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盗み聞き

作者: 三文士

久しぶりの投稿です。作中でとやかく言っておりますが、あくまで架空のやりとりです。特に意味はありません。ラフな気持ち読んでいただけると幸いです。

世の中には雑音が多過ぎる。



私は日々、移動する際には必ず両の耳にイヤホンを装着している。



自分の好きな音楽で鼓膜を満たしているのだ。



音楽はまあ好きだ。



緻密に計算され、刹那の空間を埋めていくそれぞれの音符たちには聴いているだけでうっとりする。



だがそんな話ではない。



平たく言えば、私は極端に雑音が嫌いなのだ。



電車やバスの中、病院や役所の待合室など。



閉鎖された空間において不特定多数の人間が無意識に発する生活音の数々に、私は耐える事ができない。



そういう時に、自分がセレクションした自分の為の音楽で私は雑音を遮断する。



もちろん、周りの迷惑にならない様に配慮した音量ではあるが。



だが時に、その自らがセレクションした音楽でさえも気分的に聴きたくない場合がある。



ヒドく落ち込んだ時や何かを深く考えたい時、ヒトは無意識に静寂を求めるものだ。



そういう時、私は耳栓の代わりにイヤホンをして無音の世界に生きる。



正確にいうと無音ではなく微音なのだが。



どうして耳栓をしないのかと言えば安物は殆ど音が筒抜けだし、かと言って高級な耳栓で全く遮断してしまうのも歩いたりする時に危ない。



程よく音を遮断してくれるそれなりに値段のするこのイヤホンが私の求める世界にはちょうどいい。



あれはちょうど、そんな風にイヤホンで微音の世界を浮遊していた時だったと思う。



急な出張で新大阪までの道のりの途中であった。



ガラガラに空いたグリーン車の通路側に陣取り、私の思考はふわふわと宙に浮いていた。



よくやってしまう癖なのだが、手のひらでボールペンを弄んでしまう。



それがつい思考に意識を傾けすぎて、手からボールペンが離れてしまった。



車内の中央らへんに落下した為、私は面倒くさがりながら座ったままボールペンに手を伸ばした。



そのものぐさな行為のせいで私の膝と肘にコードが挟まってしまい、耳からイヤホンが抜けてしまった。



イヤホンの耳栓の難点はここにある。



これだけがこの便利アイテムの煩わしい点だ。



「チッ」



と、聞こえるか聞こえないかの舌打ちをしてしまった。



コレもいけない癖だ。



周りに人が居なかったのが幸いだ。



そう思っていた。



だが耳栓をしていた私は気が付いていなかったがどうやら二つ前の席に人がいたらしい。



話し声が聞こえたからだ。



しかも割と大きな声で話してる。



彼らも周りに人がいないと思っているのだろう、実に遠慮がない。



私はボールペンを拾うと、またイヤホンで耳栓をしようとした。



その時、不意に彼らの会話が耳に入ってきてしまった。



これは不可効力だ。



何せ声が大きかったから自然と聞こえてしまったのだ。



声から察するに、彼らは初老の男性と三十前後の女性。



その会話が大変に興味深いものだったのでここに記す。



それは確か、こんな内容だったと記憶している。






「だからねタカラベくん。ぼかぁ断固としてこんなモノを口にしないぞ。徹底抗戦の構えだ。」



「まあ先生。困りましたわ。そんなこと仰らずに召し上がって下さいな。でないと私が奥様に叱られます。」



「ふん。良いかねタカラベくん。家内のことなどどうでもよいのだ。自分の食べる物を自分で決めて何が悪い。」



「先生ったら。子供みたいにダダをこねないで下さいまし。せっかく奥様が用意してくださったお弁当ですよ。どうしてそんなことを。」



