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展示物の生態に合わせ、温度と湿度は高かった。茂る熱帯植物と、浮游する見慣れない紋様の蝶。極彩色の花々も処々で咲いて、疑似的な異国を形成している。
プラタナスの葉を指先でなぞり、悠理は宙を仰いでみた。天井は高く、鉄骨と硝子とが幾何学に組み合わさっている。
此処から望む空と、グラウンドから見上げた空は同じもののはずなのに、悠理にはまるで別物のように思えた。碧さが違う気がする。人工密林に囲まれて、普段とはちがう空調の中で見上げるそれは痛いほどに研ぎ澄まされた碧に見えるのだ。
「植物園に来たのは、はじめてなの?」
額に滲んだ汗を拭ったとき、傍らを歩くちせに話しかけられる。
悠理は頷いた。
「ああ」
「へえ、意外ね。皇子さまの画には草花も描かれているじゃない、あたしが妄想する貴方は、いつも熱帯林に佇む姿だったわ」
「云っているだろ。俺は、アティスじゃないって」
夢見がちな物言いのちせを、悠理は一蹴する。確かにモデルを務めてはいるが、混同されるのは嫌だった。
「玉座があるの。今は滅びた幻の都よ。朽ちた城には緑の蔦が這い回ってる。其処にアティスは未だ佇んで居て、愛玩物の黄金豹を抱いてるわ」
「妄想癖が酷いんだな、」
「豹の睛よりも鋭いの。皇子さまの眼光は」
うっとりとした様相に呆れてしまう。
ちせは鎧輪をはめた指を口許に当て、くすくすと微笑み続ける。
白金の髪はまるで精練された美しい絹糸を集めたかのよう。毛根から一色で、染めたものには思えない。長い睫毛も髪と同じ色をしていて、光の加減により透けているようにも見えた。
「そういえば歳は?」
気になっていたことの一つを、ぶつけてみる。
「あら。つまらない質問」
「何にでも答えるって、云ったじゃないか」
「幾つだと思う?」
逆に訊き返された。孔雀椰子の傍らを通り過ぎながら、悠理はしばし考える。
「俺と、同じ位だとは思うけど」
「じゃあ、それが正解」
「答えになってない」
「次の御質問は?」
おどけた風にちせは云い、悠理は肩をすくめた。
「地毛なのか、髪の色は」
順路は濃緑を増していく。だんだんと悠理は、まるで本当の亜熱帯に迷い込んだかのような錯覚に追い込まれる。平日だからか来園者が少なく、だれとも出会わないことが余計に悠理を陥れた。
いつのまにか自分の前を歩くちせの水玉ワンピースが、ランシフォリアの模様に擬態する。木底靴の歩音と葉擦れだけが辺りに響いてゆく。
「ええ。生まれつきに色素が足らないの。両親は墨のような髪色をしていたし、肌も地黒。あたしは突然変異なのよ」
振り向かず、ちせは喋る。
両親?
悠理は不可解に思う、先日出逢った淑女は白磁のような肌をしていた。喪服調の装いをしているせいで肌色は余計に際立ち、漆黒との対比は鮮やかな程だったのだ。
「そうかな。母親は色白に見えたけど」
「ママは、本当のママじゃないの」
ちせは立ち止まりもしない。素っ気なく云って、歩きながら喋りつづける。
「あのひとのお仕事は女衒なのよ」
「ゼゲン?」
言葉の意味が分からなかった。
ちせは振りむき、悠理をちらと見る。
「あたしはあのひとに買われたの。今よりも小さな頃に」
目の前を横切っていく何匹かの蝶。その内、二匹の蝶は羊歯に止まり、肢体を逆さに重なり合った。交わいの形だ。
「アティスに惹かれたのは、むかしのあたしに似ているから。皇子さまは淫靡で、それでいて憂いのお貌をしているじゃない、それなのに威嚇するような目つきをして、棘々しさも振り撒いて」
やっと、ちせは止まった。従って悠理も止まる。
あの画についての感想を、そんな風に云われたことはない。
父親と花詞の女主人はただ、賛美するのみだった。綺麗な絵画だと述べるだけで終わった。
「皇子さまは見つめている。そうよ、辛そうにしながらも。アティスの視線の先にいるのは……」
「やめろ……!」
悠理は表情を歪める。
それ以上、ちせの言葉を訊きたくなかった。胸が苦しい。自分でも認識していなかった心の裏側、脳裏の深層に踏み込まれてしまう。目の奥もきりきりと痛んだ。
「云わないでくれ。俺はどうしたらいいのか分からないんだ……」
悠理は両の手を頭に伸ばし抱え込む。出逢ったばかりの少女に核心を突かれ、混乱しているという事実にまた困惑する。肌に迫る亜熱帯の湿度空間。巻き付く暑い空気が、余計に悠理を追いつめた。
苦悩はじっとりと、汗ばんでゆく。
「大丈夫よ」
ちせの声は優しい。
「貴方もそのうちに解き放たれるから。終わらない闇など無いわ。あたしみたいに、アティスだって、血縁の呪いが解ける筈。夜明けは案外、近づいているかも知れない」
諭すように云って、接吻を呉れた。
悠理は柔らかな感触を受け入れる。血縁の呪いとはどういうことなのだろう。分からない。アティスは昔の自分のようだと云われても。
……まさか、ちせもまた、自分と同じように。
近親からの歪愛を受け止めていたのだろうか、悠理は瞼を伏せながらも勘付いた。