3.体術
実は珪己は体術を学んだことがなかった。
正しく言えば、『見取り稽古の経験はあるが実際にやってみたことはない』。
武器を持たずに戦える術には当然興味はある。道場では珪己以外の生徒はみな体術に取り組んでいるし、珪己にも学ぶ機会が皆無であったわけではない。
しかし、少年たちとはいえ異性と体を触れ合わせる行為は……受け入れられなかった。稽古を始めた頃は男女のことが色々と分かりつつ年頃であっただけに即決できなかったのである。すると体術を学ばないことは至極当然のこととして師匠その他に受け入れられてしまい――今日まで至ってしまった、というのが真実だった。
いや、たとえ珪己が参加したいと望んだとしても、熱が伝わるほど密に少女と接触するとなれば、性に敏感な年頃の少年はすべからく逃げ出していただろうが……。
ここ湖国では文化の繁栄とともに女性の社会的地位が格段に上昇し、一昔前のような男尊女卑的発想も失われつつある。だが、国がいかに女性の職や思想に変化を与えていても、性に対する固定概念はそう簡単に変わるものではない。
だが今この時、珪己には『やる』という選択肢しかなかった。道場で一人壁にもたれて眺めていた体術の稽古を思い出し、どうにかしてこなすしかない。最悪、ぼんぼん息子だからと、下手であっても笑ってやり過ごしてもらえばいい。そう開き直ることにした。
定莉が珪己の正面に立ち、軽くおじきをし、拳を作って構えた。珪己も同様に構えをとる。この構えですら珪己にとっては初めての体勢だ。
その珪信――という名の少女の動作に、定莉は少しの違和感を覚えつつ言った。
「では、はじめに軽く動きますね」
そう告げると、定莉は腰の位置にあった右の拳を珪己の顔の真正面に飛ばした。
あわててよけた珪己が少しよろけた。
(……もう少し手加減したほうがいいのかな?)
定莉にしてみればこれでもすごく手を抜いているのだが、対する珪己の動きは素人のようだ。
(まあ、いざとなれば寸止めをすればいいか)
思い直し、定莉は続けて、左、そしてまた右、と、いくつか角度を変えながら拳を繰り出していった。その都度、珪己は危なっかしい動きでよける。
趣向を変え一つ蹴りを入れてみる。
と、ぎりぎりのところで後ろに下がってかわされた。
その動きに、定莉は「ん?」と思った。
気づいたことを確かめるため、少しずつ足と拳の速さを増していく。すると思ったとおり、珪己の動きからは見事に素人くささがそぎ落とされていった。
十数回連続した攻撃を定莉が終える頃には、もはや珪己の動きに危うさはみられなかった。
珪己は自分でも驚いていた。
初めの数回の攻撃こそ怖かったものの、次第と慣れていき、今では踊るように定莉の攻撃をよけることができる。
(……同じだ)
木刀でも懐剣でも基本の動作はすり足であり、相手の攻撃をよく見て自分の間合いで動けばいいだけなのだ。そしてそれは素手による格闘でも同じこと。
(……これならいける!)
ふつふつと湧いてくる自信に珪己の顔が輝いた。それを見て、攻撃を止め次の手を思案していた定莉がふっと笑った。
「珪信さん、だいぶ体がほぐれたようですね。……よし、それでは少しずつ本気を出していきますよ!」
そう告げるやいなや、これまでよりも数段素早い拳を珪己に繰り出す。
これを珪己はなんなく避けた。
(師匠の剣のほうが早いわ!)
と、ほとんど間をおかず次の拳が飛んでくる。
これもとっさに半身をずらしてかわした。
その瞬間――珪己は首の後ろの襟をつかまれ、背中から強く地面に叩きつけられていた。
定莉がすぐさまのしかかり、無防備に寝転がる珪己の顔に向かって拳を繰り出す。
――珪己は思わず目をつぶった。
しかし想像したような痛みが起こらず、おそるおそる目を開けると、そこにはわずかな距離で寸止めされた拳が見えた。その拳はほどかれると、珪己に向かって差し出された。
「すみません、はじめから飛ばしすぎちゃいましたね」
「大丈夫。ありがとう」
珪己は初めての体術の稽古に、すがすがしい気持ちで定莉の手をとった。
珪己を引き起こすと、定莉は申し訳なさそうに言った。
「今日はこのくらいにしておきましょうか?」
「いや、もっとやろう!」
高揚した気持ちを隠さず爛々と顔を輝かす珪己に、定莉はふふ、と笑った。
青く澄んだこの晴れの日にふさわしい人だと思ったのである。
「それでは二回戦を始めるとしますか」