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アラクネ 或いは アラベスク  作者: 百花蜜
4.ATERIER(アトリエ)
6/11

 植物園の散策を終えると、来月に逢瀬をする約束を交わした。

 次はあたしのお家に来ると良いわ、ちせはそう云って悠理よりも先に帰りのバスを降りる。

 彼女に興味を持つ自覚は否定できないが、同時に警戒もする。帰宅後に辞書を引き〈女衒〉の意味を知った。

 話の内容が真実ならば、女装淑女の生業はまともな職ではない。そんな相手の棲み家などに足を踏み入れて、おかしな目に巻き込まれないだろうか。けれど、孕む幾つもの謎を紐解きたくもある。

 ちせの登場が、禁忌への苦悩に充ちていた悠理の日常に新鮮な風を送り込んだのも確かな事実なのだ。

 慢性的に鬱屈していた心持が、少しばかり紛れた。

 ……そんな悠理の変化を、巻町が見逃す筈がない。

 母親らしさなど皆無の癖に、僅かな異変にも敏感に気付く。

 たとえば友達と遊びたくて、適当な嘘を吐いてごまかせばいつも勘付かれた。その度に粘着質に責められ、場合によっては泣かれたこともある。本当に面倒な女だ。

 今回も案の定、見透かされたらしい。週末に悠理は呼び出された。

 水曜以外に逢おうと言われることは殆どなく、それは非常事態を意味している。寄越されたメエルには『アトリエに来るように』との短文のみで、彼女の不機嫌さをよく表していた。

 気乗りしないが、すっぽかすわけにもいかない。知らぬふりをすればどんな目に遭ってしまうか。考えるだけでも恐ろしい、ヒステリーを起こし金切り声を上げての号泣には毎度のこと、うんざりしている。

 何しろバレンタイン、同じ塾に通う女生徒にチョコレートを貰うだけで嫉妬して、髪を掻毟かきむしり怒る女性ひとだ。

 悠理には向かうという選択肢しかない。都会を離れた山あいの、郊外に在る巻町の創作場へ。昼下がり、普段の生活ではあまり利用する機会のない私鉄に乗り込む。

 空席の目立つ車内に座ると、向い合わせの硝子窓を眺め過ごした。

 映る景色は流れて、しだいに長閑な田園風景へと切り替わってゆく。群列していたビルの姿はすっかり消え、緑が増える。ときおりに停まる駅もこぢんまりとして、旧めかしいホームが連なった。無人の駅も多い。

 目的地である、辺鄙な町に着いたときには、すでに陽は傾きかけている。山間は赫い夕陽に染められ、まるで燃えているかのようだった。

 悠理は駅員に切符を渡し改札を抜けると、記憶をたよりに歩きはじめた。何しろ、水曜以外に逢瀬を請われることも、此処に来るのも久しぶりだ。

 定食屋と居酒屋、本屋が連なっているのもわずかな間で、すぐに辺りは畦道になる。途中で日焼け跡の鮮やかな子供たちとすれ違い、他所者はめずらしそうに観察された。

 やがて、見えてきた日本家屋。

 茂る林を背後に、ずっしりとした外観を広げている。独りで住むには広過ぎるであろう、この屋敷こそが巻町のアトリエだ。玄関横には水を張った瓶が置かれ、浮かぶ睡蓮に赤、黒、ぶち、何匹かの金魚が戯れている。呼鈴ベルはなく、悠理は引き戸を叩いた……が、反応はなく、戸を開けてみた。巻町には悠理の暮らすマンションを訪れる時同様、鍵を掛ける習性は無いようだ。

「……巻町さん」

 呼んでみたが、土間には自分の声が響くだけ。

 がらんとした空間に一歩踏み入れると、油絵具の匂いが漂う。悠理は靴を脱ぎ、内に踏み入った。

 藺草を編んでつくられた茣蓙ござを踏み、彼女を探すために一間一間覗く。家具は殆どなく、置いてあるのは絵画ばかり。額に入れられた完成品から、塗りさしで放られたもの、下書きのもの。積み重なっているのはクロッキーの画帳で、色とりどりのチューブなど、絵具類も溢れていた。天井まで届く本棚が理路整然と並ぶ一室もあり、大判の辞典から文庫本までが収められている。

 巻町は読書家でもあり、それが悠理の父と親密になるきっかけになった。悠理の父は国語教師を職業なりわいにしている。

 やっと見つけた姿は、やはりと云っていいのか、相変わらずと云うべきなのか。画架に向かって絵筆を執っている。斜陽射し込む白壁の部屋で、丸椅子に腰掛けた背中があった。

「招よんでおいて、無視はないだろ。一体何の用なんだ」

 近づいて、声を掛けると手が止まる。傍らの六角卓テーブルに、巻町は画具を置いた。

 静寂に、かたん、と物音が染み渡る。

「動揺しているの、私」

 巻町はふるえている。悠理は眉間に皴を寄せた。

「いつかは来ると思っていたわ。仕方ないことね。悠理を閉じこめることは……できはしないんだから」

「何の話か、分からない」

「画の中にはいつまでも閉じこめられるけど……現実の悠理は成長かわっていく。少年でさえも無くなっていく」

「俺は生きてるんだ。あんたと同じように歳を取る。大人になるのは当たり前だ」

 巻町の言おうとしていることがよく分からないまま、悠理は語調を荒げた。いつもは巻いたり、シュシュで纏めたりしている豊かな黒髪は今日、ばらばらと下ろされたままだった。うな垂れる動作に従って、その髪も流れる。

