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6.勝負に幕をひいたものは

 と、珪己けいき仁威じんいの間に何者かがさっと割って入った。


 その瞬間、仁威の放つ猛々しい闘気は、それまで珪己の全身を縛りあげるように取り巻いていたのが幻であったかのように消滅した。取り戻された柔らかく暖かな春本来の陽気、それに遅れてふわりと香った白檀に、珪己は張りかけた気を自然と緩めていた。目の前には紫袍の背中が立ちふさがっていた。


えん、何をしている」


 侑生ゆうせいの低い声音は耳にしたことがないもので、異質な汗が新たに珪己の背中を流れ落ちた。


「何をだと? 部下に稽古をつけていただけだが? それが俺の仕事だ」


 背中ごしで顔は見えないが、侑生の上級官吏たらん警告が仁威には露ほども効いていないことは明白だ。なお、枢密副使は武官の長、将軍よりも官位が高い。いわんや、その下位である隊長も同様である。


 だが、無礼な仁威の態度に珪己以外の誰もが違和感を覚えていないようだった。この二人が普段からこのような関係性であることを物語っているかのように。この時代の常識、つまり文官優位、武官劣位の考え方とは明らかに異なっている。


 ただ、誰もが微妙な面持ちをしており、あくまで仁威個人による応答の仕方なのだということは、よくよく観察すれば察せられた。隊長としての気位が彼を横暴に振る舞わせるのか、それとも侑生との間にある何かしらの確執のゆえんか。とはいえ、動揺の渦中にある珪己にはこのような考察を深める余裕は微塵もない。


「この者は第四隊配属のはずだが?」

「まだ武挙ぶきょも受けていない新人に対してまで枢密院すうみついんは人事権を持っていないだろうが。こいつは俺の隊で鍛えることにする」


 武挙とは国が認める正式な武官となるための試験のことをいう。


「この者は体験入隊であるし体も弱いと伝えてあるはずだ。物見遊山に来ている貴族の少年を、最強の第一隊に配属して怪我を負わせることはないだろう」


 仁威は少しの間をおいて軽く肩をすくめると、手にしていた剣を鞘に納めた。


「分かったよ。これからは手加減をする」


 それはつまり、珪己のことを第一隊で受け持つという発言を曲げないということだ。


 ふうっと、侑生が深いため息をついた。


「……今後は新人には通例通りの稽古をつけてもらいたい。今日はこれで終わりだ。この者には用があるため、このまま連れ帰るがよいか?」

「無論、枢密副使すうみつふくし殿の仰せのとおりに」

「では失礼する。よう珪信けいしん、私についてくるように」


 言い捨てると、侑生は珪己に背を向けたまま足早に歩きだした。珪己は長剣を地に置くと仁威に頭を下げ、あわてて侑生の後をついていった。




 無言のままの侑生を追い、武殿を抜けたところで、侑生が足早に殿の裏手へと入っていった。先ほどまで浴びていた強い太陽の光はそびえ立つ殿によって突如遮られ、薄暗くどことなくひんやりとした場は異世界のようである。


 歩みを緩めた侑生が一拍おいて振り返った。その表情はいつになく険しく、鍛練場での低い声音が思い出された。


「なぜあのような場所にいたのですか?」


 周囲に取り巻く影を身にまとい、冷たく問いかけられ――珪己の身は縮んだ。

 思わず顔を伏せる。


「……近衛軍の鍛練を見てみたかったんです」


 やっとの思いで答えると、ふう、と大きなため息が聞こえた。


「顔を上げてください」


 おそるおそる見上げると、侑生は少し困ったような、けれど出会ってからの常である柔らかな表情をしていた。


「珪己殿は武芸に熱心な方であると、父君である玄徳様から伺っています。どこで手に入れたか知りませんが、そのように武官の衣を入手したくらいですし」

「あ、あの、これはっ」

「ですが先ほどは生きた心地がしませんでした。袁は近衛軍最強の第一隊隊長で、本気の彼に勝てるのは三将軍くらいなものです。それくらい危険な状況だったんですよ」

「……はい、すみませんでした」


 珪己はあらためて深々と頭を下げた。

 生暖かい風が二人の間を横切っていく。


 少しの間の後、侑生が口を開いた。


「なぜこのような無謀なことを? このたびの珪己殿のお役目は三将軍にも伝えていない極秘事項だとお伝えしているはずですよ」


 それは、近衛軍、騎馬軍、歩兵軍の筆頭である三将軍ですら、姫の件に関与している疑いが消えていないということである。


「袁のような者を相手に剣を交えて、何も悟られないとお思いでしたか?」


 あの時、侑生が出るのが一歩遅れれば――地方のぼんぼんらしからぬ剣気を観戦していた全ての武官にさらけ出していただろう。その瞬間、珪己のここでの役目は終わっていてもおかしくなかった。

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