「ふん。これが食べるに値しないからだよタカラベくん。見たまえこの弁当を。ぼかぁこの包みでもう何処の弁当か解ってるんだ。」



「そうすると先生。何処の弁当だか解ったうえで食べたくないと。そう仰るんですね。」



「勿体ぶって繰り返さずともよい。キミだって何処の店のか解っているんだろうタカラベくん。」



「恥ずかしながら私、食い意地がはっておりますので。特にこちらの包み紙は特徴的なデザインで有名ですから。」



「では試しに当ててごごらん。」



「下町老舗有名店の牛すき屋、大門の弁当ですわ。この大きさからすると中身は『百万石弁当』ですわねきっと。」



「ほほう。種類まで特定するとはね。どれ、キミの鑑定眼が定かかどうか確かめてみなさい。」



ガサガサ



「やりぃ!あっ…失礼しました。僭越ながら私の正解です。」




「はっはっは。そうかねそうかね。いやまったく凄いねタカラベくん。大したものだ。」



「まあ先生。お誉めいただくようなことではございません。お恥ずかしい。」



「いやいや。誇るべき才能だよタカラベくん。では大当たりの賞品としてこの弁当を進呈しよう。」



「まあ。意地がお悪いんですのね先生。」



「なぜだい?」



「そう言われて本来ならお断りするべきところ、私ならきっと躊躇してしまう。そのことを先刻ご承知なのでしょう?」



「キミは回りくどくていけないね。」



「あの包装紙を開けた時から、私はこの百万石弁当を食べたいという欲求の奴隷ですの。」



「素晴らしい。実に人間的な言葉だよタカラベくん。」



「ホントに意地悪なんですから。もう、遠慮なくいただきますわ。」



「そうしたまえ。ぼかぁキミの買った弁当をいただくとしよう。」



「奥様には御内密にお願いしますね。」



「無論だ。おお。キミのも牛すき弁当か。」



「いいえ先生。こちらは世間では牛丼弁当と呼んでおりますの。」



「ふん。これだ。実にくだらん。」



「どうかなさいましたか先生。はい、お茶どうぞ。」



「ふん。気に入らないなどうも。」



「今さら返せませんよ百万石弁当。もう箸をつけてしまいましたわ。」



「いやそうではない。」



「安心いたしました。」



「安心して食べなさい。いいかね。その百万石弁当とこの牛丼弁当とやらにどれほどの差があるのかね。」



「値段が違いますわ。約三倍。」



「もっともだ。だがそういう事ではない。」



「あとはお肉ですね。こちらは国産良いお肉を使ってますが、そちらは外国の有象無象。」



「さすがに象ではなく牛肉だろう。」



「ものの例えですわ。」



「続けよう。ではタカラベくん。キミはその百万石弁当を美味いと思うかね。」




「そうですね。美味しいと思いますわ。お肉だって脂がのってフワフワだし、玉ねぎだってシャッキリしてて甘みがあるし。ちょこんと乗ったグリンピースの色鮮やかなこと鮮やかなこと。」



「一方こちらの牛丼はどうだね?もちろん食べた事はあるのだろう?」



「ええそれはもう。先週いただいたばかりですわ。」



「同じ牛丼チェーンかね?」



「そうです。私お気に入りですの。値段の割にまあまあのお味だし。トッピングが豊富で飽きませんのよ。」



「そう!それだよタカラベくん!」



「トッピングですか?」



「違う。値段の割にというところだタカラベくん。つまりキミはこの牛丼弁当は値段相応の味と内容量をしてると思っている。対してその百万石弁当はどうだ?」



「ええ?まあ、そうですわね。すこおしお高いとは…思いますわ。でも…いただいた物ですので私はなんとも。」



「ぼくが代弁してあげようタカラベくん。百万石とは名ばかりで、値段の割に味は大したことない。500円の牛丼とさほど変わらないクオリティだ。そう思っているのだろう?



