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5.真夜中の逢瀬

 数刻たったころ、後宮内に与えられた珪己の自室に先ほどの女童が扉ごしに声をかけてきた。


「お返事を頂戴してきました」

「ありがとう」


 はやる気持ちで受け取った文箱に、一瞬、珪己はぎょっとした。一つは予想したような荷物の入った大きな箱ではなく華奢な文箱であったこと、もう一つはその文箱がやけに華美であったことにである。金粉をまいた黒の漆塗の文箱には桜の一枝が添えられ、箱に巻かれた銀糸の紐と美しく引き立てあっていた。文には『後宮の庭園の南奥のほうに来てほしい』とだけ書かれていた。


 細く青白い月が浮かびあがる闇夜の下を、珪己は指定された場所に向かった。手紙の筆跡は李侑生のものに違いなかったが、念のためやや警戒しながら。


 しかし、その場にいたのは間違いなく李侑生であった。木々の下に隠れるように立っているが、闇に染まる紫の袍衣の袖から、裾から、におい立つように煌びやかな空気が醸し出されている。一度知れば、それはまさに彼特有の存在の証といえた。


 珪己が張っていた気を緩めると、暗闇の中、顔を上げた侑生はほほ笑んだようであった。今夜の侑生には珪己のよく知る上級官吏らしい悠然さがある。昨日、武殿の裏手で垣間見た一瞬の激情はすでに幻のこととなっている。


 侑生の手には抱えるくらいの大きな箱があり、自分が文で依頼した物だと推測できた。ただ、なぜかこの箱も華美な朱塗りのしつらえだったが。


「お待たせしました……!」

「珪己殿」

「ありがとうございます。急なお願いでしたし、用意するのも大変でしたよね」

「いえいえ、気にしないでください。私も珪己殿にお会いしたかったから、文をいただけてうれしかったですよ」


 侑生が緩やかに近づいてくる。そして箱を差し出した。これに珪己もまた両手を差し出した――受けとめるために。


 だが、箱を渡すかいなかのところで侑生が必要以上に顔を近づけてきた。どきりとしたことが丸分かりな顔を珪己が隠すより先に、耳元でささやかれた。


「……後宮に確実に物を運び入れたい場合、このように直接会う必要があります。分かりますか?」


 珪己ははっとした。


 誰が敵なのか分からない現状では、荷の中身が無事届けられるとは限らないではないか。例えこの箱の中身が無意味に思えるものだとしても――。


 珪己は悔しくて唇を噛んだ。


「……そのようなことに思いがよらず申し訳ありません」


 珪己の様子に気づいたのか、どうか。侑生は顔を近づけたままさらに低い声で続けた。


「……今日の鍛練はどうでしたか?」


 どこに誰の耳があるか分からないと侑生は考えている。珪己はそう判断し、自身も唇を侑生の耳元に寄せてささやくように答えた。


「……今日は新人武官の稽古に加えていただきました。初めて体術を習いました」

「そうですか。体術はどうでしたか?」

「大変気に入りました」


 明瞭な答えに侑生がふっと笑った。その吐息が耳にかかり、まるで筆でなでられたかのような奇妙な錯覚を珪己は覚えた。一瞬で頬が熱くほてったが、二人が位置するのは庭園の奥、下弦にも満たない程度の月光では誰の顔も照らすことはできない。顔を赤らめながら、珪己は今夜の月の細さに誰にともなく感謝した。


「体術は全ての武芸に通じています。必ず珪己殿のお役にたちますよ」

「わ、私もそのように考えております」

「ほう、一日でよくお分かりになりましたね。さすがはてい古亥こがい殿のお弟子だけのことはある」

「あら……。侑生様はお師匠のことをご存じなんですか?」

「あの方は非常に高名な武芸者ですから。鄭古亥と聞けば文官武官問わず誰もが震えるくらいに、彼の方の武勇伝は有名ですよ」

「ええっ、あの師匠が?! あんなものぐさ爺様のどこが高名な……!」


 思わず大きな声を出してしまった珪己の口は、侑生の手で塞がれた。


「しー、静かに」


 覗き込むようにさらに顔を近づけた侑生と、口にあてがわれた手のひらの温かさに、珪己の頬はさらに赤く染まった。向かい合う侑生の瞳の奥に、珪己はなぜか深い水底と空を満たす闇色を見た。その清廉さは見つめ合う珪己の心を徐々に落ち着けていった。――不思議な瞳だった。


 静かになったことを確認したところで侑生が手を離した。


「……それにしても。あの鄭殿も、珪己殿にかかればものぐさ爺様になるんですね」


 笑いをこらえる侑生の顔は枢密副使というよりも年頃の若い青年のものだ。笑いで細められた瞳には喜色しか浮かんでいない。おそらく、上級官吏としての責任が侑生を常からして大人びてみせているのだろう。そう思い至ると、今目の前にいる侑生の姿が新鮮かつ貴重なものに思えてきた。今ならあのえん仁威じんいと同い年に見えなくもない。いや、十分見える。


