4.心の闇
珪己はその後、菊花に導かれ、後宮の片隅の野の花が咲き乱れる丘を訪れていた。
まず、珪己は手巾を広げて筒状に形作ると、片方の端をきゅっと結んだ。何事かと菊花が手元をのぞきこむ。珪己は次に、長く細めの枝を曲げて、枝の端と端をひもで縛ってひとつなぎの円を作った。そこに先ほどの手巾のもう片方の端を縛り付ける。これを長い棒の先端に取り付ければ、即席の虫取り網の完成だ。
使い方を教えると、あとは菊花の独断場であった。飽きることなく、白や黄や黒、色とりどりの蝶をつかまえていく。籠の中はあっというまに多彩な蝶で埋め尽くされた。
「姫様、もうそのあたりでよろしいのではありませんか?」
菊花の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「おお、これ以上は籠に入らぬか。もっと捕まえたかったのに残念だ」
「それでは次はもっと大きな籠を持って来ましょうか」
「次……? また来れるのか?」
ぱあっと、菊花の顔が輝いた。
「……ええ」
菊花の満面の笑みは珪己の心にしみた。池のほとりに座り、集めた蝶をにまにまと覗き込む菊花に、珪己は『知っていること』をつい尋ねてしまった。
「後宮には姫の他にどなたか年の近い方はおられないのですか?」
「おらぬな」
その口調は軽く菊花の目は蝶から離れないが、表情が少し硬くなったことに珪己は気がついた。とたんに、後宮には現皇帝の妃とその子供しか住んでいないのだ、と言った侑生の言葉が実感をもって思い出された。
菊花の周囲には大人しかいない。虫を捕まえて遊ぶことができる友など、望むこともできない環境にいる。珪己は自分の無神経な発言が嫌になった。
「姫様、私は虫が好きですよ」
あらためて珪己は言った。
「またご一緒しましょう。明日もお天気がよければここに来ますか?」
「……明日?」
上目づかいに菊花がちらりと珪己を見た。
珪己は力強くうなずいてみせた。
「ええ。明日もあさっても。お望みとあればいつでもご一緒します」
「本当か?」
「ええ、私の後宮でのお友達になってください。あ、すみません、姫様に向かってお友達などと」
「友? 友とはなんだ」
「友とは……そう、家族以外の親しい人のことです」
「ほう、そうか。友とはそういうものなのか」
満面の笑みに、後宮に来てよかったと珪己は心から思った。
「姫様、それではそろそろ蝶を籠から出してあげましょうか」
「む? なぜだ?」
菊花が全身で籠をかばう。
「ですが姫様、このままでは蝶は死んでしまいます」
「そうなのか?」
「そうです。さ、花の咲くところで籠を開けてあげましょう」
「……母上に差し上げたかったのに」
つぶやきうつむく菊花の姿に珪己は察した。
「もしかして姫様、胡淑妃にも虫を差し上げたことがありませんか?」
「うむ。母上も虫を見れば元気なるかと思ってな」
(やっぱり……)
「わらわは、さみしいときはいつも庭に出て虫を眺めてる。それだけでひどく心が救われる。その小さい体でどれも一生懸命に生きているところが、不思議とわらわに活力を与えてくれるのだ。……けれど母上は全然元気にならない。今も床に臥せておいでだ。どうしてだろうな。それに、母上はわらわのことを嫌っておるようだ。お会いしに部屋に行っても、すぐに追い出されるか、お目通りもかなわないことがある」
みるみると菊花の大きな瞳に涙が浮かんだ。
「母上は、わらわが生まれたせいで父上が後宮においでにならなくなったと思っているそうだ。わらわのせいで……。わらわなど、生まれてこなければよかったのだ」
(姫の周りにはきちんとお話をすることのできる人が誰一人としていないのね……)
珪己は菊花の手をとった。驚きで涙も止まった菊花を珪己はまっすぐに見つめた。
「姫様、そのようなことはございません」
「……どうしてそのようなことが言える?」
「どうしても、です。私は姫様に出会って、こうやって一緒に遊べて、すごくうれしいんですよ。私は姫様がこの世に生まれてきてくださって本当によかったと思っています」
それを聞いたとたん、菊花の瞳からせき止められていた涙が勢いよくあふれ出した。幼子らしい丸くつるんとした頬の上を涙は幾多も滑り落ちていった。
珪己はそっと菊花の小さな体を抱きしめた。こんな小さな体に抱えるには大きすぎる悩みだ。珪己の腕の中で、菊花はしばらくしゃくりあげて泣いていたが、珪己は大事な雛鳥を護るように、じっとそこにいた。
「……すまぬな」
泣き止むと、菊花の顔はいくぶんすっきりとしていた。目の上が赤く腫れそうだったので、珪己は新しい手巾を懐から出すと、池の水で濡らし、絞って菊花の目に添えた。菊花の口元がにいっとあがった。
「ところで、姫様に一つお教えしたいことがあります」
「なんだ?」
手巾に気持ち良さげな菊花の顔つきから、その心が落ち着きを取り戻したことが察せられる。この機会に一つ、大事なことを珪己は菊花に伝えたいと思った。
「姫様、贈り物とは、自分の好きな物ではなく相手の好きな物を贈るのが肝要なのですよ」
「む? それは本当か? そのようなこと聞いたこともない」
「これを『思いやる』といいます。相手のことを思いやる心は、贈り物の素晴らしさ以上に相手を喜ばせることができるのです。お母上は何がお好きかご存じですか?」
「母上はこのお庭が好きだ」
即答し、菊花は濡らした手巾を取りはずすと、両手を大きく広げてみせた。
「ここ、天陽園は、母上が幼き頃より毎日を過ごした庭である。母上はこの後宮でお生まれになった。そして父上とここで毎日遊んでいたらしい」
胡淑妃はとある女官が身元不明の官吏との間に成した子である。と、珪己が知るのは後日である。官吏との愛を楽しむ風潮のあるこの後宮では、このようなことはそれほど珍しくもなく、出産後、そういった女官はその男と夫婦になるか、子と実家に下るか、または実家のたっての願いを受けて後宮内で子を育てる。最後者の選択の理由は、運が良ければ同年代の皇族の学友や遊び相手を仰せつかることがあるからだ。もし皇族の信頼を勝ち得ることができれば、その子供は、将来は臣下として、または妃の一人として遇されることとなり、それは実家の繁栄を約束する。
「でしたら、この庭に咲く野の花をお母上に摘んでさしあげてはどうでしょうか。きっと喜ばれると思いますよ」
「うむ、そうしよう。母上はお花が好きだから」
捕まえていた蝶を離し空となった籠に、菊花は花を摘み入れ、珪己もその手伝いをした。午後に母の部屋に届けるのだ、と、菊花は花でいっぱいの籠を抱えてうれしそうに笑った。
珪己が菊花を部屋に送り届けると、女官長の江春含め、部屋付の女が皆驚いた顔をした。姫が花を摘んでくるなどという普通の少女らしい――と子供と関わったことのない貴族出身の女官が思う――ことをするのも初めてだし、無邪気な笑顔もついぞ見たことがなかったからだ。事の次第を尋ねてきたので、珪己は簡潔に答えてやった。
「姫様は虫がお好きなのです。皆さんも姫様と虫を楽しめばよいのですよ」
その場にいた全ての女官の顔が一様に青くなったが、珪己は素知らぬ顔で部屋を退いた。




