5.助言
午後、珪己は武殿に赴き周定莉と体術の稽古に勤しんだ。
今日は定莉ははじめから鋭い突きと蹴りを繰り出してきたため、珪己は本気でよけ続けなくてはならなかった。
「珪信さん、逃げてばかりいないでそろそろ攻撃してください!」
定莉にそう言われても、珪己は強い拳も足も持っていない。それに今はまだ避けるだけで精いっぱいだ。対する定莉はほんのり蒸気した顔ではあるが、遊んでいるかのような余裕すら見える。
珪己はたまらず降参した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! いったん休憩したい!」
「そうですか? ……確かに、もう半刻も動いていますね。少し休憩しましょうか」
定莉はあっさりと構えを解くと、はあはあと息も荒い珪己に少し考えるような顔をしたのち、言った。
「珪信さん。僕、年下ですけど大丈夫ですから」
まっすぐにこちらを見つめる定莉に、珪己は定莉の心を察した。
(年下相手に攻撃できないと、私が考えていると思ってるんだ。武芸者にとって、稽古であっても手を抜かれることほど屈辱的なことはないのに……)
だが今は何も言えない。
「……すまない」
「いえ、よくあることなので」
「ちがっ……!」
「でも僕はきちんと稽古したいです」
たまらず否定の声をあげた珪己に定莉が意志のこもった瞳を向けた。
「立派な武官になるためにも」
見つめ合えば――定莉の志の強さは痛いほどに伝わってくる。
「あ、僕、あっちでお水もらってきます。珪信さんは休んでてください」
定莉は取り繕うような笑顔を浮かべるや向こう側に走っていった。
珪己は鍛練場の隅までいくと壁を背にし、そのままずるずると腰を落とした。そして膝を抱えてうずくまった。
定莉ときちんと向き合いたい。定莉が満足するような稽古相手になりたい。けれど体術について分かった気になったのはつい前日のことなのである。それも攻撃をよけるという一点においてのみ、それ以上のことは何も理解できていないのだ。
昼前に菊花と打ち解けられた喜びは跡形もなくなり、珪己の口から深いため息が洩れた。
「――何を悩んでいる?」
見上げると、そこには袁仁威がいた。
この人にはいつも上から見下ろされてばかりだな、と思いつつ、珪己は立ち上がると上官に向かって礼をとった。顔を上げ真正面から向かい合うと、先日初めて出会った時と比べて、目の前の青年武官は無表情ながらどこか優しい顔をしていた。
「さきほどの稽古の様子を見ていたが、お前は逃げてばかりいたな」
かあっと、珪己の顔が赤くなった。
これ仁威はかまわず畳み掛けてきた。
「なぜ攻撃にでない?」
押し黙り顔をうつむけた珪己に、少しの間ののち、仁威が深いため息をついた気配を感じた。
(呆れたのかしら……)
珪己は唇をぐっとかみしめた。
悔しさで目が潤んできた。
と、頭をぽんと何かで叩かれる感触がした。
はっとして顔をあげると、仁威の手にある物が珪己の頭の上から顔の前に移動した。――書物だ。表紙に記された題目から、それが体術に関して記した武芸書であることが分かった。
「これを読め。お前なら読めば分かるだろう」
表紙の端が破れ手垢で汚れていることから、この書物がよく読まれた年代物であることが察せられる。仁威はその書物をぐいっと珪己に押しつけてきた。
「遠慮するな。これは俺が新人の頃に読んでいたものだが、お前にちょうどよい内容が記されていると思う。お前は剣術の身のこなしをきちんと習得しているし、体が弱いそうだから体術の鍛練がおろそかになっていたのは仕方ない。これから頑張ればいい。そうだろう?」
仁威の思いがけない優しい言葉に、珪己の胸は自然と熱くなった。
「……ありがとうございます、袁隊長。すごくうれしいです」
書物を受け取り、珪己はそれを胸に抱いた。
それから珪己が見せた花がほころぶような笑顔に、一転、仁威が眉をひそめた。
「礼はいらん。だが、一言言わせてもらうなら」
仁威が珪己の顔を遠慮なく指差した。
「その顔はなんだ。お前は見習いとはいえ武官だろう!」
「え……?」
「このくらいのことで涙を見せるな! 男のくせにだらしないぞ。その笑い方も女のようで、はっきりいって不愉快だ。気味が悪い!」
「うっ……。仕方ないじゃないですか。私は昔から泣き虫なんです。体が弱いから涙だって出やすいんです。それに私の笑顔はみんなに人気があるんですよ! 気持ち悪いなんてひどいです!」
まだ潤んだ瞳のままで、けれど拳を握って力説する珪己の姿に、仁威がふっと笑った。