「また言い辛い事を平然と仰いますのね先生。」



「遠慮は無用。家内が買ったものなら、その金の出処は自ずと解っておる。自分の金で買ったも同じだ。そのぼくが許す。言いたまえ。」



「もう言いたいこと全て先生が言ってしまいましたわ。恐れ入谷の鬼子母神です。」



「ははは。古いねキミも。いや愉快だ。ぼかあ愉快だぞ。」



「では早くお召し上がりになって下さいまし。」



「ふむ。ではいただこう。」



「でも先生。ホント変わってらっしゃいますわ。普通、味がさほど変わらなければ500円と1850円、どちらかと言えば1850円の方を選びがちです。」



「ふむ。だからねタカラベくん。ぼかあ、こういうおかしな物は大嫌いなのさ。」



「どこかおかしいですか?」



「そうだとも。正しい評価がなされていない。」



「はあ。」



「やれ高い国産牛使っているだ、やれ百年続いた有名な老舗だ。そうだとしてもだ。いくらなんでもキミ。たかが弁当で1850円はないだろう。消費者を舐め過ぎだ。」



「ずずずっ(お茶を啜る音)」



「それをありがたがっている我々もさることながら、そうなる様に煽って仕向けた連中も気に食わん。」



「あの先生。」



「どうしたねタカラベくん。」



「ご高説は大変ありがたいのですが、先ほどから全く箸が進んでおりませんことよ。」



「ふむ。気乗りしないね。あとで食べようかな。」



「些か失礼だとは思いますが先生。まさか私に黙って、既になにかお召し上がりになられていたとか?」



「ぐむ。」



「まさか私と待ち合わせの時間より早く着いてしまったため、我慢できず駅前の豚骨ラーメン屋に入っていたとか?」



「ぐむむ。」



「そのせいで待ち合わせの時間に遅れた。しかし満腹だと私に怪しまれる。だから百万石弁当にケチをつけて時間を稼いでいたと?」



「ぐぐむ。」



「名推理。」



「ホームズ裸足だ。」



「金田一もですわ。」



「秘書を辞めて探偵になり給え。」



「嫌ですわ探偵なんて。」



「何故だい?勿体無い才能だ。」



「秘書の方がずっと高給取りで、おまけに楽ですもの。」





私はすっかりこの二人のやりとりが気に入ってしまった。



なんと軽快な会話のキャッチボールだろう。



清廉された無駄のない無駄話。



まさに計算し尽くされた音楽に等しいそれに、私は聞き耳を立てずにはいられなかった。



いけない事とは知りながらもつい盗み聴きにはしってしまった私を責めないで欲しい。



私は悶々とした気持ちで新大阪の駅に降り立った。



先生とタカラベくん。



二人は仕事上の関係のようだが、先生は一体なんの先生なのだろう。



二人の風体はどんなだろうか。



仕事なんて手に着く筈もなく、らしくない小さいミスを幾つかしでかしてしまった。



一度頭を冷やそう。



そう考えた私は出張先でよく行くお気に入りの喫茶店に足を運んだ。



創業してから五十年はくだらないであろう店構え。



店内は昼夜問わず薄暗く、内装もとことん木造にこだわっている。



店員はたった一人だが客席はどこも広々としている。



珈琲はもちろん美味いのだがBGMがまた良い。



邪魔にならない程度の音量でセンスの良いピアノジャズだけが淡々と流れている。



もちろん音源は、アナログレコードだ。



時折、曲の終わりを知らせる針のつまずく音もまた良い。



どこであろうと関西方面に出張の際は必ずここに立ち寄り、一杯の珈琲でくつろぎの一時を買う。



