4.近衛軍第一隊隊長・袁仁威
女官や女童が見当たらない隙に男装で自室を抜け出すことは、武に通じる珪己にとっては容易であった。そして、華殿に入る際とは異なり、出ることは非常に容易であった。おもてにさえ出てしまえばこっちのもの、後宮から現れた武官の身なりの人物が不審者同様の者とは、どの武官も思わなかったようである。帰りは紅玉の飾りを証として華殿に入ることができるし、入ってしまえばまた隙をみて庭園の隅にある自室に戻ることができるというわけだ。
珪己が向かう先は、内壁の向こう、玉門を通り抜けた先の武殿である。朝通った道を逆戻りした脇にその目的地があることは、地図を脳内で思い描けば簡単にわかった。
そうやって、道に迷うこともすれ違う誰かに咎められることなく――珪己は武芸者の神域、武殿に足を踏み入れることにとうとう成功したのであった。
武殿の中央には正方形の広場があり、近づくにつれ、野太い男たちの掛け声が段々と耳に入ってくる。ここ、武官の鍛練場が珪己の最終目的地だ。
そこでは百人近い武官が剣や槍などを握りふるっていた。宮城の警護にあたる近衛軍の武官だろう。向こうには馬屋が見え、騎馬軍所属らしき武官が十数名、馬の背に鞍を積んだり毛並みを整えたりしている。それが一見荒々しく見えるこの鍛練場を、青空との相乗効果でどこか牧歌的に見せた。歩兵軍らしき集団は二百名近く見られ、隅のほうで規則正しく整列している。彼らの肩が激しく上下しているのは何らかの鍛錬をこなした直後なのだろう。
珪己の視線は自然と武芸の訓練をする集団へと注がれていった。近衛軍らしき武官はさすがは街の道場の生徒とは違う。荒々しくも切れ味の鋭い立ち回りも、風を切るような槍の回転の速さも、迫力十分で遠目からでも鳥肌がたった。長剣を軽々と操りながら舞うように立ち回る足取りなども、到底自分にはまねできない……。
ごくり、とつばを飲み込んでいた。
そう、珪己の望みは近衛軍の稽古を見ることにあった。近衛軍は湖国最強の武官で成るから、彼らの剣技を少しでも自分のものにしたいと夢見ていたのだ。
日参する街の道場では、師匠である鄭古亥をのぞけば、今や自分よりも強い人物と剣を交えることができない。しかも古亥はここ数年稽古をつけることを面倒くさがるようになってしまっている。
そのため、「もっと剣技を磨きたい」という願いを珪己はうつうつとやり過ごしていたのだった。
なので、父・玄徳から武官就任の儀を依頼されたときにひらめいたのだ。武官の姿でならば宮城内に、鍛練場に入れるのではないか、と。
そして珪己の予想はここに当たった。いや、予想以上であった。想像もつかないような業を繰り出す武官の姿は、珪己の頭の中にすくう武芸探究への欲求を強く刺激し、すっかり虜となったのである。
*
柱の後ろに身を縮め夢中で稽古を眺めていた珪己だったが、ふと背後に忍び寄る影に気がついた。影の動きに自分を探る意図を感じ、珪己はやや慎重に振り返った。
そこには筋骨逞しい一人の武官がおり、仁王立ちで珪己を見下ろしていた。
一目見ただけで、彼こそが武官の理想ともいうべき人だ、と珪己は思った。体つきはもとより、この武官には闘う者にしか持ち得ない独特の気配が色濃く満ちている。またその威圧感が半端ない。一般的な美しさとは異なるものの、人を十二分に惹きつける何かを有する人物だ。
その迫力にややあてられた珪己だったが、鍛錬をする大勢の武官に比べてやや年若く見える青年の風体に少し落ち着きを取り戻した。
(腰に下げた長剣からして近衛軍所属……よね)
冷静にこの武官を観察していく。
(体は大きいし、強そう。……けど私よりちょっと年上くらいだし、まだ階級もない人なんだろうな)
腰に手をあて、青年武官が低い声音で告げてきた。
「そこのお前、何をしているんだ」
「え、えーと……稽古を見ていました」
「はああ?」
とことん馬鹿にしたようなかん高い声だ。実際、青年武官の細めた目からは蔑みしか感じられなかった。
「お前は武官だろう。武官であれば稽古に参加しろ。なぜ見ているだけなんだ? おじけついたか」
一瞬かっとなったが、珪己はその怒りをぐっと飲み込み我慢した。
立ち上がり礼をとる。そして「失礼しました」とだけ告げ、その武官の前を通りすぎようとした。
が、事なきを得たかと安堵し心がゆるんだその時、背後から肩を掴まれた。
「待て。見かけない顔だな。所属と名は?」
「……近衛軍第四隊所属の楊珪信と申します。本日は初登城であるため、見学のみとさせていただいております」
これに青年武官の眉がすうっとひそめられた。
「楊? ……ああ、そういえば枢密院から聞いたな。しばらく体験入隊したいとかいう地方の貴族のぼんぼんがお前か」
(……なんでそんな変な設定になっているのよ!)
