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その日、悠理は昼前で授業を放棄し、下駄箱へと急いでいた。
珈琲牛乳の三角包装は飲みさしだったが、屑篭に棄ててしまう。階段を降りたった先、開け放ちの土間の戸から広がるグラウンドは陽光に照らされきらきらと眩しい。上履きから靴に替えて踏み出すと、光は青葉を透かし悠理にも注いだ。
悠理には今日、どうしても行きたくなった場所がある。
たまたま見かけた、渡り廊下に掲示されている一枚のポスターに視線が留ったのがきっかけだ。アール・ヌーヴォーの意匠にまとめられた其れは、市立植物園の宣伝紙。
惹かれた悠理は赴いてみたくなった。そういえば植物園に行ったことは無い、と気付く。隣接する動物園には遠足等の行事で幾度も足を運んでいるのだが、蔦絡む植物園の入場口の向こうに入った経験は一度も無い。
南洋の緑溢れる其処を彷徨えば、憂鬱に染まるこの心も、少しは癒されるだろうか。渦巻き続けている悶々とした感情に対して、幾分かは気晴らしになるかも知れない。好奇心も満たせるし、ちょうど良い目的地を見つけたと歩は弾む。
鳴り響く予鈴を背に、バス停への経路は近道を選択した。古ぼけた商店街の中を通り抜けてゆく。かつては大変に繁盛をした舖並みらしいが、今は廃れてしまい、歩く人もまばら。シャッターの閉じた軒も多く、閑散とした印象を受ける。
錆びたアーケードを抜けた処で、不意打ちの逢瀬に見舞われた。
件の少女と出会ったのだ。
(あ……っ)
視界にその姿を認めた瞬間、悠理は呼吸を飲む。
印象的な白金髪の彼女は今日、水玉柄のワンピースを装っている。
紺地に白の水玉で、タイツは黒色だった。腿に置いたハンドバッグには宝珠のワンポイントが輝き、足元はというと、先日と同じ木底靴。
まるで、待ち構えられていたという風な再会い方である。
バス停前に置かれた、汚れの目立つ年代物のベンチにちょこん、と座っており、視線を悠理へと向けてきた。
「こんにちは、皇子さま」
立ち上がる少女を、悠理は睨む。
一体何者なのかが全くもって分からず、只々困惑するばかりだ。
「何で知ってる? ……俺の学校を知っていて、待ってたとしか思えない……」
対峙して呟くと、ふふん、と得意げに少女は微笑む。
「アティス、あたしに驚いたの?」
唇が単語を紡いだ瞬間、悠理の眉間には皴が寄った。
〈アティス〉とは花詞に掲げられた少年絵の題名。あの絵画を嫌う悠理には、忌まわしい言葉の並びだ。
「俺は悠理だ」
「ユウリ……。本名もすてき、あたしごのみよ」
「目的が分からない。どうして俺につきまとうんだ」
「云ったでしょ、先日に」
少女は立ち上がり、正面から見据えてきた。悠理は無視することも出来ず、視線を交わらせるしかない。
「あたし、小さな頃からあの絵がすきだったのよ。お菓子を買いに行くたびに見つめていた。そうしたらこないだ、ママが教えてくれた、バスの中でアティスそっくりな男の子……いいえ、そのものを見たって」
「ママ?」
尋ねつつも、悠理の思考には或る姿が導き出されていた。
喪服の淑女。バスで出逢い、トランプの飴玉を手渡してくれた女装の貴婦人が思い当たる。
「皇子さまが現実に存在すると訊いて、嬉しさに飛び上がったわ。ママはあたしのために色々と調べても呉れたの。画を描いた巻町 六花には私生児が居て、アティスのモデルは彼なのだと分かった……」
少女はうっとりとするような様相を見せた。
悠理は一層、惑う。
巻町に実子が居るなど、世間には伏せられている事だ。戸籍上、巻町は未婚のまま。息子の話を彼女が公ですることは決して無い。巻町と親しい花詞の女主人も、事情を知ってはいるが黙っていた。悠理の父も勿論だ。これまで、女流画家の秘密は固く守られてきた。
故に第三者から事実を指摘されたのははじめての事で、悠理は言葉を返せずに黙してしまう。
すると少女は、悠理の心の内を読んだかのように答えてきた。
「あたしのママは顔が広いのよ。地中に張り巡らされた根茎のように潤沢かつ複雑な人脈を持っているわ。だからね、駆使すれば何だって掴める。調べようと思えば簡単よ、貴方の通う学校を見つけることも訳ないわ」
平然と語る少女に、悠理は動揺を癒せない。少女はそっと腕を絡めてくる。
「俺が今日、早退することもわかってたのか」
尋ねれば、微笑された。
「まさか。貴方が来る迄待ってるつもりだっただけ」
「ずっと此処で……」
「そうよ。朝からとっても気分が良かったんだもの、お天気も良いし。こんな日こそ、貴方との第二幕に相応しい」
「第二幕?」
「色々と、ユウリとのシナリオを考えたのよ。第一幕は花詞の前で出会う場面。だから待ち伏せしたわ、それで今日は第二幕、デートに行くの!」
随分と勝手であり、強引な計画である。それとなく本名も呼び捨てにされ、悠理は反論した。
「俺の意志はどうなるんだ。尊重されないのか」
「するわよ。ねえ何処に行きたい?」
「行かないって選択肢は、」
「アティスはあたしに興味を持っている筈だわ。一緒に行くに決まってるでしょ」
自信たっぷりに云われ、悠理はため息を零す。
女という生き物は、勝手気ままな者ばかりなのだろうか。巻町といい、この少女といい。
眼前の大通りには、丁度、バスが滑り込んでくる。それも経由点に植物園を通る便が……少女を突き放し独りで乗るか、このまま伴い乗るか。迷ったが、不覚にも興味を覚えてしまっているのも事実。あの夜の女装夫人を〈ママ〉と呼ぶことも気になる。話を訊いてみたい気持ちを誤魔化せず、結局、停車した車には二人で乗り込んだ。
「ねえ、何処に行くつもり?」
少女は鞄を開き、蝦蟇口の財布を取りだすと自分の代金は自らで払った。悠理は定期券を使う。
「何処だと思う?」
通勤通学の時間とはズレている。車内には殆ど乗客がおらず、一人の老婆と、幼子を連れた若い母親しかいない。
悠理と少女は最奥の席に並び腰掛けた。動きはじめると、窓に映る停留所は直ぐに過ぎ去る。
「いきなりにお家に連れていかれるって事はないわよね。皇子さまは真面目そうだから図書館かしら」
「植物園に行こうと思うんだ」
悠理が答えれば、少女は嬉しそうな貌をする。
「本当? あたし好きよ、植物園。よく独りで行くもの」
少女は、悠理と同い年のようにも見えるが、年上にも見える。だが、年下と云われればそうとも捉えられるし、年齢の計れない姿形だ。
学校には行っていないのだろうか。不思議な白金髪は染めているのか、生来のものなのか。睛の色も見慣れない。けれど貌形は西洋人らしくはなく、日本人のつくりであり、国籍すら伺い知れない。
謎ばかりを纏っている彼女に、何から尋ねていいものか。気になる点は幾つもあり、悠理は質問に困った。
「……あのさ。訊きたいことが山積みだ」
少々悩んだ末、正直にそう打ちあけてみる。
「なあに、ユウリの問い掛けになら何にでも答えてあげる。ただし着いてからよ、歩きながらお喋りしたいわ」
「名前も教えてくれないのか?」
「〈ちせ〉って呼んで頂戴」
そう云うと、少女……ちせは、ぷいと窓の方を向いてしまった。




