」
珪己は布団越しに菊花の頭のあたりをなでた。
「……姫様、大丈夫です。もう怒っておりませんから」
菊花の顔が少し掛布から出てきた。大きな瞳がすがるように珪己を見つめている。
「珪己に嫌われるのも怖い。……嫌わないでくれるか?」
「そのようなこと! 嫌うことなど断じてありません! 私には姫様のお気持ちが分かります。……私も姫様と同じくらいの年のころ、同じように死を考えたことがありますから」
「珪己もか?」
「ええ」
「……どうしてだ?」
「私の母が……殺されたことがきっかけです」
菊花の顔に驚愕が走った。珪己は「大丈夫」と優しく菊花の手を握った。
「母を助けることができなかったことを、私は長い間悔いていました。助けられたのに助けなかったことを、ずっとずっと悔いていました。それからは毎日、自宅の庭のほとりで茫然と立ち尽くしていました。この池に飛び込めば死ねるのかな、なんてことをよく想像していたんです。けれどある日、見知らぬ男の子がやってきて突然言うんですよ。『いつまでそうやっているんだ』って。そして、こうも言いました。『お前はこれからどうしたいんだ?』って。……私はこの闖入者に唖然としました。だって、私の周りには私を腫れもののように扱う人しかいなかったから。でもその男の子に言われて気づいたんです。自分の中にずっとくすぶっていた怒りのようなものに……」
「それで、どうしたのだ?」
いつの間にか、菊花は掛布から完全に顔を出し、食い入るように珪己を見つめている。
「それが、私は彼に何も言えなかったのです。何一つ言葉が出ませんでした。なぜでしょう……。私の中に生まれた感情のあまりの激しさに、その時の私は翻弄されてしまったのかもしれません。……久しぶりに思い出してようやく気づきました」
「……すまぬ。そのようなことを思い出させてしまって」
「姫様、お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですよ」
先日、侑生に衝動的に打ち明けた時も含めて、八年前の事件以来、珪己がこの件について自分の口から話すのは初めてのことだった。しかし自分自身が思っている以上に心の傷は癒えてきているのかもしれない。
「姫様、私はあの時、強くなりたいと思う自分に気づいたのです。生きて、強くなって、自分の力で自分の大事な人を護れるようになりたい、そう思ったんです。姫様はどうですか? 本当は死にたくなどないのですよね……?」
珪己の問いに、菊花が静かにうなずいた。
ためらいながらも。
珪己はあらためて菊花の小さく柔らかい手を強く握り、その目を見つめた。
「でしたら、生きて何ができるかを考えませんか?」
「生きて……?」
「ええ。私も一緒に考えますし、一緒になんでもやりますよ? こう見えて頼りになるんですからね」
「……珪己」
「それでも、もしもどうしても辛くなったら……まずは私にご相談ください。その時は私がこの後宮から姫様を連れだしてあげます。どこへでもご一緒します」
やがて菊花がうなずいた。
うん、うんと。
幾度も幾度も。
ぽたぽたと落ちる涙は掛布にしみを広げていった。
*
菊花が落ち着くまでと、背中をぽんぽんと優しく叩いていると、当の姫はいつの間にかすやすやと眠りについていた。表情を見るからに穏やかで、頬の赤味に珪己は幾分ほっとした。眠る菊花を寝台にきちんと寝かせてやると、室内に柔らかな沈黙が舞い降りた。
すると、扉の向こうに多くの人の気配を感じた。
(そういえば……皆さんを遠ざけてからもうだいぶたっているわ)
状況を説明し心配させていたことをわびなくてはと、扉をそっと開けると、そこに控える女官達の変わり果てた姿に珪己はぎょっとした。
「ど、どうしたんですか皆さん?!」
絹のような細く長くたなびいていた髪はぼさぼさに、艶美な衣は土や草の葉がついて汚れている。化粧が半分とれかかっている者までいる。その中から一人の女官が、その白魚のような、けれど傷だらけの手に持った籠を珪己に差し出してきた。中をよく見れば黒蟻がうじゃうじゃとうごめいている。
「……これは」
「姫様がお喜びになるかと思って皆で採ってきたのです。待っている間いてもたってもいられなくて。私達にできることといったらこれくらいですから。……あの、姫様は?」
その場にいる女官、十数名全てが、汚らしくなった顔で、けれど真摯なまなざしで珪己を見つめている。珪己は彼女達の献身に強く心を打たれた。
「姫様はもう大丈夫です」
「……本当ですかっ?」
「ええ。今はお疲れになって再度眠ってしまわれましたが、お目覚めになるころにはきっとお元気になっているはずですよ。起きられたとき、この籠の中身を見ればきっとお喜びになります」
わあっ、と、晴れやかな歓声があがった。