私は大概いつもと同じカウンター席に座りいつもと同じ珈琲を注文して、橙色に輝く優しい照明に見とれていた。



するとどうだろう。



いつもなら聞こえないはずの人の話し声が聞こえてくるではないか。



しかもそれは、恐ろしく偶然なことに例の二人組の声らしいのだ。



どうやら背後のテーブル席から聞こえて来るらしい。



最初それは、あまりにも二人の事を考え過ぎた私の耳にだけ聞こえる幻聴かと思った。



しかし珍しく客へ顔をしかめる店員の表情を見て、それが幻聴ではないと胸をなでおろした。



そしてまた私は恥ずかしげもなく、彼らの会話を盗み聞きし始めたのだ。



それは、確かこんな内容だったと記憶している。




「どうしてもダメかね。タカラベくん。」



「どうしても。ですわ先生。」



「ふむ。困ったね。」



「何を困ることがあるんです。」



「身体が、ひいては精神その他諸々が全力で拒否している。」



「でもお仕事ですので。」



「このまま京都でも行って観光をして帰るというわけにはいかんかな?」



「いきませんわ。」



「だろうなぁ。」



「先生。こちらの件は牛すき弁当を食べないのとはワケが違いますよ。」



「だろうなぁ。」



「先生。私たちのここまでの旅費、諸々の雑費。ひいては今月分の私のお給料の一部を担っているのが今回のお仕事のギャラですのよ。」



「なにも今回の仕事だけではあるまい。」



「だから一部ですと。」



「ふむ。」



「高額なギャラを気前よく前払いだから引き受けといて、それらの大半を使ってからやっぱり嫌だなんて。子供でもしませんわそんなこと。」



「ふん。詭弁だよタカラベくん。子供に舞台の批評が書けるものか。」



「ですから。これで批評が書けなければ子供以下ということです。」



「キミはつくづく有能だな。」



「お褒めいただいて光栄ですわ。このままスムーズに劇場まで行っていただけるともっと嬉しいですわね。」



「嫌だなぁ。」



「そう言わずに。」



「嫌だなぁ。」



「さあさ。もう駄々をこねてる時間もありませんよ。」



「そうだろうそうだろう。だからこうして時間を稼いでいるんだよタカラベくん。どうだ参ったか。」



「では失礼して。」



ガタッ



「ななななんだいきなり!やおら立ち上がって何する気だ!?なんだその構えは!?空手か?得意の空手か!?」



「仕方ありませんわ。」



「なんだ!それはなんだと聞いている!暴力は反対!ぼくを気絶させて運び出す気だな!」



「ええまあ。だってこうでもしないと。」



「わかった。話そう。もう少し話そう。まだ余裕はある。せめて五分の猶予をくれまいか。理由くらい聞いてくれ!」



「どうぞ。五分だけお待ちします。」



「感謝する。ハァハァ。つまりこうだ。あの舞台はもう、磨耗し擦り切れてしまっている。ハァハァ。退屈以上に苦痛なのだよタカラベくん。」



「磨耗。ですか。現在の先生も随分擦り切れてますわ。」



「そうなんだよ!え?・・いや、やり過ぎなのだよキミ。上演を。今回でえーと…何回目だったか」



「9000回。ですわ。」



「そう!そうだ。いくらなんでも多いとは思わんかね?」



「確かに少々多いとは思いますが、逆にそれだけ支持されているということでは?9000回にも及ぶ上演となると、名作と呼ばれてもなんらおかしくないレベルですわ。」



「否。断じて否だ。いや確かに名作には違いないのだよ。しかしキミ。原作が原作だ。たかだか子供向けアニメだ。それ自体に、9000回の上演に耐え得る深みと奥行きはないのだよ。」



