1.菊花、倒れる
「……珪、己……?」
誰かの声が遠くの方から聴こえる。
知らない人の声は――そう、男性のものだ。
子供のものなのか大人のものなのかはよく分からないが、高いような低いような、どちらともとれる印象の声だ。
ただ、その声の主が泣きそうなことだけは分かった。
かすれた声が震え、語尾が白い空気に溶けていく。
(なぜあなたは泣きそうなの? なぜ私の名前を呼ぶの……?)
「ごめん、俺が……。俺のせいで……ごめんね……」
また別の声が聴こえる。
こちらの方がやや声調は高いような気がする。
だがこちらの声の主は泣いている。
悲しみを抑えきれずに、喉を鳴らして泣いている。
(なぜあなたは泣いているの? なぜそんなふうに泣くの……?)
やがて二人の声は遥か遠くへと去っていった。
まるで二人が珪己の元から去っていくように。
それに珪己は無意識で手を伸ばしていた。
*
目覚めたら朝だった。
ちゅんちゅんと、軽やかな鳥のさえずりが聴こえる。
窓の隙間から一筋、柔らかな日の光が差し込み室内を照らしている。
空気もまた柔らかで暖かい。
今日も春そのものの心地よい陽気となりそうだ。
起きれば、先ほどまで見ていた夢はすっかり珪己の記憶から消えうせていた。
そういうことはよくある。
もうどんな夢を見ていたかなど少しも思い出すことはできない。
ただ、夢見は悪かった。
いや、悪いというと語弊がある。
適切に言うと、たぶん、悲しい――だ。
だが、夢が感情だけを残すこともよくあることで、珪己は頭を振って気持ちを切り替えた。
寝台から起き、着替え、髪をとかしまとめる。
薄く化粧をしていく。
そういった所作だけを見れば、湖国の最上の女性のみで構成される女官そのもの、優美さすら感じられる。伊達に枢密使の娘をやってはいない。武芸者である反面、珪己は上位者の娘としての所作も骨の髄まで叩きこまれていた。これに容姿と経験値――特に女特有のもの――が備われば、本物の女官として後宮で暮らし続けることもかなうだろう。
(……なんてね)
ふふっと笑みがこぼれたのは、そんな未来を自分はちっとも望んでいないからだ。
そうやって珪己が時間をかけつつ身づくろいを整えていると、どたどたとこの後宮に似つかわしくない粗野な足音が近づいてきた。と思ったら、その足音の主は珪己の室の前で止まった。
「珪己殿、姫が毒を盛られました! 急いでおいでください!」
「……なんですって?」
まだ夢の残滓に浸っていた珪己の頭は、その知らせに一気に覚醒した。
駆けるように菊花の部屋に入ると、当の姫君は寝台でこんこんと眠っていた。頬に血の気はなく青白い。珪己は寝台のそばにひざまずくと、思わず菊花の手を取った。その手はほんのりと温かく、そのことにひとまずほっとした。
「何があったのですか?」
「それが……朝餉に出された汁に毒が入っていたようで」
声音通り、その女官が自信なさげに視線をさまよわせた。
「この椀の汁を口にされてしばらくして、『毒だ』とつぶやきお倒れになってしまい……。先ほど私たちで姫様を寝台にお運びしたところなのです」
示された椀にはまだ二、三口分の汁が残っている。
「汁は幾らかこぼされてしまったのですか?」
「いえ、こぼされてはおりません。……もしや、触れるだけでも危険な毒なのですか?」
その問いに答えることなく、珪己が椀に少し顔を近づけた。……匂いはしない。
「このようなことはこれまでにもあったのでしょうか」
「ええ。これで四回目、いえ五回目でしょうか」
そんなに、と言いかけて口をつぐむ。
「……医官の方は何と言ってましたか」
「それが……姫はいつも『医官はいらぬ』とおっしゃるのです。今日もそうつぶやいてから気を失われてしまって……」
それを聞くと、珪己は椀の汁をためらうことなく口にふくんだ。あっと、周囲の者たちが思う間もなく、珪己の喉を汁が通っていく。
「珪己殿! どうしてそのようなことを……!」
くらり、とした。
珪己はこの感覚を知っていた。
八年前の事件の後、眠れぬ娘を心配して父が薬師に調合させた眠り薬である。
このくらいの量を一口ふくむ程度なら、今の珪己には大して効果はない。けれど七歳の菊花が椀のほとんどを飲んだとなると相当眠いはずで、体調によっては死に至る可能性もあるほどの量だった。
「――みなさん、分かりました。けれどこのことは姫様が意識を戻されてから、まずは私と姫様の二人だけで話す必要があることのようです。どうかお願いします。私を信頼して任せていただけませんか」
珪己の最後の言葉にざわめきが起こった。
すると、一人の女官がすっくと立ち上がった。江春だ。
それだけのことでざわめきは嘘のようにひいた。
「いいでしょう。今、姫のお心を最も理解できるのはあなたです。私達はあなたを信じます。姫をよろしくお願いします」
そう言うと、江春は珪己に向かって深々と頭を下げた。呼応するかのように、その他の女達も一斉に珪己に手を付き叩頭した。その様子に珪己は立ち上がると、江春に、すべての女官に向かって、より深く頭を下げた。




