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アラクネ 或いは アラベスク  作者: 百花蜜
5.HELICE(エリス)
8/11

 舖を出た後、ちせは細路に入っていった。花詞からそう遠くない路地裏の、雑居ビルの間と間だ。悠理は狭さに戸惑いながらも、少女の後を追うしかない。

 どうやら飲食舖街の裏側らしい。勝手口が連なり、差し込む光は薄暗く、鼻をつくのは腐臭。積まれたゴミ袋やポリバケツから漂ってくるのだ。それを懸命に漁るのは痩せた黒猫だったが、悠理たちに気づくと一目散に逃げていった。

 この街での暮しは長い悠理だが、裏路地の存在を知らなかった。建物の隙間を縫い、複雑な経路が在るとは驚いた。時には身体を横にしないと進めないほどに狭い路もあり、汚水の水溜まりを踏んでしまったりもした。けれどちせは慣れているようで、かろやかな動作と歩調で進んでゆく。

 ちせが立ち止まったのは突然だ。

 これまで通り過ぎてきた裏口とは、おもむきが違う。大仰な扉があり、布貼りの庇ひさしがあった。布は雨風で汚れたのか元々の紫色はくすみ、庇を支える鉄管も錆びている始末だが、布地の刺繍模様は豪奢である。建物自体も古くはあるが、見上げれば高さもあり立派だった。コンクリート造りの壁は狭路地から望む空を覆い隠そうと迫っている。

 ちせは流線型に拵えられた、植物の蔓草を模したような意匠の把手を掴む。重厚な扉は開かれるとき、ギイイ、と耳障りな音を漏らした。

「どうぞ」

 促された悠理は、呆気にとられながら踏み入る。少しばかり緊張も感じて、唾液を飲み込んだ。内は細長い廊下が続き、寒々しい廃病院を彷彿とさせる。ちせは悠理の後に続いた。

 蛍光灯は光尽きかけており点滅を散らし、仄闇ほのやみのなかに二人の陰を浮き上がらせる。波紋が広がるように静かな空間に鳴り渡る足音。

「めずらしい構造だな」

 悠理の発言も響いてゆく。

「仕事上ね。警戒しているのよ」

 無論、その返答もこだました。

 突き当たりの鉄扉に辿りつくと、天井から吊り下がる監視カメラに睨まれる。来訪者は見定められ、迎えるかどうかを判断されるらしい。

「あたしは住人だから、簡単に入れるけど。ユウリひとりじゃ絶対に無理。一見さんはお断りなのよ」

 ちせが壁の呼び鈴を慣らせば、しばらくの後に鉄扉は自動的に開いた。奥に広がるのは白と黒が織りなす市松模様の床だ。いきなりに内装の色彩いろが変わった。ソファと円卓の組み合わせが幾つも配置されている、ロビーらしい雰囲気だ。

 観葉植物の隣には受付もあり、黒電話を置き、受付嬢アリスが座っている。

 ……その出で立ちはまさしく、不思議の国のアリスなのだ。パステルカラーの水色ワンピースを着て、縞模様のニィソックスを履いている。年齢としごろは悠理よりも幼げに見えつつも、妙な色気も漂わせていた。

 ちせといい、この少女といい、彼女達は老けているのか若々しいのかが分からない。

「アリス、ママは居る?」

 受付の卓に肘を置き、ちせは尋ねる。やはりアリスという名前なのか、と悠理は思った。

「ええ、チセ姉さま。今日はラズベリィパイを作るって、お台所に閉じこもっていらっしゃるわ。七番目の愛人に振る舞うのですって」

 済ました風に答えてから、アリスは愛玩具アイドルのようににっこりと微笑み、悠理に会釈をしてくれる。悠理もそれを返し、気付いたのはアリスの手元にある幾つかの押釦ボタン。入り口扉の解錠を操る操作盤らしい。傍らには監視カメラからの映像を流すモニターも置かれていた。

「ふうん、ママって幾つに成っても、乙女だわ」

「ところでお姉さま、この方が黄金豹の皇子さまなのね?」

 アリスの問い掛けに悠理はむっとする。

 ちせは少女に、花詞にある絵画の話を教えているのだろうか。あの画のことはあまり広めて欲しくないのに。

「おい、俺のことを……どんな風に話してるんだ」

 悠理の言葉を無視し、遮ってちせは答える。

「その通りよ、アリス。あたしの花婿に成る男性ひとなの」

 腕を掴まれながら言い切られた。絡められ、寄り掛かられてしまう。

「また妄想癖か!」

 悠理はため息を零し、嘆きながら、ちせを押し返した。するとちせは真剣な表情を見せてくる。

「あたしは本気よ、額縁の中からあなたを解き放ってあげたいわ」

 再び密度が寄せられ、鼻先が触れるほどの間近で告げられた。

「余計なお世話だ。俺の問題に口を挟むな、ちせには関係ない事だろ」

 アリスの前だというのに、声を荒げてしまう悠理だった。けれども、ちせは動揺を見せない。

「そうね、ユウリの問題だわ。だけど……あたしの中に一歩踏み入れたら違う景色も見える筈よ。今のユウリは巻町六花の近くに居過ぎてるの。他の女性おんなもお知りに成ったらきっと気持ちも、少しは変わると思うわ」

 毅然として述べられ、返答に詰まった。意見はすうっと悠理の胸に染み入り、しばし呆然としてしまう。

「どうして……」

 やっと零したのは、そんな台詞。悠理は我ながら格好悪く感じた。

 何故、ちせには色々な事柄を見透かされてしまうのだろう。

「云ったでしょう、昔のあたしに似てるって」

 ちせは妖しさを含んだ微笑を零し、受付横の螺旋階段を上りはじめる。……悠理は従うしかない。悠理の履いている革靴と、ちせの木底靴との足音が反響しては鳴り響き、追複カノンを奏でゆく。階層を昇るほど、辺りの様相は現実離れを引き起こす。生活感が全くないばかりか、夢に迷い込んだかのような空間が広がっているのだ。

 2Fの照明は血の色。廊下の両側には無数の扉が並び、床はモノクロの市松模様で、どことなくホラー・テイストを感じさせた。3Fは海色の照明で、波間を漂うかのような波紋が壁に映っている。そして4Fはゴシックのイメージ。薄闇に鉄格子が続き、ゆらめくのは蝋燭の灯だ。黒いレースとフリル飾りの暗幕も飾られ、ヴェルヴェットの玉座に座る髑髏のオブジェと、黒い鴉の剥製もある。

「お客様のどのような趣味・主義・嗜好にも、お応えできるようにとママがたくさんのお部屋をそろえているのよ」

 何でもない事のように云い、ちせはさらに上を目指す。悠理は戸惑い、鉄製の手摺りを握りしめた。

 女衒の意味を紐解いたときの予感が的中した。棲み家に足を踏み入れたら、おかしな目に遭うかも知れない。警戒心は今更ぶり返して、倍増してゆく。

「娼館〈アラベスク〉へようこそ」

 振りむいたちせは、戸惑い続ける悠理に向け、悪戯っぽく笑った。

「此処があたしのお家よ」

 悠理はしばらく、階段途中に立ち止まったまま、ブラウスの背を眺める。このまま彼女と共に進んで、良いものだろうか。

 だが引き返すのも癪だ。

 怖がって逃げ出したなんて思われたくはない。

 幾らかの迷いを断ち切り、悠理は踏みだす。

 吊り下げられた洋燈ランプの灯に、後ろ姿のちせの髪色が透き通り、金の絹糸のように煌めいた。

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