7.理由
すると珪己が顔を上げた。
眉をひそめ、唇をきゅっと結び、けれどその瞳には強い意志を感じさせる光が浮かんでいた。
「――私は八歳のときに母を亡くしました」
その一言で、侑生には自分が珪己に問いかけた答えが察せられた。
しかし珪己は表情を変えた侑生に気づくことはなかった。
「八年前のあの日、夜遅く、なかなか帰宅しない父を待って、けれどすでに夢うつつで母の手に抱かれていた私は、母によってなぜか寝台の下に隠されました。そして母は私に掛布を渡してこう言いました。『今夜はここでお眠りなさい。鬼さんが珪己とかくれんぼをしたいとやってきたようです。これから何があっても朝まで出てきてはなりません。声を出してもなりません。朝日が昇るまで隠れていられたら珪己の勝ちですよ』って」
珪己は少し瞳を閉じ、いっそう強く眉をひそめた。
「その頃、巷では鬼の出るお芝居が流行っていて……その日は寝る前に、人懐こい鬼と友達になるという御伽草子を母に読み聞かせてもらっていたのです。ですので私は母の言葉にうれしくなりました」
『うん、わかった』
八歳の自分が笑顔でそう答えたことも、あの時のわくわくとした気持ちも、珪己は今でも思い出せる。
「それから母は部屋の明かりを消して寝所を出ていきました。暗い部屋に取り残されても、その日の私は全く怖くありませんでした。……しばらくして庭のほうからざわめきが聞こえてきました。そして窓の外から差し込む月明かりが幾度もそのざわめきによって陰ったことも、半刻ほどで寝所の扉が開き何者かが侵入したことも、寝台に近づいた動きにも……私は全てに気づいていました。けれど私は母に言われたとおり、じっと隠れていました。侵入者が退室した後には、いつも就寝時に使っている掛布に顔を寄せていたのもあり、私は心安らかに寝入って……しまって……」
「……もういいです。珪己殿」
侑生の静止に、しかし珪己は首を振った。
「気がつくと朝でした。寝台の下でも、向こう側が明るくなったことで、私は朝が来たことを知ることができたのです」
『やったー! 勝った、勝った!』
あの時の記憶が自分を取り囲み始めたかのような錯覚が起こる。しかし珪己は耐えた。それは珪己の意志など関係なく、体に、心にからみつき……。
あの朝寝所を出た自分が見た光景も、否応なく目の前に現れていく。
封印は解かれた。
「その朝私が見たものは……地獄そのものでした」
それでも珪己は拳を握りしめて続けた。
「たくさんの家人の遺体の中に、斬り捨てられた母の体もありました。私以外の全ての人が殺されていたんです。血の海の中、私は宿直から戻った父に抱きしめられるまでそこに一人で佇んでいました」
立ちこめる血と肉の匂い。
つ、と触れた、まだ柔らかそうな、けれど少し硬く冷たくなっていた母の亡骸。
大好きだった美しく艶のある髪は無残にそぎ落とされていた。
数えきれないほどの、動かない人の山、山、山。
床から天井から調度品まで、いたるところにこびりついていた粘着質な赤黒い色。
読み聞かせてもらったお気に入りの御伽草子も、表紙の半分が血で染まり、おどけた鬼の扉絵はにじんでいた。
今でも珪己は全てを思い出せる。
だがそれらすべてを振り切り珪己は侑生を見つめた。その瞳にいっそう力がこめられた。
「私は何日か泣き暮らし、その後は後悔の念にとらわれて屋敷にこもっていました。あの夜、寝台の下で楽しんでいた私をひたすら呪いました。けれどある日気づいたんです。私に人を護る力があればあのようなことは起こらなかったのではないか、と。力がほしいと思いました。ちょうどその頃、屋敷の隣に道場が開かれ、そこの師匠は女人の私を厭うことなく稽古をつけてくれました。けれど、いくら稽古しても思うんです。もっと、もっと強くならなくては……って」
珪己はふうっと息をついた。
そして心持ち明るい声音で言った。