「そうよね、繋ぎ止めておくことなんて無理な話ね、……私ったら自由奔放に生きてきたつもりだったけど、嫌だわ、自分でも知らないうちに貴方に縛られていたみたいだわ。そして生みの親の特権として、ずっと独占できるのだと思い込んでいたの」

 独白めいた科白のあとに、添えられるため息。

 悠理の心には、恐怖にも似た感情が走った。

 独占?

 この女はなにを云っているのか、少しだけ慄き、後ずさりをしてしまう。

「花詞の店員さんに聞いたわ。悠理、舖の前で女の子と待ち合わせしていたらしいじゃない」

 ……ちせに話しかけられた日のことだろう。ちせは初対面にも関わらず腕を絡ませてきた。目撃した者が、悠理とちせを見知った仲だと感じるのも仕方ない。

「無理矢理に押し掛けられたんだ。あの日は初対面で」

「見え透いた嘘。もう少しまともな嘘が吐けないの」

「違う」

 どうやって誤解を解こうかと、思考回路を急速に廻す。けれども巧い説明が思い浮かぶ前に、巻町は椅子を立った。

「舶来品の飴も、彼女に貰ったものなのね」

 悠理を通り過ぎる、表情のない横顔。彼女の姿形は実年齢よりも若く見える。そして悠理の面影を目鼻立ちに感じさせた。

「ショックじゃないと云えば……嘘に成る。私以外の女に貴方が触れるだなんて、厭よ。だからこそ初等部のうちから男子校で学ばせて、虫が付かないようにもしたのに。あの人にも指示したの、家政婦は雇わないでと。貴方のお世話を第三者ほかの女にさせたくない。悠理を誰にも渡したくないと思ってた、私だけの宝物、愛しているわよ。貴方とは一線を超えてもいいと思った」

 すらすらと紡がれる言葉はどれもが勝手な愛だ。悠理はおのれの眉間に皴が寄るのを自覚する。

「とっくに超えてるんじゃないのか、そんな線!」

「更に超えたいわ!」

 巻町は籐製ラタンのチェストへと歩み寄り、座面に置かれた封筒を手に取った。

「私、フランスに渡ろうかと思ってるの」

 彼女の云うことは、突飛なことが多い。まるで子どもの思いつきの様に無邪気だ。

「暮すって。引っ越すってことか?」

「そう、永住。良かったら悠理も一緒に来て。誰も私たちのことを知らない街で、恋人のように暮すのよ。血の繋がりは棄てましょ」

「……狂ってるよ、あんたは」

 悠理は吐き捨てた。

「俺は巻町さんにそんなものを求めてはいないんだ。巻町さんは俺を一方的に……俺の気持ちなんか理解ろうともしないよな。俺のことを愛してるって云うけど、その愛は虐待でしかない。自己満足の愛情を押し付けているだけなんだ!」

 迸る感情のままに、悠理は告げる。

 巻町の表情は変わらない。澄まし顔で、封筒を渡してきた。

航空券チケットが入ってるから。来月までにめて」

「何を極めるんだ」

「私を選ぶか、白金のヴィヴィエンヌを選ぶか」

「だから、ちせとは何の関係も……!」 

 無理矢理、制服のポケットに封筒を差し入れられる。間近に迫る巻町からはいつも通り、白蓮の馨りがした。彼女が好んで良く纏う、練香水の芳香。

「ちせちゃんって云うのね、彼女」

 耳元に囁きを残し、巻町は創作室を出ていった。悠理は重苦しい憂鬱に包まれる。ふと顔を上げれば、画架と目が合う。描かれている立位の少年は間違いなく、アティスそのものだ。花詞にあるアティスとは違い、性器を隠しもしていない淫奔な姿。露わに寝台に横たわって、優艶な風貌を醸している。

 悠理はペインティング・ナイフを掴むと、少年に突き刺した。

 巻町の作品に対し、暴力を振るったのは初めて。

 それほどまでに心持は揺さぶられ、困惑していた。

 苛立たしくもある、胸の内が煮えそうな程に熱い。

 ナイフを抜き、傷付いた裸身を見つめつつ思い出した。ちせは云った、昔の自分とアティスの姿が似ていると。

 

 そしてこうも云った。アティスの呪いは解ける……


 悠理は、ひどくちせに逢いたくなった。慰めでも、呪文のように再びその科白を告げられたい。

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