 心をゆるしてもらえているようで珪己はうれしくなった。


「そんなにおもしろいなら今度とっておきの秘話をお聞かせします」

「それは楽しみです」


 目が合い、お互いの瞳にうつるいたずらな心を察すると、二人はこらえきれず声をひそめて笑った。


 ひとしきり笑って、やがて侑生がその顔をひきしめた。

 その顔はすでに枢密副使のものに戻っている。


「それらの荷が役にたつことをお祈りします」

「はい。ありがとうございます。明日が女官としての最初の難関です。がんばりますね」


 拳を握りしめ、珪己が満面の笑みで答えた。

 だがその花咲くような笑顔を眺める侑生は、思わし気で、そしてなぜかやや哀しげであった。





 侑生が自宅に戻るや、夜分遅いにもかかわらず姉である清照が姿を現した。

 その目が爛々と輝いているのを見てとり、侑生は盛大にため息をついた。


「姉上。興がのりすぎではないですか?」


 詩の制作に熱中しすぎではないか、そう暗に言っているのである。


 寝食すら忘れて詩作に耽る癖が清照にはあって、普段は就寝しているこの時間帯に起きていることがその証なのである。


 そういうとき、清照は誰の言うことも聞かなくなる。心に湧き上がる感情すべてを言葉にして吐き出すまでは放っておくしかないのだ。今も目の下にはクマがくっきりとあるが本人は気にもとめていない。昨日は一度も姿を見ていなかったが、侑生は理由を大方推測していた。そしてそれはやはり正解だった。


 弟の苦言はいつも通りなんの効果もないようで、清照は反論一つせず、上機嫌に笑みを浮かべている。その意味するところも理解でき、侑生はもう一度これ見よがしにため息をついてみせた。


「あいつは何も言ってきていませんよ」


 きつく言ってみたが、それでも清照は動じなかった。笑みは崩れず、今夜も寝るつもりは毛頭なさそうだ。


 さすがに侑生も気づいている。清照が珪己に用意したという武官の服、あれが元々誰の物で、またそれを渡すことで清照が何を得ようと画策しているのかを。


 だがこの姉をどう追求したところで動き出した策略を止めることは難しいだろうし、一旦指針を決めた姉を止めることもできやしない。あの男への恋慕の情、執着はいつ見てもすさまじいものがある。


 それにどうせ、あの少女にはもう何もできないだろう。後宮で姫のための任務にまい進し、武殿では稽古に明け暮れ……。これほど多忙であれば他のことに気を回す余裕などなくなるはずだ。


 だから侑生は無駄な言い争いを避けた。


 だがこれだけは言っておこうと、去り際に清照に一つ忠告した。


「姉上とてこれ以上珪己殿に何かしたらゆるしませんからね」


 くるりと背を向け自室に戻る侑生を、この姉がよりいっそう華やいだ表情で凝視しているのが感じられる。姉特有の恋愛至上的な感覚で何やら盛大に誤解しているようだ。だが侑生は否定することなく自室に引きこもることを選んだ。訂正する労力は無駄となることは分かりきっているし、また訂正しなくてはならない理由はなかった。


 それでも――痛む心に気づかないわけにはいかない。

 自分の心から逃げることなど、誰にもできないのだから。


 灯り一つない自室は侑生の心そのもののようだった。


(あなたは……どうして……)


 暗闇に乗じて、先ほどまで同じ時を過ごしていた少女のことが自然と思い出されていった。


 頭上を覆うほどの木々の下、薄淡い月光しかない場で、昼間の太陽のように朗らかな表情をみせた少女――楊珪己。


 少女と面と向かい合うのは、実に八年ぶりのことだった。


 そして、楊家の少女と対面とするということは――侑生にとって八年前の己が罪と対峙することでもあった。


 あの日のことはどれも鮮明に思い出せる。


 明け方、袁仁威と共にたどり着いた楊家の屋敷内。

 そこで見つけた幾多の死体、むせるほどの血の香り。

 その場に一人、白い陽光を身に受けながら立ちすくんでいた少女――。


(あなたはなぜ……なぜそんなふうに明るくふるまえるのですか)


 八年前、深い罪を犯した自分。

 その罪を償うためにこれまで生きてきた。


 だからこそ、生きることに喜びや楽しみを見いだせない自分がいる。

 いや、そのようなものを望んではいけないと日々己を戒めている。


 侑生は楊家に関するすべてのことに深い罪悪感を抱いている。であるから、その楊家の人々が心やすらかに生きている様子を確認すれば、ほっと安堵する。そのたびに彼らの安寧を護り続けたいと志を新たにもする。


 それでも、実の母を殺され、家の者すべてを殺された場に立ち会った少女が常に明るく前向きであることに驚き――小さく嫉妬する自分がいるのだった。


 今、少女のために行動し、少女を助けることのできる自分となれてよかったと侑生は思っている。それは少女の父・玄徳に対する感情と同じだ。罪を償うため、それだけのために侑生は枢密院に勤めているのだから。


 だが少女のそばにいるとふいに泣きたくなることがある。

 泣きたくなるのを必死でこらえなくてはならなくなる時がある。

 それは初めて覚える感情だった。


 袁仁威についても似たような感情を抱くときがある。


 同じ過去、同じ罪を分かち合っているというのに、この旧知の男には自分のように不安定な様子が見られない。常に堂々としていて、第一隊隊長として平気な顔をして剣を握っている。自分は武官を辞め剣を捨てたというのに、だ。


(私だけが愚かなのか。私だけが……?)


 制御できない現実を持て余しながら、侑生は寝台に乱雑に伏した。

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