「ですがもう二度と鍛練場には参りません。私のこの焦燥感は、あの時の鬼に取りつかれて生じたものかもしれないから……。本当に申し訳ありませんでした。これからは内壁の中できちんと任務にまい進します」
もう一度、珪己は深々と頭を下げた。
しかし、顔を上げると、意外にも侑生はにっこりと笑っていた。
「いえ、明日からも時間があれば鍛練には出てください。そのほうがよさそうだ」
「……え?」
「これも『任務』の一つです。よろしくお願いします」
「はい……?」
「ただし、袁にはむやみに近づかないこと。もう二度と危険なことはしないこと。この二つは約束してください」
「は、はい」
ひとたび決断したことを揺るがす気はさらさらないという侑生の表情――。
態度を一変させた侑生をいぶかしく思いながらも、上級官吏にそのような顔をされれば珪己はうなずくことしかできない。
とはいえこの青年に問いたいことはいくつもある。
それもまた真実だ。
だが侑生は目を細め珪己に作り物の笑みを向けただけだった。少し考えようと目をしばたくと、その隙に侑生は珪己に背を向けてしまった。そのまま表の方、陽ざしの強い方へと出ていこうとする紫袍の背に、珪己はとっさに声を掛けた。
「武官、というのは」
「はい?」
足を止め振り返った侑生の顔には今もわざとらしい笑みが貼り付いている。言葉で発する以上に、珪己の言動を抑制せんとする圧力を感じる。それでも珪己は、無難な、だが気になることの一つをようやく尋ねた。
「武官は上下関係に厳しいと聞いていたのですが……違うのですか?」
より一層細められた侑生の双眸に、珪己は慌てて言葉を継いだ。
「あ、あの。先ほどの第一隊隊長と侑生様の間にあった雰囲気が私の想像していた枢密院と武官の関係とは違っていて! もっときっちりと線を引いて上官たる枢密院の方に従うべきだと思っていたのですが……違うのでしょうか?」
問うた理由、それは第一に任務の遂行のために必要な情報だからだ。そして第二の理由は……実のところ珪己にも分かっていない。分からないが声を掛けずにはいられなかった。
珪己は答えを求めるふりをして侑生を見つめた。
侑生は黙ってその視線を受けていたが、やがて眉をひそめ、揺らめく視線を足元にやった。
それはこれまで珪己が見てきたどの青年の姿とも違っていた。
理由があるならば丁寧に官吏らしく説明するだろうし、ごまかしたいのであれば華殿での出来事のようにその色香でもなんでも利用してくるはずだろう、そう珪己は思っていた。なのに今の侑生は――まるで何か苦しい事実を突きつけられたかのような表情をしている。
「侑生、様……?」
「私の名を……そんなふうに呼ばないでください」
「え?」
「私はっ……!」
ぱっと顔を上げた侑生の視線が珪己の視線とかち合った。
その瞬間、侑生がはっとした表情になった。
そのあからさまな動揺もまた推理を裏付けるかのようだった。
侑生の動揺はごまかしようもないほど露骨なものだった。
だからもう、これ以上は何も口にすることができなくなった。
『この人には――触れてはいけない何かがある』
それはまるで自分自身の過去、八年前のあの日と同じだ――。
本来、侑生に語った自身の過去は軽々しく口に出せるものではなく、また他人に容易に触れさせたくはないものだ。それは自分自身の闇そのものだから――。
(もしもこの人も何かしらを抱えているのだとしたら……?)
だから珪己はわざと頭を下げ、わざと見当違いの謝罪をした。
「すみません! 宮城内ではお名前を呼んではいけないって言われていたのに。忘れっぽくてすみません、以後気をつけます!」
長い時間をかけてゆっくりと顔を上げると、侑生はもう普段の彼らしい様子に戻っていた。
眉間に残るしわの残骸以外にはしっかりと自分を取り戻してみせた侑生の努力に、だからこそ、珪己はそれ以上何も問うことはしないと決めたのだった。