「まあ、そういうことにしておいてやる。では心して稽古に励め」
仁威はそう言い残すと珪己のそばから離れていった。
珪己はといえば、初めて見た仁威の笑顔の柔らかさに、思わず握りしめていた拳をゆるめてしまっていた。この人とはいろいろとあったし、いろいろと言われたけれど……本当は部下思いの良い上司なのかもしれない。
去りゆく上司は、歩きながらも幾人もの部下に話しかけられている。その都度仁威は足を止め、真剣な面持ちで話を聞いている。そして仁威の元を離れていく男達の誰もが満ち足りた顔となっていた。まだ年若いが、尊敬と親愛の情を持って部下に慕われているのはこの青年の人徳によるものだろう。
珪己はあらためてその場に座ると、定莉が戻ってくる前に少しでも、と借りたばかりの書物を開いた。どの頁にもかなり読み込んだ跡があり、ところどころ書き込みも見られる。珪己は仁威の勤勉さに素直に感嘆した。
(……こうやってたくさんの時間をかけて学び稽古しなければ強くはなれないんだわ)
分かってはいたことだがその事実を再認識する。だが感傷に浸っている場合ではない。今は定莉の信頼を失わないためにも、ちゃんとした稽古相手を務めるためのこつだけでも知りたい。
と、ある頁の挿絵が目に入った。
攻撃者が相手の足を払う業である。
そこには仁威のものらしき手記が書かれていて、『剣術でもこれを生かすように動く』とあった。若かりし頃の仁威はこの業を剣術でも応用したいと考えたらしい。
しかし珪己は逆の発想をした。
(――これなら私にもできる! いつも道場でやっていたことだもの!)
*
相手の懐深く近づいて足を払うのは、実は珪己の得意技である。師匠に教わった当初からこの業を気に入ってよく活用してきた。
師匠含め強者との戦いで決着をつけるためには、剣で相手の体のどこかを強く叩くか、または相手の剣を叩き落とすしか方法はない。だが、珪己は稽古相手を傷つけることにためらいがあった。それは八年前の出来事が理由であると自分でも分かっていた。
けれど、どうしても、なかなか思い切れない。でも勝ちたいし、強くもなりたい。
そんな矛盾した思いを抱える珪己にとって、足を払って相手を倒すという業は最も適していたのだ。
ちなみに足払い一本でいつも珪己に敗れる道場仲間の浩托は、根が単純なだけであったりする。
少し頭の中で動きを確認していると、定莉が水を入れた筒を持って戻ってきた。
「はい、珪信さんもお水どうぞ。……あれ、その書物はどうしたんですか? 体術の武芸書ですね」
「さっき袁隊長が貸してくれたんだ」
「え、隊長が? へえ、すごく読み込まれてますね。近衛軍最強と言われる袁隊長があるのは日々の稽古と勉学の賜物なんだなあ」
「私もそう思う。袁隊長のことを見直したよ。尊敬する」
「そうですね。珪信さんは出会いが最悪でしたもんね」
二人で顔を見合わせ、ふふっと笑った。さっきの稽古で生じた気まずい雰囲気はなくなっていた。
「――定莉、稽古を始めようか」
清々しい珪己の表情に、定莉がうれしそうにほほ笑んだ。
*
向かい合い、構えをとる。
対峙する珪己の顔つきに、定莉は顔を引き締めた。
次の瞬間、定莉の右の拳が珪己の顔をめがけて飛んでくる。これを珪己が避けると、ためらいなく左の拳が風を切って近づいてきた。
(今だ……!)
珪己は半身で避けると、その流れのままに一気に定莉の懐に飛び込んだ。懐剣を使うときも刀身が短い分間合いを詰める必要があるが、刀身すらない我が身一つ分だけ、より深く、より素早く相手に接近したのだ。
定莉の想像以上に二人の間の距離が縮まった。
珪己の顔を近くに感じ、定莉は不覚にも胸が高鳴るのを感じてしまった。
その少しの気のゆるんだ隙に、珪己の足が定莉のそれにかかった。
支えを失った定莉の体は見事なくらい軽々と回転し、どん、と倒れた。
勝負はあっという間についた。
思わず放心している定莉に、珪己は手を差し伸べた。
定莉はその手をとって起き上がり、にこりと笑った。
「珪信さん、ありがとうございます」
負けたのに、礼を言う。その言葉に珪己も満面の笑みを浮かべた。
とっさにうつむいた定莉の視界に繋がれたままの二人の手がある。その瞬間、頭に一気に血が上り、定莉はあわてて手を離した。
「す、すみません!」
「いいんだ。定莉は私にいつも手を貸してくれるからお互い様だ」
そして様子の異なる定莉にかまうことなく、珪己が腕まくりをしてみせた。
「さあ、じゃんじゃん稽古をしようか!」
この日も日暮れまで稽古に勤しんだのは、言わずもがなである。




