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アラクネ 或いは アラベスク  作者: 百花蜜
5.HELICE(エリス)
7/11

 幼い頃、同じ年頃の子供たちを睛に映すたび、悠理は羨望を感じていた。例えば公園の砂場で戯れる母子や、参観日に詰め掛ける母親達。

 彼らのすべてが、巻町との関係とは異なる。純粋さに溢れている。

 淫欲を解さない愛情が在る。

 それに比べて自分は……歪みきっている。淫靡な被写体モデルとなり続ける日々。玩具にされ続けた。悪戯は芸術の範疇を超え、とどまることを知らず、歳月と共に増してゆくばかりだ。避妊が必要と成ったときに見せた巻町の嬉しそうな顔を、今でも忘れられない。思い出すたびに反吐が出る。


 あの女は、最悪な淫売婦だ。


 事実は痛いほどに分かっていた。

 擦り寄ってくる肌には嫌悪感さえ感じている。

 けれど、彼女を切り捨てられない。快楽に丸め込まれているのもまた事実であり、何かの弾みで気まぐれに差し出された母性だとか優しさも嬉しく、手を離せない。切に望む愛情の形は永遠に与えられないと、分かり切っているのに……悠理は、受け入れることも別離はなれることも出来ない自分自身を惨めに思うと同時に苛立った。

 抱きしめられるたびに恋慕と嫌忌が交錯する。

 独りきりの自室、色々と考えていると、脳裏には巻町が溢れゆく。彼女の肉感的な肢体。

 色香、感触、惑わしの手管、娼婦めいた科白の数々。

 悠理はこれ以上記憶を蘇らせたくなくて思考を停める。立ち上がってシャツを着た。目覚めてからずっと下着一枚で寝転がっていたのだ、学校へも行かずに。

 今日はちせとの約束の日である。夕暮れにマンションを出ると、待ち合わせ場所へと向かった。

 ぶらぶらと大通りを歩き、花詞前の喫茶舖に入る。

 先日にちせが座っていた屋外テラスではなく、自動扉を潜った。幾つもの小さな円卓が配された空間フロアが広がる。窓際席を選び、注文したのはアッサムのミルクティ。通り過ぎる往来を観察ながめながら、味わい時間を潰す。ちせが来る時刻までには未だ余裕がある。

 登校の時間を過ぎても、寝台ベッドから出られなかった。巻町のアトリエを訪問したあの日からずっと倦怠感に蝕まれている。何をするにしても怠い。もし学科の単位を落としてしまっても、大した問題ではなかった。期日迫る巻町との訳の分からない選択に比べれば、小さなことだと思えてしまう。

 ジーンズの後ろポケットに仕舞った革財布には、渡された航空券も入れている。渡航を拒めば、きっと彼女とはもう逢えないような気がした。予感に過ぎないが、確信に近いものを感じる。愛人との永訣は生みの親との永訣も指すのかもしれない。そうなれば、二つの意味で縁を断ち切ることとなる。

 悠理はため息を零すと、財布を卓に取りだした。鞣皮の表面を指先で弄っていると、近づいてくる足音に気付く。

 がさがさと両腕に下げたショッピング・バッグの擦れる音をさせ、表れたちせ。今日はレースのブラウスを纏い、スカートは黒のシフォン。小さな顔には斜被りのベレー帽が良く映えていた。

「ずいぶんと早いのね、ユウリ」

 目が合うと、椅子を引きながらちせは微笑う。つられて悠理の唇もごく自然に緩んだ。

「暇だったんだ。学校を休んだから」

「ふぅん。ねぇあたし今日MILKミルクのスカート買ったのよ」

 向かい合わせに座るなり、ちせは袋を置いてタグ付きの衣服を取り出しはじめる。パステルカラーのミニスカートには、様々な果実が描かれていた。柑橘、林檎、檸檬……。他にも様々な衣類を取り出しては見せ、取り出しては見せ、何故これが気に入ったのか、ディティールの何処に惹かれたのかを愉しそうに語る。そして披露が終わるとまた元通りに綺麗に畳んだり袋に仕舞ったりして元に戻すのだ。お絞りとグラスの水を運んできた給仕には、姫蔓苔桃アプリコットのジュースを頼むちせだった。

 巻町に慣れている悠理は、突然にはじまる女の長話に対し、大した苦痛は感じない。

「令嬢みたいだ。そんなに自由に買い物して」

 落ち着いた後、悠理は呟く。ちょっとしたファッション・ショウを観賞したような気分である。

「残念でした、貧乏人の生まれよ、あたしは」

 ちせはくすくすと笑う。

「食べるものにも困る位の生活。おうちは四畳半しか無くて、ガスも電気も停められるのよ、最後なんか公園の水飲み場に薬罐やかん持って行って、汲んでる位だったんだから」

 軽い調子で過去を打ちあけられた。余りのあっけらかんとした話しぶりに、悠理は嘘なのか真実かを計りかねるほどだ。

「売られる訳よ、……だけどあたし、売られて良かったと思うの。あたしの本当の人生はママに買われた日から始まったのだから」

「女衒の意味を調べた」

 真昼の珈琲店で出す話題では無いかもしれない、悠理は少し声を潜めた。あら、そう、とちせは頷く。

「俺のしらない世界だと思う。現代に、現実に、そんな生業が在るなんて……」

「皇子さまは世間知らずって、相場が決まってるわ」

「なんだよ」

 云い方に、悠理はむっとする。

「ユウリが思うより、闇というものは深いわ。深淵は迷宮の奥に潜んで、残酷に咲いているのだから」

 思わせぶりな言葉だ。給仕によって姫蔓苔桃のジュースが運ばれてくると、ちせは静かに口を付けた。

「見せてあげる。あたしの生きている世界は、闇に包まれているから」

「闇って?」

「第三幕はユウリが闇を知るの」

 提示される、新たなシナリオ。ちせは相変わらずに謎めいた少女で、奇妙さと不思議な空気を振りまいている。

 しかし、そんなちせの姿を向かいに眺めていると、悠理の心は幾らか休まった。このところずっと濃厚で濃密な憂鬱を抱えていたはずなのに、安らぎを感じるのだ。

 巻町という強烈な存在を中和し、解毒するのは、同じく強烈な色彩を持つ、ちせのような少女が丁度良いのかも知れない。

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