1.麗しの紫袍の青年
空は澄み渡り、初春の柔らかい風を感じるこの日、湖国の首都・開陽に幾多ある道場の一つで、十数人の少年達に混じり、楊家の息女、珪己が剣技に汗を流していた。
一見して普通の少女にしか見えない体つきにもかかわらず、珪己は木刀を軽々と取り扱う。仁王立ちで、片手でビュン、と木刀を薙ぐ様には貫禄すらある。ただ、稽古着に身を包み武器を手にしていても、年相応のあどけなさは隠されることはなかった。
「脇が甘いよ、浩托! そろそろ木刀が重くなってきたんじゃない?」
声は厳しくても、珪己の表情は明るい。
心なしか楽しそうでもある。
「まだまだあっ!」
珪己の喝に、向かい合う少年がよろめいていた体を立て直す。
少年は腹で薄く息を吸い、気を丹田に蓄えると、木刀の切先を珪己の眉間へと向ける。そして分かるか分からないかといった動作で、じり、と、右のつま先を進める。じりじりと、少しずつ少女との間合いをつめていく。
もう少し、もう少しで……。
と思った瞬間、少年は脳天に強い打撃を受け、同時に目の前にちかちかと星が飛ぶさまをみた。
少女剣士の顔が目前まで迫っている。
あっという間に前に踏み出しかけていた右足をかけられ、体がふわりと回転するや床に大の字に倒されていた。遠慮など一切ない。じんじんと痛む頭を押さえ、衝撃が収まるのを待って少年がようやく目を開けると、緩んだ顔で得意気に見下ろす少女と目が合った。木刀の先は正確に眉間に向いている。
「今日も私の勝ちね、浩托」
くっと喉から唸り声が漏れたが、認めざるをえない。
完璧な負けだ。
浩托は同い年のこの少女にここ最近勝てたためしがなかった。
二人を取り囲むようにして試合を観戦していた少年達から、わあっと歓声があがった。
「さすが珪己お姉ちゃん!」
「すごい、すごい!」
「浩托、また負けてやんのー」
やいのやいのと騒ぐ子供らに、浩托は上半身を起こしてきっと睨みつけた。
「うるせえ、うるせえ! こんな男みたいなやつに勝てるわけがないだろうが!」
「……なんですって?」
珪己の瞳が暗く光った。
「ひっ……」
先ほどの立合い以上に身の危険を感じ、浩托の背中に寒気がよぎった。
*
その時、かろやかに手を打つ音が道場内に低く響いた。
誰もが道場の入口を見やる。
いつからいたのか、そこには逆光を背に一人の青年が佇んでいた。
文官の紫の袍衣に身を包んだこの青年、拍手をしながら、いかにも満足だというようにこちらを眺めている。光の加減が変わり珪己が眩しさに目を細めると、あとにはくっきりとその青年の姿が現れた。そうすると、青年の切れ長の澄んだ瞳が真っ直ぐに珪己だけに向けられていることがわかった。そこに確かな意志を感じ、目が合った瞬間、珪己はどきりとした。
わけ知り顔で見つめられているものの、珪己はこの青年に見覚えがない。
青年の腰帯には青玉がかけられている。青玉は、湖国の最高機関である二府の一つ、軍政を司る枢密院に青年が所属することを意味する。珪己の父、楊玄徳は、枢密院の長官、枢密使であるため、珪己は青玉の意味することを知っている。だが楊家に父の部下が訪ねてきた記憶はこれまでになかった。
小さく首を傾げた珪己に、青年文官は穏やかにほほ笑んでみせた。
「お見事です、珪己殿」
「ありがとうございます。……ところで、どちらさまでしょうか?」
珪己の口調がやや硬くなったのも無理はない。なぜ自分をあれほど熱心にみつめていたのか、なぜ自分のことを知っているのか。また、それだけではない。青年がこの場に現れたことで、先ほどから道場内の空気が一変している。それはこの青年が官吏であることも理由だが、そのたぐいまれなき美貌によるところが大きかった。
美をもって芸を売る女人でも色あせて見えてしまいそうな麗しさがこの青年にはあった。浩托はもとより、まだ鼻水を垂らしているような幼い少年ですら無自覚にうっとりと見つめている。切れ長の瞳は意思の強さとそれに相反する儚さ、両方を映し出しており、それがこの青年の不思議な魅力となっていた。
つまり、この青年は外見からして官吏らしからぬ人物だったのである。
すると青年はひと好きのする笑みを浮かべたままその頭を小さく下げた。
「これは申し遅れました。お初にお目にかかります。私は枢密副使の李侑生と申します」
枢密副使とは、枢密使の副官であり、宮城においても格段に上級の官吏である。この青年、年のころ二十四、五歳か。官位に対して非常に年若い。確かに青年の袍衣の紫色は上級官吏の証であるが……。
李侑生はそんな珪己の驚き値踏みも気にもかけていないようだ。
「珪己殿の父君がお呼びです」