居もしない父に物を投げつけてやりたくなったが、この場を乗り切るため、珪己は心の中の想像だけで我慢した。青年武官は淡々と続けていく。
「体が弱いからあまり登城もできないし、すぐ帰宅することもあるとも聞いている」
(父様ー!)
「確かにそんな柔そうな体では、実戦はおろか、鍛練ですら耐えられないだろうな。なぜお前のような男が近衛軍に配属されたんだ? 歩兵軍で十分だろう。それか騎馬軍で飼葉でも扱っていろ。このような配属をするとは枢密院の連中の頭はおかしくなったのか」
枢密院、つまり自分たち武官を管理する上位者相手につらつらと悪態をつくと、青年武官は鷹揚に腕を組んでみせた。
「お前、年はいくつだ?」
「えっと、十六です」
馬鹿正直に答えてしまった、と珪己が後悔したのもつかの間、これまで強面を維持していた青年武官の顔に驚きが満ちた。
「十六歳? てっきり十三、四くらいかと思ったが」
馬鹿にしたような声音に、珪己は考えるともなく尋ねてしまっていた。
「ではあなたはおいくつなのですか?」
奇をてらった質問だったのだろう、青年武官は少し表情を変えたが「二十四」と告げた。その答えに同じ年齢である侑生の大人びた所作を思い出してしまい、珪己の口が勝手に動いた。
「二十四、なんですか?」
「なんだ。文句あるか」
「私の知り合いに同じ齢の方がいるんですけど……」
「ですけど?」
「あなたとは全然違うな、と思って」
珪己と青年武官の不穏な雰囲気にのまれて会話を立ち聞きしていた数人の武官がふいに慌てだした。
「まずいぞ。隊長は若く見えることを気にしているのに」
「俺は知らないぞ……」
隊長と言われた青年武官の周囲に確かに黒い空気が漂いだしたのが、呪師でもない珪己にも見えた。青年武官の額には血管が浮かびあがり、目つきはいっそう鋭くなり、口の端がぴくぴくと震えている。
「ほお、おもしろいことを言ってくれたな。お前、俺が誰だか知っているのか?」
「……知りません。では失礼します」
そのまま再度逃げようとした珪己だったが、背後から容赦なく腕を掴まれた。
「俺は近衛軍の第一隊隊長、袁仁威だ」
「だ、第一隊……? 隊長……?」
武芸に通じている人間であれば、わかる。
第一隊とは最強の近衛軍の中でも精鋭中の精鋭を集めた集団のことだ。
その隊長といえば……この青年の階級もそうだが武芸の実力は容易に推測できた。
顔色を失った珪己に、青年武官――仁威がくくく、と低く笑った。
「十六歳であるなら大人と同格、我々近衛軍の稽古にも十分耐えられるだろう。これから俺が直々に貴様に稽古をつけてやる。特別にな。どうだ、うれしいだろう?」
周囲が明らかにざわつき始めた。
いつの間にか、広い鍛練場にいる全ての武官が二人に注目していた。
この状況で逃げおおせることは絶対に不可能だということくらい、さすがに理解できたが……珪己は本気で逃げ出したくなった。そして父の依頼を受けたことをこの時初めて悔やんだ。
近衛軍の稽古には非常に興味がある。ただし普通の稽古だ。湖国最強の近衛軍所属の、殺気を隠すこともない第一隊隊長による特別な稽古など、望んでいなかったというのに――。