「あら。先生にしては随分乱暴ですわね。それは偏見でありませんこと?子供向けだろうと作品の良し悪しは正当に評価すべきでは?」



「そうなのだ。いやまさしくその通り。しかしキミ聞きたまえ。作品としてはまあ面白いよ。だがね。歴史に残る作品とまではいかんだろ。そこまでの内容じゃない。」



「はあ。」



「まだある。何も偏見や個人的な理由から不当な批判してるのではないよ。ぼかぁこの舞台の9000回の上演のウチ、5回には立ち会っている事になる。」



「結構ご覧になってるんですね。」



「最初の頃は良かった。1000回記念の公演も、凄まじい緊張感に包まれた良い舞台だった。」



「なるほど。」



「しかしその次に呼ばれた時だ。5000回記念辺りから雲行きが怪しくなってきた。」



「主にどういった点ででしょうか?」



「内容が変わってないんだよタカラベくん。」



「オホホホ。当たり前ですわ先生。変わってしまったらロングラン公演になりませんことよ。」



「しかしねキミ。5000回だぞ。そんな回数をこなしてみたまえ。細かい粗がどんどん出てくる。まあそれは直せばいいさ。素人には解らない様にね。」



「そうですわね。」



「だが目立つところとなれば話は別だ。」



「大筋で何かおかしなところがありまして?」



「いや。だが全てが中途半端に古臭い。脚本も演出も全てだ。」



「まあでも仕方ありませんわ。そこを変えてしまったら、根底を覆す事になってしまいますもの。」



「だからさタカラベくん。だから嫌なんだ。そりゃあの当時は演出も奇抜で、脚本も随分と冒険してる様に感じた。作品の世界観自体も斬新だったよ。」



「話題になりましたもんね。」



「だが今ではそうじゃない。あのような作品は有り触れたものになった。」



「時代は新たな名作を生み続けますからね。観る側の感性も変わっていきます。」



「だがあの作品の時は停まったままだ。回を重ねるたび、内容の薄さが追い打ちをかけ観ているのが苦痛になるほどさ。」



「それはそうなのかもしれませんが。」



「演出だって脚本だって。今では古臭い手法でただ滑稽なだけだ。続けるべきじゃないんだよ。あんなもので感動できるもんか。」



「それは人によります。それに古臭いと言っても、もっと古典の作品が現代でも繰り返し上演されてる例もあるじゃないですか。」



「モチロン。だがねタカラベくん。アレらは常に最新の演出が凝らされているし、長い年月を経て内容が不可解なまでの深みを増している。まさに不可解そのものだ。それ故アレらは不朽の名作と呼ばれるんだ。」



「仰る意味が理解できません。」



「だからそれだよタカラベくん。意味が解らないから良いんだよ。」



「はあ。」



「ところどころ意味が解らないのが古典の魅力なんだよタカラベくん。観てる方に解釈を委ねるのさ。」



「なんだか無理矢理ですわね。」



「そんな事はない。アレは古典と呼ぶには不可解さが足りないし、最新と謳うには古臭い。あらゆる点で中途半端なのだ。」



「そうでしょうか?」



「そうとも。キミが秘書になる遥か前からぼかぁこの作品の批評を書いているんだぞ。」



「はい。」



「最初は生き生きと人物を演じていた役者達が、世代が変わっていく毎に演じること自体が段々と儀式的なものになっていくのを感じた。」



「まあある意味儀式でしょうね。あれは。」



「気味の悪い光景だよ。海外産の能を見てる様だった。最初とは大違いだ。」



「記念すべき初回公演はご覧になられていたので?」



「モチロン。それはもう素晴らしかったよタカラベくん。あの時は家に帰るなりすぐさま机に向かって書いたね。溢れ出る想いを原稿用紙にぶち撒けた。」



「では今回もそうしていただければ結構です。簡単じゃありませんか。」



「何が簡単なものか。こんなに難しい事は他に無いぞ。いいかねタカラベくん。思ってもいないことを原稿用紙に書くのは精神を貧しくしていく。そしてそれで稼いで食う飯は、どんなに高級なモノであれ決して旨くないのだ。」



「何を今更。駆け出しの若造のような事を仰いますのね。先生。あまりに方便が過ぎますよ。バカバカしい。」



「なんと。キミはそれでもぼくの秘書かね。嘆かわしい。」



「私は先生の秘書であって心の声ではありません。煩わしい。」



「とにかく。ぼかぁ前回の、えーっと何回目の公演だったか…」



「7000回目ですわきっと。」



「そうだそうだ。あの時の舞台を観て決めたのだよ。金輪際、もう観るものかとね。批評も書かないと。」



「先ほどから聞いておりましたが、一つ訂正させていただきたい箇所がございます。」



「なんだねタカラベくん。聞こうじゃないか。」



「先生は先ほどから『書いた』とか『書きたくない』と仰ってますが。」



「ギクッ。」



「ここ五年ほど、先生の批評は全て代筆された物じゃございませんこと。」



「そっ、それは・・・」



「その代筆の大方は奥様で、最近は私も恥ずかしながら協力させていただいております。」



「それはキミ、言わない約束で・・・」



「先生は過去の栄光で着飾った傀儡に過ぎませんのよ。言わば名義貸し。」



「ぐう。」



「ですから大人しく、残り少ないご自分の務めを全うしてくださいませ。」



「断る!ぼくにだって批評家としてのプライドがある。社会科見学の慰み物になっている舞台なんぞの、批評を書く必要はない!」



「先生は書かないから構いませんでしょう?そのような陳腐なプライドなぞはお捨てなさい。一銭にもなりませんよ。」



「黙れ!ぼかぁキミの上司だぞタカラベくん。これは業務命れゴフっ・・・」



「・・・」



「タ・・カ・・ラ・・」



「五分経ちました。お時間です、まいりましょう先生。」






入り口の鈴が鳴ると同時に私も外へ飛び出したが、人通りの多さに見失った。



ついぞ彼らの姿を見ることは叶わなかった。



あれ以来、私はイヤホンを耳栓代わりに使わない。



また一つ、要らん癖が増えてしまったせいだ。



人の会話を盗み聞きするという要らぬ癖が。



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